藤沢母娘殺人事件
藤沢母娘殺人事件(ふじさわおやこさつじんじけん)とは、1982年(昭和57年)5月27日に神奈川県藤沢市で、当時21歳の藤間静波が女子高生とその家族2人を惨殺した事件。この事件以外に、2人を殺害していたことが逮捕後に判明。警察庁広域重要指定事件112号に指定された。
事件
1982年5月27日の夜、会社員男性が帰宅すると、家の中で2人の娘が刃物で殺害されているのを発見。110番通報するも電話が繋がらず、隣家の電話で通報する(後に電話線を切断されていたことが判明)。やがて駆けつけた警官が勝手口で殺害された会社員の妻を発見。いずれも刃物でメッタ刺しにされており、妹の腕には文化包丁が、妻は小刀が背中に突き刺さったままだった。また台所には新品の刺身包丁が血だらけになって転がっていた。
被害者たちと違う血液型の血液が検出されたこと、家人に見覚えのない文化包丁や刺身包丁や小刀の存在から、警察は怨恨による殺害と断定。さらに上の娘に会わせろと執拗に家に訪ねてきた男性の電話番号を記したメモから、藤間が浮上。6月14日に埼玉県大宮市で逮捕。
逮捕後、藤間が事件前に金のトラブルから仲間1人を殺害、さらに本事件の共犯者1人を口封じのため殺害していた事が判明。
犯行の動機
藤間は中学卒業後、職を転々としながら、1977年に事務所に侵入した罪で逮捕されて試験観察となるも、翌年ひったくりで再逮捕され少年院に送致。出所後、家族と同居するも喧嘩ばかりで、中でも妹に対して猛烈な暴力を振るっていた。事件発生前の4月、家出をして、少年院時代の仲間Bが住んでいた社員寮に転がり込む。やがて藤間もその会社に就職するが、間もなく二人は会社を辞め、ひったくりをしながら生計を立てアパートを転々としていた。ある日、Bに金を盗まれて激怒した藤間は、横浜市のキャベツ畑でBをメッタ刺しにして殺害。すぐに重要参考人として警察に呼ばれるが、藤間の母親が嘘の証言をして釈放されてしまう。
その後、藤間は女子高生Aさんを通りで見かけて一目惚れして、猛烈にアタックしてようやくデートするも、彼女には交際する気がないことを知ると、一転、愛情が憎しみに変わり、ストーカー行為や無言電話などを始める。家に押しかけてくる藤間に、Aさんの家族もいいかげんにしろという態度に出るようになり、とうとう彼は一家殺害を計画、文化包丁や小刀を購入したり、刺身包丁を盗んだりして準備を始める。
一家殺害を計画しているところ、藤間は少年院時代の仲間Cに出会い、Cから犯罪で一儲けしないかと誘われ、犯行計画を告白。最初は躊躇していたCだが、結局は共犯となることに同意。
やがて犯行当日、藤間はAさん宅に押し入り、母娘3人を殺害。Cはただ傍観してるだけだった。犯行の際に負った傷の手当てのため、タクシーで二人は藤間の家に帰宅。母親の手当てを受けながら藤間は3人を殺したことをあっさり告白。すぐに親は自首するように説得するも、警察に言ったら殺すという捨て台詞を残してCと共に関西方面に逃走。6月5日、兵庫県でCと空き巣をやった後、藤間はCをメッタ刺しにして殺害。6月14日に逮捕されるまで、埼玉県の工事宿舎で寝泊りしながら、群馬県の工事現場で働いていた。
裁判
藤間は逮捕直後は犯行否認をしていたが、6月23日に犯行を自供する。
1988年3月10日、地裁で死刑判決(すぐに控訴)。閉廷直前、「何か言いたいことはあるか?」と裁判長から聞かれた藤間は、暴力団幹部の名前を挙げる。すぐに裁判長が制止させたが、藤間は薄笑いを浮かべながら傍聴席にいる報道陣に向かってVサインをした(裁判中も度々、報道陣に向かってVサインをして、新聞や週刊誌で報道されていた)。
1991年4月23日、藤間は拘置所から控訴取り下げ書を提出したものの、弁護士が「まともな精神状態ではない」と異議申し立てをして、控訴取り下げ書は破棄。
藤間の死刑から、死刑執行日、死刑囚の氏名、犯罪事実の概要、執行場所が法務省より公表されるようになった。それまで死刑執行が行われても、ごく一部の限られた死刑執行のみ新聞やテレビで報道される程度だった。
関連書籍
- 遠藤允『静波の家―ある連続殺人事件の記録』 講談社、1988年9月。ISBN 4061842846