中山みき
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中山みき(1798-1887)は奈良県天理市生まれの農民。天理教の「教祖」。おやさま。
1838年(天保9年)10月26日に阿弥陀信仰深く、慈悲深い生活をしていた中山みきが、病気の息子を治すために、山伏に祈祷を依頼した。それでも治らなかったため、自ら修験者の霊媒となった際に、「親神(おやがみ)」天理王命(てんりおうのみこと)が天降り、憑依した。中山みきは、超能力を得て、安産の祈願や、人々の病気を治すなどの奇跡を起こしていたらしい。そして、近隣の農民や職人の尊敬を集めた。しかし、地域の寺社からは疎まれ、官憲からも弾圧を受け、中山みきは幾度となく、逮捕・拘留された。
中山みきの死後、側近達が中山みきを「親様(おやさま)」として祭り、天理教を興した。天理教が「教祖」としている中山みきが、天理教を始めたわけではない。その後、神道本局の所属教会として公認された。1908年に別派として独立し、今日に至る[1]。
中山みきの能力を「おさづけ」として、適切な人物に能力を分け与えたらしい。
嘘が大嫌い。
中山しゅうじ(長男)
米相場に失敗し、大きな借金をして、中山家の財産を使い果たした。これが中山家没落の原因となった。天理教は、中山みきが中山家の財産を貧しい人に全て施してしまったため、没落して貧しくなったとしているがそれは嘘である。
その他
中山みきは軽度の精神疾患を患っていたといわれている。
天保9年(1838年)、まず10月23日に、長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衛を招き祈祷をおこない、みき自ら加持代となり、このとき、「元(もと)の神、実(じつ)の神」と自ら名乗る、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされている。その神は、みきを「神の社」として貰い受けたいと申し出て、その申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば、中山家を滅ぼすと言ったという。10月26日になって、夫の善兵衛がみきを「神の社」となることを承諾すると、みきの苦痛がおさまったとされる(天理教では、この日を「立教の元一日」としている)。しかし、この天啓は現代の医学から見れば、統合失調症から来る幻覚であるといわれている。新興宗教の教祖が神から天啓を受けたというのは、ほとんどが統合失調症によるものだといわれている。
みきは、天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。これにより、中山家は没落し貧乏暮らしをすることになったが、みきはそのことを気にすることはなかった。むしろその生活を受け入れた。しかし、中山家の没落の原因は、みきが貧民に材を施したことではなく、息子が商売や米相場、博打に失敗して財産を使い果たしてしまったことが原因である[2]。