志帥会
テンプレート:Infobox 組織 志帥会(しすいかい)は、自由民主党の派閥。通称は伊吹派(村上・亀井派→江藤・亀井派→亀井派→旧亀井派→伊吹派)。
目次
沿革
結成
1998年11月30日、政策科学研究所(中曽根派→渡辺派→旧渡辺派)の後継をめぐり、山崎拓グループが近未来政治研究会(山崎派)を結成して旧渡辺派から分離独立した。派閥のオーナーであった中曽根康弘らは、派内の路線対立により清和会(三塚派)から離脱していた亀井静香グループと合流し、1999年3月18日に志帥会を結成した。平沼赳夫が、孟子の「志は気の帥なり」から命名。当初は村上正邦が「成蹊会」を発案していたが、「成蹊大学のOB会のような名前だ」と不評であったため、却下された。
旧渡辺派から山崎派が分離独立する際、旧渡辺派所属の参議院議員については、当時参院幹事長だった村上がまとめあげていたため、山崎派への賛同者は少なかったが、衆議院議員は中堅・若手の大半が山崎派に移行したため、旧渡辺派側はベテラン議員が多く残ってしまった。一方の亀井グループ側は、所属衆議院議員の半数以上を経験不足の当選3回以下の若手が占めていた。このため、共に影響力を削がれた少数派閥として両派は思惑が一致し、派閥の「対等合併」により志帥会は一気に衆参あわせて60人規模の大派閥となった。
1999年3月18日、初代会長に「参議院の法王」の異名を取った村上が、会長代行に亀井がそれぞれ就任。翌1999年、村上が参議院議員会長に選出されたことを受けて、第二代会長に江藤隆美が就任した(亀井は会長代行のまま)。
2001年の小泉政権誕生以降は、江藤と亀井は、いわゆる小泉の言う「抵抗勢力」の代表格として、小泉改革を批判する急先鋒となった。
亀井会長時代
江藤の政界引退表明を受け、2003年10月10日に亀井が第三代会長に就任したが、亀井が会長に就任してから間もなく、同年の第43回衆議院議員総選挙における公認問題を巡って、同派の最高顧問だった中曽根が小泉首相から直々に政界引退の引導を渡された。
また、当時落選中だった同派の元幹部・与謝野馨は、「(志帥会は)地方への利益誘導を進める抵抗勢力の印象が強い。都市部を地盤とする自分にはそぐわない」として派閥を離脱、同年議員に返り咲いた後も無派閥を選択した。続いて2004年には、亀井派長老の武藤嘉文が亀井の派閥運営を批判して派閥を脱会し、中曽根系と亀井系との埋まらぬ溝を露呈した形となった。当時、志帥会の総裁候補は亀井であり、亀井の次は平沼(亀井グループ)と目された。また、それまでの入閣でも人数が少なかった亀井グループの方が優遇されており、中曽根系のベテランの中には不満がたまっていた。
郵政政局
2005年の郵政国会では郵政民営化法案の審議を巡って、派内では亀井・平沼・小林興起ら反対派と、この方針に与しない伊吹文明・谷津義男・松岡利勝ら賛成派との確執が表面化し、志帥会は分裂状態となった。
8月8日、同派出身で郵政解散に異を唱え亀井に一定の理解を持っていた島村宜伸が、小泉首相から郵政解散当日に農水大臣を罷免された。その後、かねてから亀井の地方への利益誘導・公共事業バラマキに批判的だった水野賢一、2003年落選し元職佐藤静雄らが同派離脱を表明。
8月15日、亀井は、郵政解散が予想に反して実際に起こってしまった責任、および、そのために派内が分裂した責任をとって派閥会長を辞任した。亀井は同日、国民新党の結党に参加した。
派内の郵政民営化法案反対組で亀井と行動を共にしなかった衆議院議員たちのうち、平沼、古屋圭司らは無所属となり、青山丘、小林、荒井広幸らは新党日本に参加した。個々の選挙区事情の違いなどのため、造反組の足並は揃わなかった。
結局、自民党が郵政選挙で大勝する中、亀井ら郵政民営化反対派が離党を余儀なくされたため、志帥会は津島派と並んで大幅な勢力が減退した派閥となった。また、かつては次期参議院議長と言われた参院志帥会会長の中曽根弘文は、結果的に、亀井に与して参議院で法案否決→解散総選挙→派閥縮小という流れを作った当事者として面目を失うことになった。
伊吹会長時代
2005年9月15日、郵政民営化法案に賛成した会長代行の伊吹が派閥の次期代表に内定したが、派内に反発の声があり、正式就任は見送られた。同年12月14日に反対していた島村を名誉会長に棚上げすることで、伊吹の正式な会長就任の運びとなった。
亀井・平沼らが自民党を離党した後、伊吹らは「亀井派」のイメージを払拭するため、平沼が命名した「志帥会」の名称を変更する事も検討していたが、派内の反発もあり断念した。
亀井・平沼の自民復帰もままならず、会長の伊吹も総理・総裁への意欲を見せていないことから、現在、独自の総裁候補を擁立しようとしている派閥としては受け止められていないが、中川昭一が将来の潜在的な総裁候補であろうと目されていた。
2007年3月15日、名誉会長だった島村が派閥を退会。これは、亀井の離脱以来、派内における主導権争いにおいて島村が伊吹と対立していたことや、島村が郵政解散に反対していた経緯から、「刺客」として選挙を戦った同派の西川京子や鍵田忠兵衛との間に確執が生じていたことなどが原因と見られている。
2007年の総裁選において、伊吹派は古賀派や町村派と連携して麻生派を除く八派閥で福田支持を固め、「麻生包囲網」を敷いたが、伊吹派からは麻生太郎の総裁候補推薦人を5人も出したため、伊吹派は福田支持で固まっていない派閥と見られた。尚、伊吹派所属議員で麻生支持を明確にした議員は28人中20人。9月24日、伊吹が福田康夫総裁の下で幹事長に就任。志帥会からの幹事長輩出は派閥創設以来初で、中曽根派―渡辺派―旧渡辺派時代を含めても3人目である。これに伴い、伊吹が派閥会長職を離れて会長職は形式的に空席となり、中川昭一が会長代行に就任した。
福田内閣改造によって幹事長を辞任した伊吹は派閥会長職に復帰。福田康夫の電撃的な首相辞任に伴う、2008年の自民党総裁選においては、麻生太郎・元外相の支持を派閥として決定。中川昭一が麻生支持の流れを作り、同年9月4日の役員会でその旨が確認された。
2009年の総選挙では会長の伊吹が比例で復活当選となり将来の会長候補と目されていた中川昭一らが落選し派閥勢力がさらに削がれ、その中川昭一が選挙後の10月に急逝したことも派閥運営に痛手となった。こうした状勢の変化を受け、2005年に自民党へ吸収合併された保守新党出身者により構成される二階派との合併が模索された結果、11月5日を以て二階派は伊吹派へ合流した[1]。
政策
党内でも屈指の真正保守型でタカ派色が強い派閥であるが親米色は少し薄く、親米保守色の強い清和政策研究会やハト派・親アジアの宏池会などとは一線を画している。 国防・統治政策では平沼赳夫などの強い影響から清和会分裂組の合流後は改憲意欲の強い議員北朝鮮強硬派、外国人参政権や人権擁護法案の反対派も多くなり、特に人権擁護法案は反対派の集団・真の人権擁護を考える懇談会への参加率が高い。 そのため2007年自由民主党総裁選挙では派で福田康夫の支持を表明したが相当の議員が保守色が強い麻生太郎へ流れている。 また、日本の伝統文化・産業を重んじる傾向があり、郵政民営化ではアメリカ型格差社会への反対から採決に造反した組も多い。 農政においては、中川昭一や松岡利勝(その後自殺)が、保護主義という従来型の受身農政から「攻めの農業」に転換し、EPA推進に熱心。 土木行政では過去に建設大臣や運輸大臣を経験したものが多いためかニューディール政策型の配分行政、悪く言うならばバラマキ行政の族議員が多く、小泉純一郎が進めた構造改革下では抵抗勢力として批判され、反主流派のレッテルが主流派やマスコミから貼られたこともあった。とりわけ、当時の領袖だった亀井静香元建設相は、現在では犯罪とされる談合を「正義」と公言して憚らなかったことから、派の負のイメージに拍車がかかった。 また、読売新聞社の社主でもあった政治家・正力松太郎が志帥会の設立当時から協力していたこともあり、同社グループとの関係が極めて深く、現在の読売新聞社代表取締役会長・渡邉恒雄は中曽根康弘との個人的親交もあり、志帥会の後見人役となっている。このため志帥会の政策にも渡辺の意向が反映されることが多い。
歴代会長
1 | 村上正邦 | 1998年 - 1999年 |
2 | 江藤隆美 | 1999年 - 2003年 |
3 | 亀井静香 | 2003年 - 2005年 |
4 | 伊吹文明 | 2005年 - |
現在の構成
役員
会長 | 会長代行 | 事務総長 |
---|---|---|
伊吹文明 | 二階俊博 |
所属衆議院議員
伊吹文明(9回、比例近畿) | 二階俊博(9回、和歌山3区) | 河村建夫(7回、山口3区) | 古屋圭司(7回、比例東海) |
柳本卓治(6回、比例近畿) | 谷公一(3回、比例近畿) | 江藤拓(3回、宮崎2区) | 松浪健太(3回、比例近畿) |
長島忠美(2回、比例北陸信越) | 伊東良孝(1回、北海道7区) |
(計10名)
所属参議院議員
中曽根弘文(4回、群馬県) | 矢野哲朗(3回、栃木県) | 泉信也(3回、比例区) | 中川義雄(2回、北海道) |
鶴保庸介(2回、和歌山県) | 椎名一保(2回、千葉県) | 衛藤晟一(1回・衆院4回、比例区) | 秋元司(1回、比例区) |
(計8名)
脚注
- ↑ (2009年11月5日) 自民・二階派、伊吹派に合流…衆参18人に YOMIURI ONLINE 読売新聞 [ arch. ] 2009年11月5日