マゾヒズム
マゾヒズム (被虐性欲、Masochism) とは、肉体的精神的苦痛を与えられたり、羞恥心や屈辱感を誘導されることによって性的快感を味わったり、そのような状況に自分が立たされることを想像することで性的興奮を得る性的嗜好の一つのタイプである。極端な場合は精神疾患とも見なされ、この場合は性的倒錯(パラフィリア)となる。また、世界保健機関 (WHO) の ICD ではジル・ドゥルーズの批判にもかかわらず、サディズムとマゾヒズムは相関関係にあるという考えを背景に、両者を今なお「サドマゾヒズム」(F 65.5) という疾患名で包括している。しかしながら近年デンマークにおいては、マゾヒストの人権に配慮して、マゾヒズムは精神疾患とは見なされなくなった。
マゾヒズムという発音・表記はドイツ語と英語の混淆したものと推測される。発音は、英語ではマソキズム、ドイツ語 (Masochismus) ではマゾヒスムスに近い。マゾヒズム・マゾヒストは M と略され、対義語のサディズム・サディストは近年では S と略される。
語源
『毛皮を着たヴィーナス』(Venus im Pelz) など自伝的な作品で、身体的精神的苦痛を性的快楽と捉える嗜好を表現したオーストリアの作家レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの名前に由来してこう呼ばれる。マゾヒズムの概念を提唱したのは、クラフト=エビングである。性的な倒錯として定義されたが、後に、被虐的な傾向一般をマゾヒズム (Masochism) と言うようになり、性的嗜好のマゾヒズムは、「性的マゾヒズム」(Sexual Masochism) とも言い分けて区別することがある。
マゾヒスト
マゾヒズムの嗜好を持つ人を「マゾヒスト」と呼ぶ。俗語で「マゾ」と呼ぶ(用例「マゾ女」など)が、単に「マゾ」と略すと、マゾヒストとマゾヒズムの両方の意味がある。被虐性淫乱症とも呼ぶが、これは変態性欲の通俗概念などと同様、多分に差別的な呼称である。
マゾヒズムとは何か
人間が社会生活を行なっていれば様々な理不尽と思える状況に直面することがある。そういったときに「自分が我慢すればよい」と不当な圧力や要求に耐える人が存在する。また「囚われのお姫様」や「苦難を乗り越え進む英雄」と言ったヒロイックな状況は、苦痛・圧迫を伴いながらも陶酔感や大きな達成感が得られる。そのためどのような人間でも被虐嗜好的要素を持ち合わせていると言える。こうした自己犠牲や苦痛や逆境への親和が、実は、性的嗜好としてのマゾヒズムの基盤にある。
理不尽に他人から暴力を振るわれて、それでも「自分が悪かった」「自分が我慢すればいい」と考えるのは防衛機制であるが、マゾヒズムの心理には、このような機制が存在すると言うべきである。また自罰的傾向のある人は、他者から与えられる身体的精神的な加虐によって、かえって心の安定が得られることがあり、ここでもマゾヒズムへの趨向が見出される。
マゾヒズムはこのように、個人の自我の心理的な安定機制と深く関係している。これに対し、他者から苦痛や加虐を与えられて単に喜ぶだけの心理はマゾヒズムではないとする考えがある。しかし、性的な状況においてこのような機制が働けば、性的快感や性的興奮に繋がるのであって、それは即ち性的マゾヒズムであり、自虐的な心理傾向を、性的嗜好としてのマゾヒズムと区別する方が寧ろおかしい。このような区別の背景には、マゾヒズムを先天的な気質あるいは人格の基底的趨向とする見方があるが、この考えは実証されていない。
- マゾヒズムのなかには、先天的な素因が想定できるものがあるが、しかし、「マゾヒズム」という単一の心理趨向があるという根拠がそもそも存在しない。性的嗜好は、嗜好の現象的様態による分類把握であって、マゾヒズムのような心理機制がどのように成立しているのか、複数の機構が想定でき、更にそれ以上の多数の未知の要因が関係していると言うべきである。
ある種類のマゾヒズムは精神障害として、性的倒錯に規定されている。このことより差別性が生まれることがある。また、世間一般で、マゾヒストは変態だとか異常だとかいう偏見も存在する。しかし、性的嗜好における異常とか正常という問題は難しい(詳細は正常と異常、性における健康を参照)。
SMについて
マゾヒストがその性的嗜好を満たそうとするとき、必ずしもパートナーとして、サディズムの人を選ぶ必要はない。人間関係の一環としての性的な交際においては、程度にもよるが、ソフトな水準のマゾヒズム嗜好を、相手がサディスティックな行為によって満たすことはそれほど不可能なことではない。また、相手にサディズムの性的嗜好がある場合は、ある意味で理想的なカップルだとも言える。
しかし、マゾヒストやサディストという単純な区分は、微妙な個々人の性的嗜好のありようを表現できないのであり、失神するまで鞭で打つ、棒で殴るなどの加虐を受けて満足するマゾヒストもいれば、それは暴行、虐待に過ぎないと感じるマゾヒストもいる。相手との人間関係を配慮し、互いの嗜好についてある程度の妥協が行われる場合、そして両者のあいだの行為において満足が得られていれば SM という概念が成立する。
サディズムにしろマゾヒズムにしろ、個人ごとで求める性的嗜好の内実の質は異なるのだという認識が重要である。これを無視して「サド男」や「マゾ女」など、先入観に基づく勝手な条件を相手に求めるとき、そんな好都合な条件に合う相手は極めて少ない、あるいはそもそも存在しないということを知ることになる。売春などで、マゾヒズム(あるいはサディズム)を売りにしている相手との行為などの場合は、相手が金銭と交換に「好都合な条件」を満たしてくれているのである。こういう形でも SM が成立する。
マゾヒズムである人間が同時にサディズムであるケースがあり、同じことであるが逆の場合もある。このような場合、サドマゾヒズムとかサドマゾヒスト、略して SM、サドマゾという。マゾヒズムの人間やサディズムの人間は必ずサドマゾヒズムなのかというと、一概には言えない。「サディズムとマゾヒズムは表裏一体である」という主張があるが、一般的にはそうとはいえず、俗説と言うべきである。なお、このような俗説が信じられている要因として、「サディズム」の語源となったマルキ・ド・サドと「マゾヒズム」の語源となったザッハー=マゾッホが両者共にサドマゾヒズム(サドは元来マゾヒズム的な嗜好を持っており、マゾッホは結婚した際、SMプレイで妻にM役を命じた)であったとことが理由だろうと考えられる。
快楽
縄で吊るされる、鞭で打たれる、といったハードな SM 行為はかなりの疲労と興奮をもたらす。そのため脳内麻薬物質の分泌が盛んになり、いわゆる「ハイ」な状態が起こる。これが、マゾヒストの快感の源だとする説がある。他方、行為がなくとも、状況を想像するだけで陶酔があり、快感が得られるという人も存在する。
BDSM一般に言えることであるが、マゾヒズムにおいてもサディズムにおいても、心理的な補償や、カタルシスの効果が背景に多く存在する。発達課程におけるインプリンティングや学習、文化的・社会的な自己の存在主張(現存在の意味充足)などの実存的なプロセスもあり、人間における自由と束縛をめぐる心理複合の所産とも言える。マゾヒズムの場合は、とりわけ複雑な現存在のありようが背景にあると考えられる。