斎藤弥平太

提供: Yourpedia
2020年4月19日 (日) 00:01時点における由亜辺出夫 (トーク | 投稿記録)による版 (wiki:ja:斎藤弥平太 2019年7月17日 (水) 13:51‎の Yaruohrhm による版を転記)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

斎藤 弥平太(さいとう やへいた、1885年(明治18年)9月28日 - 没年不詳(1953年(昭和28年)9月28日、戦時死亡宣告))は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

来歴・人物

香川県三野郡上高野村(現 三豊市豊中町)出身。農業・斎藤浜太郎の次男として生れる。

旧制香川県立三豊中学校(第1回)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第12連隊付となる。1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業した。

参謀本部付勤務、第18師団参謀、参謀本部員などを経て、1923年(大正12年)5月から12月まで欧州に出張した。1925年(大正14年)8月、朝鮮軍参謀となり、参謀本部員(動員班長)、参謀本部付(陸大専攻学生)、陸大教官などを歴任し、1930年(昭和5年)8月、歩兵大佐に昇進し陸軍省整備局統制課長に就任。

1932年(昭和7年)8月、関東軍参謀となり、歩兵第6連隊長に就任し、1935年(昭和10年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第28旅団長となる。1937年(昭和12年)3月、第1師団司令部付となり、第4独立守備隊司令官に就任し、1938年(昭和13年)3月、陸軍中将に進んだ。同年11月、第101師団長に親補され日中戦争に出征した。1939年(昭和14年)11月、留守第1師団司令部付となり、参謀本部付、陸軍兵器本部長を経て、1942年(昭和17年)7月、第25軍司令官となった。第25軍のスマトラ移駐問題南方軍総参謀長・黒田重徳との間に確執があり[1]1943年(昭和18年)4月、参謀本部付となり、翌月、予備役に編入された。

1943年8月、朝鮮総督府指導者養成所長に就任し、1944年(昭和19年)7月、満州拓殖公社総裁となり終戦を迎えた。1946年(昭和21年)5月14日、紅軍に抑留された後、消息不明となった。1953年9月28日に戦時死亡宣告がなされた。

親族

  • 妻 斎藤雪 平田時丸(陸軍大佐)の娘
  • 弟 斎藤秀彦(海軍機関大佐)
  • 娘婿 山口立(陸軍少佐・陸上自衛隊富士学校校長)・岡野一武(陸軍少佐)
  • 娘 山口泰子(山口立の妻)
  • 孫 山口建史(靖国神社宮司)

脚注

参考文献

  • 中井虎男 (1969) 中井虎男 [ 回想三豊中学 ] 三秀社 1969
  • 外山操 [編] 上法快男 [監修] (1981) 外山操 [編] 上法快男 [監修] [ 陸海軍将官人事総覧 ] 近代日本軍事組織・人事資料総覧 芙蓉書房出版 1981 4829500026
  • 四国新聞社 (1985) 四国新聞社 [ 香川県人物・人名事典 ] 四国新聞社 1985
  • 四国新聞社 (1988) 四国新聞社 斎藤弥平太 寺内寿一元帥と対立 [ 男たちの青春 ] 讃岐人物風景 / 四国新聞社編 18 丸山学芸図書 1988 231-233
  • 山口立 [編] (1994) 山口立 [編] [ 追憶 - 斉藤弥平太 ] 山口立(私家版) 1994
  • フォーラム [編集] (1998) フォーラム [編集] 日本の英領マラヤ・シンガポール占領(1941〜45年) : インタビュー記録 南方軍政関係史料 33 龍溪書舎 1998 4844794809
  • 福川秀樹 (2001) 福川秀樹 [ 日本陸軍将官辞典 ] 芙蓉書房出版 2001 4829502738
  • 秦郁彦 [編] (2005) 秦郁彦 [編] [ 日本陸海軍総合事典 ] 第2版 東京大学出版会 2005