極東国際軍事裁判 (グリムによる虚偽)
極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん The International Military Tribunal for the Far East)という。 大東亜戦争で日本が降伏したあと、米国を中心とする連合国が敗戦国日本の「戦争犯罪人」を裁判形式で断罪したもの。
「裁判」とはいうものの、裁かれるのは敗戦国側の人間だけ。原爆投下や無差別空襲による民間人虐殺などの戦勝国側の残虐行為は問われず、罪刑法定主義・法の不遡及も履行されなかった。 裁判費用は27億円、日本政府の負担である。
目次
戦犯
「戦争犯罪人」にはランクがあり、それぞれ罪状により「A級」「B級」「C級」などランク付けされた。
彼らが収容された監獄の中では「巣鴨プリズン」が有名である。ここには「B級」「C級」戦犯とともに、東條英機など日本の中心的戦争指導者が「A級」戦犯として収容されていた。敗戦までは高い地位で威張っていたA級戦犯の面々も勲章や軍服を剥ぎ取られ囚人の地位に落とされた。
戦勝国の中には、昭和天皇をも東京裁判にかけようという意見も強かったが、最終的には連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の意向で、天皇は訴追もされず退位も行われなかった。これは、「天皇が裁判にかけられることになれば、日本人は猛反発、共産主義国の介入を招き占領統治も困難になる」という内外の進言をGHQ最高指令官ダグラス・マッカーサーが信じたためらしい。
裁判
判事は連合国(戦勝国)から出された。うちわけは、アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、フィリピンの11ヶ国。
- 1945年8月14日、終戦の詔勅。
- 1945年8月15日、玉音放送。
- 1945年9月2日、降伏文書調印・正式受諾。
- 1946年1月19日、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められる。
- 1946年5月3日、審理開始。
- 1948年11月4日 - 11月12日、判決と刑の宣告言い渡し
- 1948年12月23日 - 死刑執行(絞首刑)
判決
- 判決に賛成・・・米国・英国・ソ連・中華民国・カナダ・ニュージーランドの判事
- 別個意見書+賛成・・・オーストラリアの判事(裁判長)、フィリピンの判事
- 判決に部分的に反対する少数意見書提出・・・オランダ・フランスの判事
- 判決に全面的に反対する少数意見書提出・・・インドのパール判事
パール判事
インドのラダ・ビノード・パール判事は、被告全員の無罪を主張。 1952年4月28日、パール判事の意見書を元にした『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』 が出版された。ただしこの「日本無罪論」は、“日本を裁くなら連合国も同等に裁かれるべし”あるいは“連合国を裁かないなら日本も裁かれるべきでない”
ウィキペディアでは語られない真実
メチャクチャな東京裁判
なんて無茶苦茶な裁判なんだと呆れる。裁判が開廷されてから、そもそも通訳もキチンとされていなければ、弁護士もそれぞれの被告人に対して3分程度の面談時間。おまけに平等性を保つためにと、集められた各国の裁判官が全員揃わないウチに裁判が始まるありさま。のっけから戦勝国が敗戦国を裁くという、前代未聞の劣悪裁判劇に、冒頭から憎しみさえ感じた。
国際法を無視した蛮行
国際法に基づいて言えることは、戦争は犯罪ではないんです。“侵略戦争”と悪名高き語られる日本の戦争ですが、東京裁判では、アメリカ人が
我々は広島に原爆を落としている。命令した人間、実行した人間も明確にされないまま、一方的に日本を“侵略”と位置づけるのはいかがなものか!
と良識も存在していた東京裁判。欧米諸国こそアジア諸国を侵略し続け、植民地として君臨してきただろ。しかし、戦勝国に不利な意見陳述はすべて記録されることなく、訳されることなく進行していった。
人道外れた卑劣な発言
同じ日本人でも保身のために身売りする者、仲間の刑を軽減させようと自らに刑を被ろうとする者、毅然と無罪を言い放ち威風堂々とする者、天皇陛下のために命を張って守る者・・・自分の生き様さえ考えさせられるシーンもある。とは言え、全ては戦勝国主導のインチキ裁判。アメリカ人も、ロシア人も、中国人も、イギリス人も立場を利用して、無茶苦茶な理由で難癖を付けてくる。数年後、保身のために東京裁判において、虚偽の発言をしてしまったと言う発言者もいる始末。
A級BC級本来の意味を知っていますか?
歴史をキチンと学ぶことなく、A級戦犯だ、BC級戦犯だと軽々しく語る日本人や政治家が少なくないが、そもそもこの呼称は東京裁判のみで使われた者であり、法廷に立たされた人々にも冤罪が存在し、また本来この法廷に立たなければ行けない人が呼ばれなかったりと、とにかくいい加減な裁判なんです。判決を言い渡される一人一人の戦犯と言われる先人の姿は、潔く侍魂を思わせる立派な姿です。
この裁判での英雄パール検事
パール博士はインド人の国際法学者であり、東京裁判において判事を務め、世に言う「日本無罪論」を展開したお方である。 東京裁判が終わり、世界中でこの日本無罪論の研究がなされた。 だが、おかしなことに日本だけ、その研究が戦後しばらく成されることがなかった。 それはGHQが発禁にしていたということにも原因があるだろう。 今、そのような足かせがなくなった今、このパール博士の日本無罪論を検討することは日本の歴史を知る上で必須と考えるのである。
以下は、パール博士が行った東京裁判の判決に対する、後の国際世論である。
- 国際法学界に光を増すパール判決
- 国際法の権威であるハンキー卿
- 著書「戦犯裁判の錯誤」にて「裁判官パール氏の主張が、絶対に正しいことを、私は全然疑わない。」と言明
- 英法曹界の重鎮であるF・J・P・ビール氏
- 著書「野蛮への接近」
- ロンドンの世界事情研究所による「世界情勢年鑑」(1950年度)には、54ページから104ページにかけて、東京裁判を解説し、パール判定が正論であることを裏付けた。
- アメリカのチャールズ・ベアート博士
- 著書「ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究」
- アメリカの最高裁のウイリアム・O・ダグラス判事
- 証言「国際軍事裁判所は政治的権力の道具以外のなにものでもなかった」
- モントゴメリー・ベルジョン
- 著書「勝利の正義」
- フレダ・アトレイ
- 著書「報復の高い代価」
- 哲学者ヤスパース
- 著書「戦争の責罪」
- 博士はその後、東京裁判における立論の正当性と、国際法論理にたいする見識が高く評価され、選ばれて国連の司法委員会の委員および議長に就任しその要職を全うした。
参考資料
- ウィキペディア日本語版
- 「極東国際軍事裁判」
- 「ラダ・ビノード・パール」
- 「東條英機」
- 「巣鴨プリズン」
- 「8月15日」