スペイン王

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スペインのレオノール王女。マジョルカ島で(2012年4月8日撮影)
スペインのレオノール王女

スペイン王とは、スペインおよび現在のスペインにつながるイベリア半島の諸国を統治してきた君主共和制元首を含む)のことである。

アストゥリアス王国

統治期間 綽名 別名 備考
ペラーヨ 718年–737年 Pelayo コバドンガの戦いを通じて王国の土台を築き、カンガス・デ・オニスを首都にする。
ファビラ 737年–739年 Favilac、Fafila
アルフォンソ1世 739年–757年 カトリック王 アルフォンソ1世およびその子孫はアストゥリアス=レオン王家と形づけられる。
フルエーラ1世 757年–768年 残酷王 Froila
アウレリオ 768年–774年 Aurelio
シロ 774年–783年 アルフォンソ1世の娘で自身の妻であるアドシンダを介して王位を継承。首都をプラビアに移転。
マウレガート 783年–788年 簒奪王 Mauregato アルフォンソ1世の庶子で王位を簒奪
ベルムード1世 788年–791年 助祭王、修道士王 Veremund、Vermudo 修道士に復帰
アルフォンソ2世 791年–842年 純潔王 オビエドに首都を移転。
ネポシアーノ 842年 Nepociano 王位を簒奪。ラミーロ1世と後継を争い、敗れる。
ラミーロ1世 842年–850年 ネポシアーノを廃位。
オルドーニョ1世 850年–866年
アルフォンソ3世 866年–910年 大王 王国は3人の息子の間で分割され、ガルシア1世はレオンを 、オルドーニョ2世ガリシアを、フルエーラ2世はアストゥリアスをそれぞれ相続した。
フルエーラ2世 910年–925年 Froila 死後にアストゥリアスはレオン王アルフォンソ4世によって掌握され、他方、アルフォンソ・フロイラスは空しい王位請求を行った。

レオン王国

ペレス家

肖像画 名前 生誕 統治期間 死去 備考
[[File:Ordono1of 80px]] オルドーニョ1世 831年 al 850年 – 866年5月27日 866年5月27日
[[File:Alfonso III of Asturias 80px]] [[アルフォンソ3世 アルフォンソ3世]] 848年頃 866年 – 910年12月10日 910年12月10日
[[File:García I, rey de 80px]] [[ガルシア1世 ガルシア1世]] 871年頃 910年 – 914年 914年
80px オルドーニョ2世 873年頃 914年 – 924年 924年 910年以降はガリシア国王を兼ねる。
80px フルエーラ2世 875年頃 924年 – 925年 924 924年以降はガリシア国王を、910年以降はアストゥリアス国王をそれぞれ兼ねる。
[[File:Alfonso IV de 80px]] [[アルフォンソ4世 アルフォンソ4世]] 890年頃 924年 – 931年 933年 退位
80px [[ラミロ2世 ラミロ2世]] 900年頃 931年 – 950年 950年
[[File:Ordono III of 80px]] オルドーニョ3世 926年頃 align 951年 – 956年 956年
[[File:Sancho I el Craso, rey de 80px]] [[サンチョ1世 サンチョ1世]] ? 956年 – 958年 966年
[[File:Ordono IV of Leon 80px]] オルドーニョ4世 926年頃 align= 958年 – 960年 962年
[[File:Sancho I el Craso, rey de 80px]] [[サンチョ1世 サンチョ1世]] ? 960年 – 966年 966年
80px [[ラミロ3世 ラミロ3世]] 961年 966年 – 984年 985年
[[File:Bermudo II of 80px]] ベルムード2世 956年 align=" 982年 – 999年 999年
[[File:Alfonso V of 80px]] アルフォンソ5世 994年 align= 999年 – 1028年 1028年
[[File:Bermudo III de León (Ayuntamiento de 80px]] ベルムード3世 1010 align= 1028年 – 1037年9月4日 1037年9月4日

ヒメノ家

肖像画 名前 生誕 統治期間 死去 備考
[[File:Ferdinand 80px]] [[フェルナンド1世 フェルナンド1世]] 1017年 1037年 – 1065年 1065年
[[File:AlfonsoVI of 80px]] [[アルフォンソ6世 アルフォンソ6世]] 1040年6月以前 1065年 – 1072年1月 1109年6月29日/7月1日 兄弟により廃位
(数年後
復位)
80px サンチョ2世 1036/1038年 1072年1月 – 1072年10月7日 1072年10月7日 カスティーリャ国王を兼ねる (1065年–1072年)。
[[File:AlfonsoVI of 80px]] [[アルフォンソ6世 アルフォンソ6世]]
(復位)
1040年6月以前 align="center" 1072年10月7日 – 1109年6月29日/7月1日 1109年6月29日/7月1日 カスティーリャ 国王を兼ねる(1072年–1109)年
80px ウラカ 1082年 1109年 – 1126年3月8日 1126年3月8日 カスティーリャ女王を兼ねる(1109年–1126年)。

ブルゴーニュ家

この一族は男系ではウラカの夫ガリシア伯ライムンドの子孫にあたる

肖像画 名前 生誕 統治期間 死去 備考
80px アルフォンソ7世 1105年3月1日 1135 – 1157年8月21日 1157年8月21日 ガリシア国王(1111年–1157年) 及びカスティーリャ国王(1126年–1157年)を兼ねる。
[[File:TumboA 80px]] [[フェルナンド2世 フェルナンド2世]] 1137年3月1日 1157年–1188年 1188年1月22日
80px [[アルフォンソ9世 アルフォンソ9世]] 1171年8月15日 1188年–1230 1230年9月23日
80px フェルナンド3世 1199年7月30日ないし8月5日 1230年–1252年 1252年5月30日 1217年以降はカスティーリャ国王を兼ね、1671年に列聖 される。
以後は全ての国王がカスティーリャ国王を兼ねる。
[[File:Alfonso X el Sabio (Ayuntamiento de 80px]] [[アルフォンソ10世 アルフォンソ10世]] 1221年11月23日 1252 年–1284年 1284年4月4日
[[File:Sancho IV de Castilla (Ayuntamiento de 80px]] [[サンチョ4世 サンチョ4世]] 1257年ないし 1258年 1284年–1295年 1295年4月25日 align="ce
[[File:Fernando IV de Castilla (Ayuntamiento de 80px]] [[フェルナンド4世 フェルナンド4世]] 1285年12月6日 1295年– 1312年 1312年9月7日
[[File:Alfonso XI de Castilla y 80px]] [[アルフォンソ11世 アルフォンソ11世]] 1311年8月13日 1312年 –1350年 1350年3月26/27日
[[File:Pedro I de Castilla (Ayuntamiento de 80px]] [[ペドロ1世 ペドロ1世]] 1334年8月30日 1350年–136 9年 1369年3月23日

トラスタマラ家

エンリケ2世アルフォンソ11世の庶子であり、トラスタマラ公を創立した。

肖像画 名前 生誕 統治期間 死去 備考
[[File:Enrique II de Castilla (Ayuntamiento de 80px]] [[エンリケ2世 エンリケ2世]] 1334年1月13日 1369年–13 79年 1379年5月29日
[[File:Juan I de Castilla (Ayuntamiento de 80px]] [[フアン1世 フアン1世]] 1358年8月24日 1379年–139 0年 1390年10月9日
[[File:Enrique III de Castilla (Ayuntamiento de 80px]] [[エンリケ3世 エンリケ3世]] 1379年10月4日 1390年–14 06年 1406年
[[File:Juan II de Castilla (Ayuntamiento de 80px]] [[フアン2世 フアン2世]] 1405年3月6日 1406年–1454 1454年7月20日
[[File:Enrique IV de Castilla (Ayuntamiento de 80px]] [[エンリケ4世 エンリケ4世]] 1425年1月5日 1454年–147 4年 1474年12月11日
[[File:Isabel la 80px]] [[イサベル1世 イサベル1世]] 1451年4月22日 1454年–1 474年 1504年11月28日
80px フアナ 1479年11月6日 1504年–1555年 1555年4月12日 1506年に発狂、その 摂政は皆フアナの病気に付け込んだ一族の者であった。
摂政
[[File:Juan de Flandes 80px]] [[フェリペ1世 フェリペ1世]] 1478年7月22日 1504年–15 06年 1506年9月25日 フアナの夫
[[File:Michel Sittow 80px]] [[フェルナンド2世 フェルナンド5世]] 1452年3月10日 1506年–151 6年 1516年1月23日 フアナの父
1516年、スペイン連合王国は次第にスペインと呼ばれるようになり、カルロス1世 が最初の、スペイン国王である。
80px カルロス1世 1500年2月24日 1516年–1556年 1558年9月21日 フアナの息子で自らの権利で国王となる。

ナバーラ王国

イニゴ家 824年?–905年

イニゴ家824年頃にフランク王国の権威に反旗を翻すことでナバラ(パンプローナ)王国の土台を築いた。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
イニゴ・アリスタ
824年?–851/2年
[[Image:Íñigo Arista 100px|Íñigo Arista]] 4 人の子を儲ける 851/2年
ガルシア・イニゲス
851/2年–882年
イゴニ・アリスタの子 5 人の子を儲ける 882年
フォルトゥン・ガルセス
882年–905年
ガルシア・イネゲスの子 オリア
5
人の子を儲ける (905年廃位)

ヒメネス家 905年–1234年

905年、隣国との連携はフォルトン・ガルゼス修道院へ隠遁させるのを余儀なくさせ、その後には新王朝ヒメネス朝の子孫が王位についた。新王朝のもとでナバラの名称がパンプローナの名称に取って代わった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
サンチョ・ガルセス1世
905年–925年
García Jiménezと[[Dadildis de Pallars]]の子 Toda of Navarre
6 人の子を儲ける
925年12月11日
レサ
ヒメノ・ガルセス
925年–931年
García Jiménezと[[Dadildis de Pallars]]の子 Sancha of Navarre
3 人の子を儲ける
931年5月29日
ガルシア・サンチェス1世
931年–970年
919年
サンチョ・ガルセス1世と[[Toda
of Navarre]]の子 Andregota Galíndez
2人の子を儲ける
Teresa Ramírez of
León
3 人の子を儲ける
970年2月22日
51歳没
サンチョ・ガルセス2世
970年–994年
[[Image:Sancho II of 100px|Sancho II Garcés Abarca]] 935年後
ガルシア・サンチェス1世Andregotaの子
[[Urraca Fernández]]
4 人の子を儲ける
994年12月
ガルシア・サンチェス2世
994年–1000/1004年
サンチョ・ガルセス2世と[[Urraca Fernández]]の子 Jimena Fernández of Cea
981年
4
人の子を儲ける 1000/1004年
サンチョ・ガルセス3世
1004年–1035年
[[File:Lauda 100px|Sancho III the Great]] 985年
ガルシア・サンチェス2世Jimena Fernández of Ceaの子
[[ Muniadona Mayor]]
1010年
4 人の子を儲ける
1035年10月18日
ガルシア・サンチェス3世
1035年–1054年
1016年
[[サンチョ3世
サンチョ・ガルセス3世]]とMuniadona Mayorの子
1038年
9
人の子を儲ける 1054年9月15日
アタプエルカ
サンチョ・ガルセス4世
1054年–1076年
1039
ガルシア・サンチェス3世Estefanía of Barcelonaの子
Placencia
1068年
3 人の子を儲ける
1076年6月4日
Peñalén

サンチョ・ガルセス4世が暗殺されるとナバラは従兄弟のカスティーリャ王アルフォンソ6世アラゴン王サンチョ1世の侵略を受け、後者がナバラ王なり、半世紀の間アラゴン王国の支配下に置かれた。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
サンチョ5世ラミレス
1076年–1094年
[[Image:Sancho 100px|Aragon]] 1042年
[[ラミロ1世
ラミロ1世]]とErmesinde of Bigorreの子 [[Isabel of Urgel]]
1065年
1人の子を儲ける
[[Felicia of
Roucy]]
1076年
3人の子を儲ける
1094年6月4日
ウエスカ
52歳没
ペドロ1世
1094年–1104年
[[Image:Pietro I 100px|Aragon]] 1068年
[[サンチョ1世
サンチョ5世ラミレス]]とIsabella of Urgelの子 [[Agnes of Aquitaine]]
1086年
2人の子を儲ける
[[Bertha of
Aragon]]
1097年
子を儲けず
1104年9月28日
アラン谷
36歳没
アルフォンソ1世
1104年–1134年
[[Image:Alifonso I 100px|Aragon]] 1073年
[[サンチョ1世
サンチョ5世ラミレス]]とFelicia of Roucyの子 [[Urraca of Castile]]
1109年
子を儲けず
1134年9月8日
ウエスカ
61歳没

アルフォンソ1世の死はアラゴンを王位継承危機に導き、ナバラ貴族が暗殺されたサンチョ4世の大甥(庶兄弟を介する形となる)を王位につけることで王国の再建独立をするのに有利に働いた。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
ガルシア・ラミレス
1134年–1150年
[[Image:King of 100px|García Ramírez the Restorer]] [[ Ramiro Sánchez of Monzón]]とCristina Rodríguez Díaz de Vivarの子 Marguerite de l'Aigle
1130年
4人の子を儲ける
Urraca of Castile
1144年6月24日
2
人の子を儲ける 1150年11月21日
ロルカ
サンチョ6世
1150–1194
[[File:Sello de Sancho el 100px|]] 1133年
ガルシア・ラミレス とMarguerite de
l'Aigleの子 Sancha of Castile
1157年
6 人の子を儲ける
1194年6月27日
パンプローナ
[[サンチョ7世 サンチョ7世]]
1194年–1234年
Garcí a Ramírez the Restorer 1157年
トゥデラ
[[サンチョ6世
サンチョ6世]]とSancha of Castileの子 [[Constance of Toulouse]]
1195年
6人の子を儲ける
1234年4月7日
トゥデラ

シャンパーニュ家 1234年–1284年

シャンパーニュ伯参照

最後のヒメノ朝の君主サンチョ7世の死で、ナバラ王位はその妹ブランシュの子であるシャンパーニュ伯ティボー4世(テオバルド)に移り、ブランシュは長い間摂政を務めた。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
テオバルド1世
1234年–1253年
[[File:Theobald IV. of 100px|House of Champagne]] 1201年5月30日
トロワ
ティボー3世と[[Blanche of
Navarre]]の子 Gertrude of Dagsburg
1220年
子を儲けず
Agnes of
Beaujeu
1222年
1 人子を儲ける
[[Margaret of
Bourbon]]
1232年
6人子を儲ける
1253年6月8日
パンプローナ
52歳没
テオバルド2世
1253年–1270年
[[Image:Royal Coat of 100px|House of Champagne]] 1238年
テオバルド1世と[[Margaret of
Bourbon]]の子 [[イザベル・ド・フランス イザベル]]
1255年4月6日
子を儲けず
1270年12月4日
トラーパニ
32歳没
エンリケ1世
1270年–1274年
[[Image:Royal Coat of 100px|House of Champagne]] 1244年
テオバルド1世と[[Margaret of
Bourbon]]の子 ブランシュ・ダルトワ
1269年
2 人子を儲ける
1274年6月22日
30歳没
フアナ1世
1274年–1305年
[[Image:Jeanne de 100px|Joan]] 1271年6月14日
en:Bar-sur-Seine
エンリケ1世ブランシュ・ダルトワの娘 [[フィリップ4世 フィリップ4世]]
1284年8月16日
7人子を儲ける
1305年4月4日
[[Château de
Vincennes]]
34歳没

カペー家 1284年–1349年

フランス君主一覧参照

エンリケ1世の急死後、残された娘のフアナが唯一の後継者となり、その母ブランシュ・ダルトワが10年間摂政となった。1284年にフアナがのちのフランス国王フィリップ4世と結婚したことでブランシュの摂政統治は終わり、フィリップ4世は「フランスとナバラの王」を称した。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
[[フィリップ4世 フェリペ1世]]
1284年–1305年
1268年
フォンテーヌブロー
[[フィリップ
フィリップ3世]]とイザベル・ダラゴンの子 [[フアナ1世 フアナ1世]]
1284年8月16日
7人子を儲ける
1314年11月29日
フォンテーヌブロー<
Br>46歳没
ルイス1世
1305年–1316年
[[Image:Louis X of 100px|House of Capet]] 1289年10月4日
パリ
[[フィリップ4世
フェリペ1世]]とフアナ1世の子 [[マルグリット・ド・ブルゴーニュ マルグリット・ド・ブルゴーニュ]]
1305年9月21日
1人子を儲ける
[[クレマンス・ド・オングリー]
]
1315年8月19日
1 child
1316年6月5日
ヴァンセンヌ
26歳没
フアン1世
1316
[[Image:John I of 100px|House of Capet]] 1316年11月15日
パリ
[[ルイ10世
ルイス1世]]とクレマンス・ド・オングリーの子 未婚 1316年11月20日
パリ
5 日没
フェリペ2世
1316–1322
1292年
リヨン
フェリペ1世と[[フアナ1世
フアナ1世]]の子 ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
1307年
7
人の子を儲ける 1322年1月3日
ロングチャンプ
29歳没
カルロス1世
1322–1328
[[Image:Charles IV Le 100px|House of Capet]] 1294年6月19日
クレルモン=フェラン
[[フィリップ4世
フェリペ1世]]と[[フアナ1世 フアナ1世]]の子 ブランシュ・ド・ブルゴーニュ
1307年
2人子を儲ける
[[マリー・ド・リュ
クサンブール]]
1322年
4 人子を儲ける
1328年2月1日
ヴァンセンヌ
34歳没
フアナ2世
1328–1349
[[Image:Jana2Navarra 100px|House of Capet]] 1312年1月28日
シャラントン=ル=ポン
[[ルイ10世
ルイス1世]]と[[マルグリット・ド・ブルゴーニュ マルグリット・ド・ブルゴーニュ]]の子 フェリペ3世
8
人の子を儲ける 1349年10月6日
シャラントン=ル=ポン
37歳没

エヴルー家 1328年–1441年

en:Count of Évreux も参照

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
フェリペ3世
1328年–1343年
[[Image:King of Navarre 100px|House of Évreux]] 1306年3月27日
エヴルー伯ルイと[[:en:Margaret of
Artois]]の子 フアナ2世
8
人子を儲ける 1343年9月16日
ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ
37歳没
カルロス2世
1349年–1387年
[[Image:Charles le 100px|House of Évreux]] 1332年10月10日
エヴルー
フェリペ3世と[[フアナ2世
フアナ2世]]の子 [[ジャンヌ・ド・ヴァロワ ジャンヌ]]
7人子を儲ける
1387年1月1日
パンプローナ
54歳没
カルロス3世
1387–1425
[[Image:Carlos 100px|House of Évreux]] 1361年7月22日
ナント
[[カルロス2世
カルロス2世]]と[[ジャンヌ・ド・ヴァロワ ジャンヌ]]の子 エレオノール
1375年
8人子を儲ける
1425年9 月8日
オリテ
64歳没
ブランカ1世
1425–1441
[[Image:Royal Coat of 100px|House of Évreux]] 1385年
カスティーリャ
[[カルロス3世
カルロス3世]]とエレオノールの娘 [[マルティーノ1世 マルティーノ1世]]
1402年12月26日
1 人子を儲ける
[[フアン2世
フアン2世]]
1420年6月10日
4人子を儲ける
1441年4月3日
[[Santa María la
Real de Nieva]]
56歳没

トラスタマラ家 1425年–1479年

アラゴン君主一覧 も参照 {| width=90% class="wikitable" ! width=8% | 名前 ! width=8% | 肖像画 ! width=8% | 誕生 ! width=8% | 結婚 ! width=8% | 死去 |- |フアン2世
1425年–1479年 (de |facto)
1425年-1441年 (
de jure)||[[Image:Chuan II |d'Aragón.jpg|100px|John |II]]||1397年6月29日
メディナ・デル・カンポ
[[フェルナンド1世 |(アラゴン王)|フェルナンド1世]]とレオノール・デ・アルブルケルケの子||[[ブランカ1世 |(ナバラ女王)|ブランカ1世]]
1419年11月6日
4人子を儲ける
フアナ・エンリケス
2 |人子を儲ける
||1479年1月20日
バルセロナ
81歳没 |- |レオノール
1479||[[Image:Royal Coat of Arms of |Navarre (1479-1483).svg|100px|Aragon |Navarre]]||1425年2月2日
オリテ
フアン2世と[[ブランカ1世 |(ナバラ女王)|ブランカ1世]]の子||[[ガストン4世 |(フォワ伯)|フォワ伯ガストン4世]]
11人子を儲ける||1479年2月12日
トゥデラ
54歳没 |- |}

フアン2世に対する請求者, 1441年–1464年

フアン2世は妻の没後もナバラ王位を保持したが、子と長女は請求者且つ事実上の 君主であった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
カルロス4世
1441–1461
[[Image:Princep carles de 100px|Charles of Viana]] 1421年3月29日
ペニャフィエル
フアン2世と[[ブランカ1世
ブランカ1世]]の子 Agnes of Cleves
子を儲けず 1461年9月23日
バルセロナ
40歳没
ブランカ2世
1461–1464
[[Image:Royal Coat of Arms of Navarre 100px|Aragon Navarre]] 1424年
オリテ
[[フアン2世
フアン2世]]とブランカ1世の子 [[エンリケ4世 エンリケ4世]]
子を儲けず
1464年12月2日
en:Orthez
40歳没

フォワ家 1479年–1518年

en:Counts of Foix も参照

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
フランシスコ1世
1479年–1483年
[[File:Royal Lesser 100px|Navarre Foix]] 1469年4月18日
ガストン・ド・フォワと[[マドレーヌ・ド・フランス
マドレーヌ]]の子 未婚 1483年2月12日
ポー
13歳没
カタリナ
1483–1517
[[File:Royal Lesser Coat of 100px|Navarre Foix]] 1468年
ガストン・ド・フォワと[[マドレーヌ・ド・フランス マドレーヌ]]の娘 [[フアン3世 フアン3世]]
13人子を儲ける
1517年2月12日
モン=ド=マルサン
49歳没

アルブレ家 1518年–1572年

フアン3世1512年フェルナンド2世に敗北したが、この時フェルナンド2世はナバラ南部を征服してナバラ国王として戴冠した。 フェルナンド2世以後はアラゴン君主一覧及びスペイン君主一覧を参考のこと。1512年以降のナバラの君主は単にピレネー山脈以北の低ナバラ(バス・ナヴァール)一帯を支配するに留まった。

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
フアン3世
1484–1516
[[File:Royal Coat of Arms of 100px|Navarre-Albret]] 1469年
[[:en:Alain I
of Albret]] とen:Francoise of Châtillon-Limogesの子 [[カタリナ カタリナ]]
13 人子を儲ける
1516年6月14日
ポー
47歳没
エンリケ2世
1517年–1555年
[[Image:Henri 100px|Navarre-Albret]] 1503年4月18日
サングエサ
[[フアン3世
フアン3世]]と[[カタリナ カタリナ]]の子 マルグリット
1526年
2人子を儲ける
1555年5月 25日
Hagetmau
52歳没
フアナ3世
1555年–1572年
[[Image:Jeanne 100px|Joan III]] 1528年1月7日
サン=ジェルマン=アン=レー
エンリケ2世マルグリットの娘 [[アントワーヌ アントニオ]]
1548年10月20日
5
人子を儲ける 1572年6月9日
パリ
44歳没

カペー家 1572年–1620年

ブルボン家 1572年–1620年

名前 肖像画 誕生 結婚 死去
[[アントワーヌ アントニオ]]
1555年-1562年
100 King Anthony 1518年4月22日
en:La Fère,
ピカルディ
[[シャルル・ド・ブルボン
ヴァンドーム公シャルル・ド・ブルボン]]のフランソワーズ・ダランソン フアナ3世< br>1548年10月20日
5 人子を儲ける
1562年11月17日
レ=ザンドリ,
ウール
44歳没
エンリケ3世
1572年–1610年
[[Image:Henry IV of france by pourbous 100px|Navarre-Albret]] 1553年12月13日
ポー
[[アントワーヌ
アントニオ]]とフアナ3世の子 (1) マルグリット・ド・ヴァロワ
1572年8月18日
後継者を儲けず
(2)
マリー・ド・メディシス
1600年12月17日
6
人子を儲ける 1610年3月14日
パリ
57歳没
ルイス2世
1610年–1620年
[[Image:Louis XIIIval 100px|Louis II]] 1601年9月27日
フォンテーヌブロー宮殿
[[アンリ4世
エンリケ3世]]とマリー・ド・メディシスの子 アンヌ・ドートリッシュ
1615年11月24日
6
人子を儲ける 1643年5月14日
パリ
41歳没

ナバラ国王エンリケ3世がフランス国王アンリ4世になったことで以後は、ナバラ王位はフランス国王の手に渡った。 1620年にナバラ王国はフランスに併合されたが、フランス国王は1791年までナバラ国王 の称号を用い続け、1814年から1830年までの復古王政期間中に復活した。

カルリスタのスペイン王位請求者はカルリスタ戦争中にスパイン・ナバラで勢力を誇ったが、その一派の請求は普通はスペイン全土の王号であった。

現在の請求者

カスティーリャ王国

ヒメノ家

君主 肖像画 綽名 統治の開始 統治の終了 備考
フェルナンド1世 80px 大王 1037年 1065年12月27日 レオン国王を兼ねる
サンチョ2世 80px 強王 1065年12月27日 1072年10月6日  
アルフォンソ6世 80px 勇敢王 1072年10月6日 1109年6月30日 レオン国王を兼ねる
ウラカ 80px   1109年6月30日 1126年3月8日 レオン女王を兼ねる

ボルゴーニャ(ブルゴーニュ)家

以下の王朝はウラカの最初の夫ガリシア伯ライムンドの男系子孫である。

君主 肖像画 綽名 統治の開始 統治の終了 備考
アルフォンソ7世 80px 皇帝 1126年3月10日 1157年8月21日 レオン国王を兼ねる
サンチョ3世 80px 強欲王 1157年8月21日 1158年8月31日  
アルフォンソ8世 80px 高貴王 1158年8月31日 1214年10月6日  
エンリケ1世 80px   1214年10月6日 1217年6月7日  
ベレンゲラ 80px 女帝 1217年6月6日 1217年8月30日 最愛の息子であるフェルナンド3世に譲位する; 1246年死去
フェルナンド3世 80px 聖王 1217年8月30日 1252年5月30日 1230年以降はレオン国王を兼ね、以後の王は皆レオン王位を兼位する。
アルフォンソ10世 80px 賢王 1252年5月30日 1284年4月4日 1257年にローマ王に選出され、1275年に放棄するまでこの称号を請求した。
サンチョ4世 80px 勇敢王 1284年4月4日 1295年4月25日  
フェルナンド4世 80px 召集王 1295年4月25日 1312年9月7日  
アルフォンソ11世 80px 正義王 1312年9月7日 1350年3月26日  
ペドロ1世 80px 残酷王 1350年3月26日 1369年3月23日  

カスティーリャ及びレオン王位の請求者

ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントペドロ1世の娘であるコンスタンスとの結婚を利用してカスティーリャ及びレオンの王号を請求した。ランカスター公は王号を確固とするためロンドンから遠征を強行するなどして幾つかの軍事的行動を起こしたが、成功することはなかった。

トラスタマラ家

アルフォンソ11世の庶子であるエンリケ2世に始まり、トラスタマラ公を創立する。

君主 肖像画 綽名 統治の開始 統治の終了 備考
エンリケ2世 80px 庶子王 1369年3月23日 1379年5月29日 1366年から王位を請求
フアン1世 80px   1379年5月29日 1390年10月9日  
エンリケ3世 80px 病弱王 1390年10月9日 1406年12月25日  
フアン2世 80px   1406年12月25日 1454年7月21日  
エンリケ4世 80px 無能王 1454年7月21日 1474年12月11日  
イサベル1世 80px カトリック女王 1474年12月11日 1504年11月26日 夫のアラゴン国王 フェルナンド2世と共同統治
フェルナンド5世 80px カトリック王 1475年1月15日 1504年11月26日 en:jure uxoris 王、妻のイサベル1世と共同統治
フアナ 80px 狂女王 1504年11月26日 1555年4月12日 名目上時は夫のフェリペ1世が代行(1504年–1506年)。
幽閉時はフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス摂政として代行 (1506年–1516年)。
幽閉時は息子のカルロス1世が代行 (1516年–1555年)。

ハプスブルク家

君主 肖像画 綽名 統治の開始 統治の終了 備考
フェリペ1世 [[File:1500 Meester van de Magdalena legende - Filips de Schone, 80px]] 美王 1506年7月12日 1506年9月25日 en:jure uxoris 王として妻のフアナの半分を統治。
カルロス1世 80px   1516年5月13日 1556年1月16日 母のフアナが幽閉された1555年から共同統治、
1556年に最愛の息子に譲位、1558年9月21日に死去。

以後の君主はスペイン君主一覧を参考のこと。最初にスペイン国王の称号を用いたのはカルロス1世(自身はカスティーリャ、アラゴン以下その他スペインの領邦の王であった)の息子であるフェリペ2世である。それにも係わらず、カスティーリャ王国はスペイン連合王国内部で独自の権利を有し、それはスペイン継承戦争後のボルボーン朝まで続いた。

アラゴン王国

アラゴン君主一覧参照

カスティーリャ=アラゴン連合王国

トラスタマラ家
  • イサベル1世(カスティーリャ女王:1474年 - 1504年)
  • フェルナンド2世(カスティーリャ王(フェルナンド5世):1474年 - 1504年、カスティーリャ摂政:1504年 - 1516年、アラゴン王:1479年 - 1516年)
  • フアナ(カスティーリャ女王:1504年 - 1506年) 正式には1504年 - 1555年1516年以降、カルロス1世が王を代行する。
    • フェリペ1世(カスティーリャ王:1504年 - 1506年) - スペイン貴族の承認を得られず詐称した。

スペイン

アブスブルゴ朝
ボルボン朝

カルロス2世の死去に伴い断絶したアブスブルゴ(ハプスブルク)家に代わってボルボン(ブルボン)家のアンジュー公フィリップが祖父のルイ14世の後押しによって国王として即位、フェリペ5世と名乗った。これはスペイン継承戦争を引き起こしたが、王位が承認されてからは幾度もの中断期を挟みながらも現在に至る。

ボナパルテ朝
ボルボン朝〔第1次復古〕
サボヤ朝
第一共和国
ボルボン朝〔第2次復古〕
第二共和国
共和国崩壊後
ボルボン朝〔第3次復古〕

スペイン国王が退位、後継はフェリペ皇太子に(2014年)

レオノール王女の祖父であるスペイン国王フアン・カルロス1世(King Juan Carlos、76)が退位を決めた今、彼女の生活はこれまでと同じという訳にはいかないだろう。

父のフェリペ皇太子(Prince Felipe、46)が王位に就けば、彼女はもうただの王女ではなくなる。王位継承権のある王女、欧州の王室で最も若い王位継承者になるのだ。

彼女の青い瞳とブロンドの髪、顔いっぱいの笑顔は、まさにスペイン王室のイメージ回復に必要な魅力だと、王室ウオッチャーたちは口をそろえる。

「これまで彼女の両親は意図的に彼女を守り、新聞などに掲載されないようにしてきた。しかしそのような日々ももう終わる」と、皇太子の伝記を執筆するホセ・アペサレナ(Jose Apezarena)氏は言う。「彼女には少し気の毒に思う。そのような変化が彼女の自由をいくらか奪ってしまうことになるのだから」

フェリペ皇太子とレティシア皇太子妃(Princess Letizia)は、2005年10月31日にレオノール王女が誕生して以来、メディアからセレブ的な扱いを受けている。元ニュースキャスターだったレティシア皇太子妃自ら、新聞の一面を何度となく飾ってきた。

長身の皇太子に華やかな皇太子妃、レオノール王女と妹のソフィア王女(Princess Sofia、7)のかわいい姉妹──世界一キュートなロイヤルファミリーなのかもしれない。

皇太子夫妻は娘たちにできるだけ普通の子供時代を過ごさせようと、できるだけ世間の目から遠ざけてきた。その甲斐あって、マスコミが姉妹の写真を撮る機会はこれまで限られていた。

「レオノール(王女)はとても賢い子供だ。活動的だが落ち着いてもいる。カメラにはとても穏やかな目を向ける」と、アペサレナ氏は言う。

フェリペ皇太子が国王になれば、レティシア王女は女王に、レオノール王女にはアストゥリアス王女の称号が与えられる。今後、レオノール王女は王位継承者として父親と同様に準備を進めることになる。将来は軍での訓練も受け、18歳で国王とスペイン憲法に忠誠を誓わなければならない。

宮殿の中にいるレオノール王女には、王政に反対する外の声はほとんど聞こえないかもしれない。フェリペ皇太子の戴冠は6月19日になる見込みだが、新国王はその瞬間から、これまでの王室での腐敗とスキャンダル、そしてスペインの不況に辟易とした国民からの支持を得るべく動かなければならない。そのためには、新しい後継者であるレオノール王女が大きな味方になるだろう。

アペサレナ氏は、「公の場に姿を見せるたびにレオノール王女とソフィア王女は人々から暖かく迎えられている。とてもかわいく、健やかに成長している少女たちだ」と述べ、「今後、こういったイメージをより多く目にするようになるだろう。彼女たちへの愛情は、新国王にとっても役立つはずだ」と続けた。

関連項目