ダグラス・グラマン事件
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ダグラス・グラマン事件(ダグラス・グラマンじけん)とは、1978年2月に明るみに出た日米間の航空機(戦闘機)購入に絡んだ汚職事件。ダグラス社は当時すでにマクダネル社に吸収されるような形で合併しており、しかも戦闘機部門はマクダネルの流れを汲むもののため、本来は、マクダネルダグラス・グラマン事件と呼ぶべきであるが、表記のように呼ばれている。
事件の経緯
- 1968年
- 防衛庁第2次防衛力整備計画における、次期主力戦闘機導入発足、選考にはロッキードCL1010-2、マクドネル・ダグラス(以下MD)F-4、SAABビゲン、ダッソーミラージュF1が候補に挙がる。F-4以外の候補は開発中のCL-1010-2と、対米関係を考えれば採用の可能性のない欧州機であり、事実上無競争といえた。
- 1969年
- F-4Eを元にしたF-4EJの採用決定。(通常米軍型機の日本向けモデルはF-104Jや、F-15JのようにJ型とする場合が多いがF-4の場合はすでに海軍にF-4Jがあったため直接のベースモデルとなったF-4EのEを残してF-4EJと命名されたF-4Eからの変更点は日本社会党などに配慮しての、核兵器制御装置(DCU-9/A)、爆撃コンピュータ(ASQ-91)、空対地ミサイル・ブルパップ制御装置(ARW-77)、空中給油装置といったものの不装備でありこれらは本来F-4の能力の核心といえるものである。)
- 1978年
- 12月25日 - 米国証券取引委員会(SEC)、MD社が自社戦闘機の売込みのため、1975年に1万5000ドルを日本政府高官に渡したことを告発。
- 1979年
- 1月4日 - 米SEC、グラマン社が自社の早期警戒機(E-2C)の売込みのため、日本の政府高官(岸信介・福田赳夫・中曽根康弘・松野頼三)らに代理店の日商岩井(現・双日)を経由して、不正資金を渡したことを告発。相次ぐ証言を受け、東京地検特捜部は、米SECに資料提供を要請し捜査を開始。
- 1月30日 - 衆議院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、航空機売込みに関わる、全ての疑惑を調査することになる。
- 2月1日 - 日商岩井航空機部門担当島田三敬常務が、赤坂の同社本社ビルから遺書を残して投身自殺し、キーマンの自殺に捜査は行き詰まる[1]。
- 2月14日 - 衆議院予算委員会で日商岩井・海部八郎・副社長、植田三男・日商岩井社長、有森国雄・元同社航空機部課長代理を証人喚問。海部が宣誓書に署名をする際、手が震え字が書けない様[2]が、テレビ中継されていた。海部は「記憶に無い」の答弁を繰り返し、早期警戒機E-2Cの売込みに絡んで政府高官への金銭支払いの疑惑を否定したが、1972年の日米ハワイ会談前後に田中首相(当時)と、またグラマン社代理店変更の前後に松野と会談したことを認めた。なお、証人喚問での焦点だった「海部メモ」(後述)の筆跡については、確認を拒否した。また、海部と田中六助自民党衆議院議員との関係が問質され、海部は田中と接触は全くなかったと、国会で嘘の証言をした。
- 3月14日 - 日商岩井航空機部門部長・次長を外為法違反容疑で逮捕。
- 3月22日 - 参院予算委員会での証人喚問において、日商岩井・海部八郎副社長と対立する日商岩井・山村謙二郎・副社長、井上潔・専務が証言。衆院予算委員会における海部証言について、山村は「錯乱していた」と証言した。
- 3月19日 - 参院予算委員会、海部を証人喚問。日商岩井の政界工作をにおわす「海部メモ」を自分で作成したのに、国会で「関知しない」と証言するが、後に同メモの作成者が海部と初めて判明することで、 4月4日に偽証告発されることになる。
- 3月31日 - 参院予算委員会はこれまでの証人喚問において海部と山村らの証言が食い違ったため、海部、辻良雄・前会長、郷裕弘・元ダグラス社経済顧問を証人喚問。証言に立った海部は、19日の証言の重要部分のすべてを訂正したが、疑惑の核心部分に関しては依然、自殺した元常務に責任転嫁する姿勢が目立った。
- 4月2日 - 海部を外為法違反容疑で逮捕。同日、参議院予算委員会航空機疑惑集中審議中に海部逮捕の報を受け、伊藤栄樹法務省刑事局長(後の検事総長)は、「捜査の要諦はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉しなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した[3]。
- 4月16日 - 疑惑捜査の総指揮官である検事総長が定年により、神谷尚男から辻辰三郎に交代。神谷は「サヨナラ記者会見」で「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」と会見。
- 4月24日 - 海部・元副社長を議院証言法違反容疑で再逮捕。
- 4月26日 - 事件に岸、松野らが関与していたのではないかとして、野党側が一致して喚問を要求。自民党側が拒否し国会が空転。
- 5月15日 - 検察首脳会議において、「政治家の刑事責任追及は、時効、職務権限のカベにはばまれ断念する」ことを確認し、ダグラス・グラマン事件捜査終結を宣言。日商岩井関係者のみ3名を起訴。
- 5月24日 - 衆議院航空機輸入調査特別委員会で松野を証人喚問。松野は5億円の授受を認めるも、「五億円は日商岩井からの政治献金」と主張、検察側の「F-4E売込み工作資金及び成功報酬」との認定と平行線をたどった。また既に公訴時効が成立しており刑事訴追は逃れることになる[4]。
- 5月28日 - 参院航空機輸入調査特別委員会、松野を証人喚問。
- その後、野党側は松野を偽証告発する決議動議を提出しようとしたが、自民党が拒否し、国会は再度空転。参院で閉会中審査手続きを取れず、審議中の全法案が審議未了・廃案となった。
- 7月11日 - 衆院航空機輸入調査特別委員会、E-2C導入をめぐる疑惑に海部、日高一夫・住友商事元航空機部長を証人喚問。海部のように逮捕・起訴後の証人喚問は異例。海部は、松野にF-4の売込みに対する成功報酬として5億円を支払ったことを明言した。
噴出する疑惑
- 朝日新聞の取材では、グラマン社は、元米人ジャーナリストのハリー・カーンと岸の秘書である川部美智雄をコンサルタントとして雇い、その紹介で、岸・松野らと何度も会談し、E-2Cの対日売込みでは、代理店を日商岩井に変更する方が好都合との感触を得たことを明らかにした。しかし、捜査の過程で、グラマン社に対する疑惑は、政府高官へのコミッション支払いが未遂に終わっていたため事件にならなかった。
- この結果、MD社のF-4EJの売込みにからむ疑惑が焦点となり、そこでも浮上したのが、いわゆる「海部メモ」の存在であった。これは、海部が国内航空会社社長に宛てたハワイ・某ホテル客室の備付け便箋に書かれていた1965年7月24日付手紙のコピーであり、その内容は、岸と川部秘書、海部らが話し合い、F-4EJ導入が決まったこと、見返りに岸へ2万ドル払ったこと、が記載されていた。しかし、岸に対しては、同メモ発見の時点で、公訴時効成立により捜査は打ち切られ、東京地検は岸に事情聴取すらしなかった[5]。
- これまでも、岸に関しては、多くの航空機疑惑関与(第1次FX問題)が指摘されていた。1957年、国防会議決定の第1次防衛力整備計画に基づく、旧式化した自衛隊の主力戦闘機F-86Fにかわる超音速戦闘機300機の機種選定について、当初、防衛庁は次期戦闘機をロッキードF-104に内定していたのが、岸内閣成立後の1958年4月、日本政府はグラマンF11Fを採用決定した。この見返りとして、岸に対して、グラマン社が納入1機に対し1000万円、最大30億円のマージンを支払われたとされる疑惑である(資金は、その後の総選挙費用と総裁選対策費として支払われたのではないかと言われる)。しかし、実際に1962年から後継主力戦闘機として配備されたのは、一旦覆ったはずのF-104Jである。
- 1976年、グラマンF-14とMDF-15によるFXで、F-15が採用決定されていたため、当然疑惑が向けられたが、捜査終結に伴いF-14及びF-15は一切捜査されることはなかった[6]。
- 官民問わず、航空機選定の度に、数々の疑惑が発生する為、大平首相の私的諮問機関「航空機疑惑問題等防止対策協議会」が再発防止として、1979年9月に政治資金規正法改正など14項目を提言する。しかし、自民党内の反発で、具体化はなされなかった。
- その後の1980年7月24日 東京地裁判決で海部八郎に懲役2年執行猶予3年の判決。被告原告共に控訴せず、同年8月7日確定。
注
- ↑ この自殺は、当時のノンフィクション番組で取上げられ、詳細が公開された。その内容は、飛降りに際して、心臓を一刺ししてから高い窓をよじ登り飛び降りる事は不可能と判断し、何故、最終的に警察は簡単に自殺と判断したのだろうと疑問を投げかけていた。この他に吉原公一郎も念密な医学的根拠を挙げた上で他殺説を主張する著書を書いている。
- ↑ 海部本人は後にパーキンソン病による症状と主張した。
- ↑ 伊藤刑事局長がこの時発した「巨悪を逃さず」、また5月25日の参議院航空機輸入調査特別委員会答弁で発した「初めに5億円ありき」という言葉は有名で、この年の流行語となる。
- ↑ 松野は、その後同年7月25日衆議院議員を辞職し自民党を離党、同年10月7日の第35回衆議院議員総選挙では無所属で出馬するも落選した。1980年6月22日の第36回衆議院議員総選挙に再度立候補し、当選し自民党に復党した。
- ↑ 朝日新聞は、その舞台裏について「岸氏の喚問に応じることは、ロッキード事件で逮捕された田中元首相に続いて二人目の元首相を“きず物”にすることになるからだ。それは、自民党全体のイメージダウンにもつながる」と解説をした。また、当時、朝日新聞の首相官邸記者クラブ担当だった国正武重は、後に、評論家・立花隆との対談で「大平首相サイドからは、ロッキード事件に続いてダグラス・グラマン事件で政権の中枢が揺らぐようなことになれば、保守政権にとっての危機だ、それだけは勘弁してくれという趣旨の動きが、検察の最高首脳や法務省サイドに対してあったと思う。このことについては、大平さんも、当時、それに近い胸のうちを吐露したことがある」(『世界』1988年10月号)と語っている。さらに、事件当時の法相・古井喜実は1983年2月のインタビューで、『事件のカタを早急につける必要があったからね。ただ、ロッキード事件のような大物(田中元首相)が、この事件にもかかわっているのかどうか、問題になった。もし『超大物』がかかわっている兆候があれば徹底的にやって、何としてでもやっつけなければ、ということになった(中略)。ニオイはした。事件にもなりそうだった。しかし『超大物』を事件の枠内にはめこむことはできなかった。結局『超大物』は捨ててしまい、松野頼三君でとめた』(1995年6月3日朝日新聞)と語っている。
- ↑ もっとも、可変翼を採用するF-14は導入コストも維持費も負担増となり不利で、米海軍を除けば採用したのはイラン王国空軍のみであり、F-15とした決定にそもそも不自然さがないことも事実である。米海軍でも主力の座をF/A-18に主力の座を譲り大幅に調達数を減らされ早期に全機退役した。ちなみにこの時点での選択としてコスト面も考慮しての最優秀機は日本では候補にもあがらなかったF-16であり、多くの国で採用されている。F-14ほどではないが高コストのF-15も、空自、サウジアラビア、イスラエルと米空軍以外での採用はなく、米空軍でも主力の座をF-16に譲って調達数も大幅に削減されている。