飯塚事件
この項目では、1992年の事件について説明しています。2019年の事故については「東池袋自動車暴走死傷事故」をご覧ください。 |
飯塚事件(いいづかじけん)とは、1992年に久間三千年が女児2人を殺害し、死刑となった事件。完全にクロといえる証拠があるのだが、一部マスコミが裁判で認められた事実を隠蔽・捏造してあたかも証拠が怪しいかのように偏向報道したため、被害者遺族に二次被害を与えている。
この報道がどれだけ酷いかに関しては、飯塚事件(Enpedia)を参照。メディアリテラシーを測定するにはうってつけの事件であり、ジャーナリズムとは何かを考えさせられる。
この事件の冤罪派は2つに大別でき、①報道を簡単に信じてしまう人、②本当は冤罪だとは思っていないが冤罪報道を利用したい死刑反対論者のどちらかである。残念ながら、冤罪派の中に、③挙がった証拠や判決文を自ら検討した上で冤罪だと信じる人(まともな冤罪派)はまずいない。①はさらに2つに分かれ、①a…あれだけの隠蔽・捏造報道のため信じてしまうのも無理はないがきちんと判決やそのまとめを読んで修正できる人、①b…ジャーナリストを信じ切っており、冤罪ではない根拠を説明されても「捜査関係者乙」と言うだけで全く話を聞こうとしないし、判決で認められかつ報道で隠蔽されている重要な証拠の存在を認めない人、に分かれる。①bは基本的に救いようがない。
目次
事件の概要
1992年2月20日、福岡県飯塚市潤野地区の小学1年生の2人の女児が登校中に行方不明になり、翌日に山中で共に性的暴行を受けたと見られる状態で殺害・遺棄されているのが発見された。
福岡県警は、1988年の女児行方不明事件で最終目撃者となっていた久間三千年(54歳)を事情聴取。2女児殺害に関しては、犯人と久間のDNA型がほぼ一致するという鑑定結果が出たもののそれだけでは逮捕に至らず[1]、繊維片の一致が決め手となって[2]、死体遺棄容疑で久間を逮捕。同10月14日に殺人等で久間を再逮捕。
足利事件で当時のDNA鑑定が否定されたため、マスコミではやたらこの事件でもDNAが最大の決め手になったように捏造報道しているが、逮捕の経緯から見ても、DNAが最大の決め手になったというのは明らかな捏造である。
裁判で認められた客観的事実
第一審判決→[1] 第二審判決→[2] 最高裁判決→[3] 再審請求第一審決定→[4] 再審請求第二審決定 →[5] ←詳細は判決文(かなり長い。冤罪派は読まないので議論がかみ合わない)参照
①被害者の衣服に着いていた繊維片と久間の車シートの繊維片の特徴が一致。
②被害者の膣内に犯人の血痕が存在しており、被害者の下着には血痕がついていないため手指からの出血ではなく(第1審判決)、唾液も検出されていないから口腔内の出血でもなく(第2審判決)、犯人の陰茎からの出血といえるところ、久間が亀頭包皮炎に罹患しており陰茎から出血する症状を有していた。←一般紙やニュースはもちろん、冤罪誘導報道では絶対に報道されない証拠。
③久間は、当初自分は亀頭包皮炎で性的に困難だからやっていない旨を主張していたにも拘わらず、犯人の陰茎出血が明らかになった公判段階では、突然完治していたと供述を変更。上記証拠が報道されないため、これも当然報道されない。
④久間と妻は、病状を否定するために、某薬局でフルコートFを買ったことはないと主張するも、店主と店員が久間を常連客として覚えて、しかも強力な皮膚薬だったからはっきり覚えていた。上記証拠が報道されないため、これも当然報道されない。
⑤久間の車内からかなりの人尿痕と血痕が発見。
⑥久間の妻は、自動車内で自分や息子が尿をもらしたことはないと捜査員に言っていたにも拘わらず、車に尿痕が残っていたことが明らかになった公判段階では、突如わかりませんと供述を変更。
⑦遺品遺棄現場のT氏の目撃証言と久間の車(紺色・ダブルタイヤのワゴン)の特徴が一致。
⑧久間側はT氏の証言は警察に誘導されたものだと主張したが、T氏は職場で遺体発見のニュースを聞いて同僚J氏に不審車両の話をしていたところ、このJ氏も裁判で証人として呼ばれ、事件翌日の会話でT氏から聞いた不審車両の特徴と、T氏が捜査機関や裁判で証言した内容は一致している、と証言。←冤罪誘導報道では絶対に報道されない証拠。Tさんの証言が怪しい怪しいという報道をしているくせに、Tさんの証言の正確性を担保する極めて重要な証拠であるこのJ証言は一切報道しない。
⑨D氏とV氏が、遅刻していた女児2人を見落とすはずがない狭い道を通りながらも約3分差で女児2名を見ていると見ていないとの証言をするという被害女児が最後に目撃された場所において、X氏とW氏は、D氏とV氏とは反対方向に進んで車両を止めたところでD氏とV氏と見られる車の他に、久間が乗っていたのと同じ紺色・ダブルタイヤのワゴン車を見たと証言。←誘拐現場直近の目撃証言であるにもかかわらず、冤罪誘導報道では小学校付近の軽い証言と捏造報道され、その具体的な状況・内容が隠蔽されている目撃証言
⑩久間のDNA(HLADQα型)が犯人の物と一致。
⑪被害者の膣内や周辺にあった血痕の血液型と久間の血液型がB型で一致。
⑫被害者の膣内や周辺にあった血痕と久間のDNA(MCT118型)が一致。←冤罪派が難癖を付けているDNA型鑑定
⑬久間の車内にあった血痕のDNA(TH01型・PM型)が被害者の一人(鼻血を出していた方)のものと一致。←冤罪派が難癖を付けているMCT118型の後に開発され、2万3000人に1人の精度[3]で鑑定できるのであるが、当然冤罪誘導報道はそのことに触れない。正直、この証拠だけでも久間を有罪にしてもよいレベルである。
⑭なぜか久間は事件後、車のシートを外して水をかけて洗浄(おかげで、車内の血痕からMCT118型は検出されず、TH01型・PM型鑑定の成立を待たねばならなかった)。←冤罪誘導報道では絶対に報道されない事実。
⑮事件があった時間帯、妻を送ったあと母親に米を届けに行っていたという久間の主張は裏付けが全くない。
⑯「事件当日は妻を送ったあと母親に米を届けに行っていた」という久間の主張するアリバイについて、妻は捜査段階では日付は曖昧だったのに、公判段階では日付を明確に主張。
⑰久間も、捜査段階では、妻を送った後一回帰宅した後に母親宅に行った、と言っていたので捜査員が久間の証言に基づいて走行してみると犯行時間帯にちょうど現場を通ることが判明。
⑱すると、久間は公判段階では、妻を送った後直接母親宅に行った、とアリバイの主張を変更。
⑲しかも、そのように供述を変更した契機や時期も、捜査段階と公判段階で変更。
⑳弁護士が、久間はこんなことをするはずないということを主張するためか性格分析を依頼するも、鑑定人は、久間が情性欠如型の性格異常者であるとして、犯罪を犯す本来的な傾向を十分もっていると認定。
死刑執行が早すぎるという報道のウソ
2008年10月28日、森英介法務大臣(当時)によって久間の死刑執行がなされた。享年70[4]。
なお、馬鹿なマスコミは、他の事件と比較してこの事件は死刑執行が早すぎるといって難癖をつけているが、以下のように、この頃は死刑確定後、2年少々で執行するのが普通だったのであり、死刑執行が早すぎるというのはマスコミの捏造である。だいたい、2006年12月から死刑執行数が増えて、死刑確定から長くなりつつあった死刑囚がかなり執行されたため、残った死刑囚の死刑確定から執行までの期間が短くなるのは必然なのである。
陸田真志 08.06.17執行 犯行後12年05月 確定後02年08月 鳩山邦夫
宮崎 勤 08.06.17執行 犯行後19年00月 確定後02年05月 鳩山邦夫
平野 勇 08.09.11執行 犯行後13年08月 確定後02年00月 保岡興治
山本峰照 08.09.11執行 犯行後03年07月 確定後02年05月 保岡興治
萬谷義幸 08.09.11執行 犯行後20年07月 確定後06年09月 保岡興治
高塩正裕 08.10.28執行 犯行後04年07月 確定後01年10月 森英介
久間三千年08.10.28執行 犯行後16年10月 確定後02年01月 森英介
西本正二郎09.01.29執行 犯行後04年04月 確定後02年00月 森英介
佐藤哲也 09.01.29執行 犯行後08年09月 確定後02年05月 森英介
川村幸也 09.01.29執行 犯行後08年09月 確定後02年05月 森英介
牧野 正 09.01.29執行 犯行後18年10月 確定後15年02月 森英介
陳 徳通 09.07.28執行 犯行後10年02月 確定後02年01月 森英介
山地悠紀夫09.07.28執行 犯行後03年08月 確定後02年01月 森英介
前上 博 09.07.28執行 犯行後04年05月 確定後02年00月 森英介
冤罪に誘導する捏造・偏向報道
そもそも、足利事件は、日本弁護士連合会が支援する再審事件であった[5]が、本事件は日弁連ですら支援していない事件であることからして察するべきである。
なぜマスコミは冤罪に誘導するのか
- 『無実なのに死刑執行!』というキャプションなら視聴者を引き付けやすいから。実際、ザ・スクープSPは、冒頭から「国家権力は 無実の男性を 殺してしまったのか!?」という巨大なテロップとナレーションでスタートしている。
- 無罪が確定した事件に対して「これは有罪だ」という方向に誘導する報道の場合、その無罪確定者に対する人権侵害となり、損害賠償沙汰はもちろん、放送免許剥奪レベルの大騒動になりかねない。逆に、有罪が確定した事件に対して「これは無罪だ」という方向に誘導する報道は、報道の中立性という点では悪質でも表現の自由・報道の自由がある以上、国からも文句を言われない(仮に文句を言われた場合、“国家を批判したら国家から言論弾圧を受けた!”と騒げる)。要するに冤罪に誘導するのなら、捏造・偏向報道を垂れ流しても誰も責任を取らなくていいから。
- 弁護士の意見に沿って展開すればいいので、番組制作としても楽だから。現に、弁護士の出版した著作『死刑執行された冤罪・飯塚事件: 久間三千年さんの無罪を求める』では、T証言の裏付けとなったJ証言の存在や、誘拐現場で久間と同じ車を目撃したとのW証言・X証言は登場しない。結局、冤罪誘導報道は弁護士の主張をそのまま垂れ流しているだけである。
- 単純に、この事件の判決文はたいへん長いためにジャーナリストが自身で読む能力がないなどの理由で弁護士の意見をそのまま信じてしまったから。
どの点が捏造・偏向か
これは飯塚事件(Enpedia)で記述してある。多すぎてここでは書き切れないが、概ね
- DNA型鑑定の精度が低い
- 遺留品発見現場でのT氏の目撃証言が疑わしい
という2点だけを、しかも偏向して報道しているため、ツッコミどころが満載である。特に、Tさんが目撃翌日に職場で遺体発見のニュースを聞いて同僚Jさんに不審車両の話をしており、そのJさんも裁判で証人として呼ばれ、そのときに聞いた車両の特徴とTさんの目撃証言は一致していると証言したことには意地でも触れないのである。なぜなら、この証言に触れると、やっぱり久間はクロでしょうと言われてしまうからである。
清水の本から冤罪を感じていた死刑反対論者の元裁判官が冤罪を主張しなくなったワケ
メディアによる捏造・偏向報道については、清水潔の著書『殺人犯はそこにいる』(2013年)を読んだ瀬木比呂志元裁判官の記述の変化が興味深い。
2015年の瀬木の単著
当初の2015年の瀬木の著書『ニッポンの裁判』では、清水の著書から冤罪の可能性を感じ取っている記述が登場する(「この本を読んで真に慄然とした」「もしもこの人物が無罪であったなら、国家は、この人物の生命と名誉を文字通り奪い去ったことになる」「同書第10章に記された、飯塚事件における情況証拠の中でことに重要なものと考えられる車両目撃証言の著者による再検証の結果、鑑定写真に工作が加えられた可能性に関する記述、中心となった弁護士の……言葉は、そのような致命的な誤りの可能性を示唆している」(82-83頁))。
2017年の清水と瀬木の対談本
しかし、その後、清水と瀬木の対談本『裁判所の正体』(2017年。同書2頁によると、この対談は、清水が希望して実現したとのことである)において、瀬木は、対談相手の清水に合わせながらも、飯塚事件の判決文を読んだ(203頁)として、目撃情報は「一般論として非常にいい加減」(206頁)だとか、DNA型判定を除外した証拠では「アメリカの陪審員裁判だったらこれで有罪は難しい」(206頁)のように、一般論だとかアメリカの一般人なら云々の話とかで済ませるなど、前著のような冤罪の可能性を感じ取っているような言及が無くなっている。
2021年の瀬木の単著
さらに決定的なのは、瀬木の2021年単著『檻の中の裁判官』であり、飯塚事件に関する記述は死刑執行のタイミングを疑問視する部分だけになっており(184頁)、司法の判断に関する言及そのものが全く存在しなくなっている。何気にこれは注目すべきことで、書名は司法に対する批判を書く本なのに、そして現に袴田事件(135-144頁)と恵庭OL殺害事件(144頁)と大崎事件(149-150頁)については冤罪の立場に立って司法の判断を批判しているのに、飯塚事件については執行という行政に対する批判だけで、司法に対する批判どころか司法の判断に関する記述すら皆無なのである。しかも袴田事件はDNA型判定に対する司法の判断に疑問を呈しているのに、飯塚事件では偏向報道が騒いでいたDNA型判定にすら一切言及がないのである。さらに、同著で死刑制度に反対する理由として死刑は冤罪時に取り返しがつかない点を挙げる際も(202-203頁)、そこで言及するのはすでに再審無罪が確定した4つの事件と袴田事件(すべて死刑未執行)だけであり、(仮に冤罪だと思っているのなら)死刑執行済みという点でここで言及するには最適なはずの飯塚事件には全く触れていないのである。
まとめ
結局、この瀬木の態度の変化は、判決文を読んで清水が報じない証拠について知ったことでもう冤罪だと思わなくなった、ということなのだろう。清水としては、瀬木の2015年の著書を読んで百万の味方を得た思いで対談を実現したのかもしれないが、この変化を見る限り、飯塚事件において瀬木はもはや味方ではないのである。
冤罪派の正体
捜査機関や司法は疑うくせにジャーナリストは100%信じる知的水準
以上のように、このような冤罪誘導報道は、おおむねマスコミの報道をすぐに信じてしまう知的水準の人たちに大いに歓迎され、彼らを冤罪派に仕立てあげた。
彼らは、例えばこのスレッドで登場するID:LAhYQiHt0(7月8日ID)及び569raQtK0(7月9日ID)に典型的に見られるように、Tさんの目撃証言の正確性を裏付ける証言したJさんの話をしても、その証言は間違っていると言ってJさんの存在に全く触れていない厳島教授の説を出してきたりする(レス396)など、そもそも証人の区別がついていないのである。このように冤罪派はJ証言の存在があることすら理解できないなど、ジャーナリストが裁判で認められた重要な証拠を隠蔽して報道しているなんて想像できないのである。
しかも、この冤罪派は清水潔の話をなぜ信じているのか聞かれると「他の本も併せて読んで、これが真実以外にありえないと思ったから」(レス346)と言い切っているくせに、清水の本を持っていない(レス402)という有り様で、しかも清水は当該著書で日本テレビの制作スタッフであるということに何度も触れているのに、この冤罪派は「TBSだったかの報道特集で見た」(レス393)と、そもそも清水の所属先すら知らないのである。おそらく、立ち読み程度の流し読みとテレビを受け身で見ただけで内容を信じ切ってしまったのだろう。
何とも情けないのは、この冤罪派は、「本を読まない反知性派の人とは会話が成り立たないわ」(レス315、338)、「君が本を読んでないから、『書いてあった』と言われても、『いや、そこを僕はこう読んだよ』とか『僕が読んだ本にはこう書いてあったよ』とか、話が進みようがないんだわ」(レス317)などと、自分は本を読んでいるから知性があるかのように吹聴し、清水本の問題点を指摘する者に対して「持っているなら、176ページの3行目になんて書いてある」(レス396)などと、本当に本を持っているのか散々疑ってかかっているのである。そこまで言っておきながら、自分は清水の本を持っていない(レス402)、しかも本は実家にあるという子供のような言い訳(レス404)、というオチなのである。
基本的に、こういう人たちに冤罪説が支持されているのである。
1988年の女児行方不明事件における冤罪派
本事件以前の事件現場周辺では、1988年12月4日に本件被害者と同一小学校で小学校1年生の女児が、弟の友人(久間の息子)を訪ねて久間宅に遊びに行ったのを最後に行方不明になる事件が発生(愛子ちゃん行方不明事件)[6][7]。本件で逮捕後の久間をポリグラフにかけた際に反応の出た山林一帯を捜索した結果、女児のジャンパーとトレーナーが発見された[6]。久間は事件当日に女児と会っていた事は認めたが、行方については知らないとした。その後はさらなる発見がなく1995年2月18日に再捜索は打ち切られ、現在も未解決である。
困ったことに、冤罪派は、そのときに見つかったジャンパーやトレーナーが妙に新しかったので、これは警察による証拠捏造であると主張している。しかし、仮に不自然にそれらの衣服が新しかったとしても、この度の2女児殺害事件により家宅捜索を恐れた犯人が、隠し持っていたこれらの衣服を慌てて捨てたと考えればもっとも整合する(愛子ちゃんの行方不明に事件性が認められていない以上、2女児殺害事件までは家宅捜索される可能性もなく、自宅等に隠し持っていたと考えるのがやはり整合する)のであり、そこに何ら不審な点はない。仮に冤罪派の主張を採るとすれば、そもそも事件か事故かすら分かっていない行方不明の事案において、なぜ警察が密かに行方不明女児の衣服を隠し持っていたか説明できない。
さらに、それでもめげない冤罪派は、ジャンパーやトレーナーは2女児殺害事件後に警察が購入したものだとか主張しているようだが、そんなバレバレな捏造が通用するはずないことが分からないのだろうか。まして、仮に警察が購入した捏造証拠であるならば、もし今後愛子ちゃんが遺体とかで誰かに発見されたときにトレーナーやジャンパーを遺体が着ていたら、久間事情聴取中に見つかったジャンパーとトレーナーは警察による捏造だということが簡単に発覚してしまう。そんなリスクを負ってまで、立件に至らないような愛子ちゃんの証拠を捏造したとでもいうのだろうか。
参照元
- ↑ 日本経済新聞1994年9月24日
- ↑ 毎日新聞1994年9月24日
- ↑ https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu/55/8/55_559/_pdf
- ↑ K死刑囚ら2人刑執行 ペース定着、年間最多更新 47NEWS 2008年10月28日
- ↑ http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/books/data/hakusho_tokushu2013_1.pdf
- ↑ 6.0 6.1 読売新聞西部1995年1月3日
- ↑ 朝日新聞1994年11月11日夕刊