ディエゴ・フォルラン

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ディエゴ・フォルラン
フォルランの元嫁

ディエゴ・フォルラン・コラソ(Diego Forlán Corazo, 1979年5月19日 - )は、ウルグアイモンテビデオ出身のサッカー選手同国代表である。ポジションはフォワードセレッソ大阪所属。

ヨーロッパ・ゴールデンシューを2度受賞しているストライカー。サッカーウルグアイ代表の最多出場記録保持者であり、2010 FIFAワールドカップではMVPに選出されている。

フォルランなんてたいしたことない

地元の超名門大学を首席で卒業し、テニス、ゴルフの腕もプロ並

実家はスペイン王家に繋がる超名門貴族の家系で、祖父は元サッカーウルグアイ代表監督、父は元サッカーウルグアイ代表、母は外科医

12歳の時に下半身不随になった姉の高額な治療費捻出のためにプロサッカー選手になることを決意し、父に一年だけという約束でサッカークラブと契約

その後とんとん拍子で活躍

2010年W杯ではMVPに輝いて母国で英雄となりディエゴフォルラン賞なるものが創設される(第一回受賞者はカバーニ)

マンU所属のときにゴールした喜びのあまりユニフォームを破り脱いで代わりのユニフォームが用意できず一時上半身裸のままプレーした。

そんなどこにでもいる選手、それがフォルラン

来歴

キャリア初期

母方の祖父であるフアン・カルロス・コラソは1962年のチリワールドカップウルグアイ代表監督であり、父親のパブロ・フォルラン1974年西ドイツワールドカップに出場した元サッカー選手である。

少年時代はテニスの腕も一流だった。学生時代は学業も疎かにせず、成績も優秀であり、高校はモンテビデオ市内有数の名門校に通っていた。語学に堪能で、母国語のスペイン語に加え、フランス語ポルトガル語イタリア語英語も話すことができる。

しかし、12歳の時に姉が交通事故により恋人と下半身の自由を失う。姉の治療費は高額で、この事を知ったディエゴ・マラドーナが募金を呼びかけてくれたが、家計には重い負担となっていた。15歳でフォルランは姉のために、1年間のチャンスの約束で父親の所属していたペニャロールと契約し、結果を出し、注目を浴びることに成功した。2000年アルゼンチンCAインデペンディエンテに移籍し、2001年にカップ戦を含めて23ゴールをあげた。

マンチェスター・ユナイテッド

2002年1月、プレミアリーグマンチェスター・ユナイテッドに移籍金690万ユーロで移籍した。1月29日のボルトン戦でデビューしたが、2001-02シーズンは無得点に終わった。9月18日、UEFAチャンピオンズリーグマッカビ・ハイファFC戦でPKを決めて移籍後初ゴールを挙げ、10月26日のアストン・ヴィラ戦でリーグ戦初ゴールを決めた。2002-03シーズンはチェルシー戦でロスタイムに決勝点となるボレーシュートを決め、アンフィールドでのリヴァプール戦で2得点するなど、通算6ゴール(内4ゴールは決勝点)を記録し、クラブのリーグ制覇に貢献した。2002年12月のサウサンプトン戦では試合終了間際にゴールを決め、喜びの余りユニフォームを脱ぐが、そのユニフォームを着ることができないまま試合が再開され、一時的とはいえ上半身裸の状態でプレーを続けた。2003-04シーズンは通算4ゴールと不振に喘いだ。マンチェスター・Uでは2シーズン半で95試合に出場して17得点を決めたが、2004年8月にFWウェイン・ルーニーが加入したことにより、ポジション争いが激しさを増すことが予想された。

ビジャレアルCF

2004年8月21日、フォルランはリーガ・エスパニョーラビジャレアルCFに新天地を求めた。移籍初年度の2004-05シーズンはリーグ戦38試合で25ゴールをあげ、アルゼンチン代表フアン・ロマン・リケルメらと共にクラブをUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得る3位に導いた。また、FCバルセロナサミュエル・エトオらを抑えて得点王(ピチーチ賞)のタイトルを獲得し、アーセナルFCのFWティエリ・アンリと並んでヨーロッパ・ゴールデンシューを受賞した。

得点の内訳は右足で14得点、左足で10得点、頭で1得点であり、両足を同等に扱えることを証明した。翌2005-06シーズンは調子を落とし、10ゴールに終わったが、3シーズン目の2006-07シーズンは19ゴールを決めてUEFAカップ出場権獲得に貢献した。ビジャレアル在籍時はフォワードの選手ながら守備的な選手が付けることが多い背番号5を付けていた。これは空いていた背番号をもらったとのことであるが、現役を引退した兄と同じ番号でもある。

アトレティコ・マドリード

2007年6月30日、エースストライカーのフェルナンド・トーレスを手放していたアトレティコ・マドリードへ移籍金2100万ユーロ(約35億円)で移籍した。2007-08シーズンはFWセルヒオ・アグエロと2トップを組み、16ゴールを決める活躍を見せた。

2008-09シーズンはリーグ戦33試合に出場して32ゴールをあげ、またしてもFCバルセロナのエトーを抑えて自身2度目の得点王を獲得し、2度目のヨーロッパ・ゴールデンシュー受賞も果たした。リーガ・エスパニョーラで30ゴール以上をあげたのは1996-97シーズンのロナウド以来の記録である。

2010年4月22日、UEFAヨーロッパリーグ準決勝リヴァプール戦1stレグで試合唯一となる得点を決め、2ndレグでも得点して決勝進出に貢献した。フラムと対戦した決勝では2ゴールを挙げて2-1で勝利。アトレティコにUEFAヨーロッパリーグ優勝をもたらした。

2010-11シーズンは8得点に終わり、キケ・フローレス監督との確執が度々報じられるなど、キャリア最低のシーズンとなった。夏の移籍市場ではインテルへの移籍の可能性が報じられる。8月29日に本人が退団会見を開き、アトレティコのファンに別れを告げた。

インテル

2011年8月31日、インテルと2年契約を結んだことが発表された。しかし、怪我やディエゴ・ミリートの好調もあり、あまり活躍できなかった。

インテルナシオナル

2012年7月、インテルとの契約を解除し、インテルナシオナルに移籍。

セレッソ大阪

2014年1月、セレッソ大阪と2014年12月までの完全移籍で合意。

フォルラン 日本語で入団会見「おもてなし」「おおきに!」(2014年2月)

セレッソ大阪は12日、ウルグアイ代表FWディエゴ・フォルランの入団会見を行った。会見に臨んだフォルランは冒頭、日本語で挨拶。

「こんばんは。日本の皆様、はじめまして。ディエゴ・フォルランです。
 セレッソ大阪で頑張りますので、どうぞ宜しくお願いします。

 日本政府、Jリーグの皆様、ここでプレーができる機会をいただき、感謝致します。
 以前から日本のファンでした。過去に3回、日本に来たことがあります。素晴らしいおもてなしを受けました。

 たくさんの希望と夢を持ってきました。去年、チームは4位まで行きました。
 今年、良い成績を残せるよう、全試合努力します。どうも、ありがとうございました。おおきに」

と、早速の関西弁を交えつつ、長い日本語での挨拶を行った。 また、C大阪を移籍先として選んだ理由について、 「強い気持ち、熱い思いを感じましたので、それが大きな要因だったと思います」とクラブの熱意を挙げ、「過去3回、日本来たことがありますが、いつも日本という国の素晴らしさ、 文化であり、人を思いやるリスペクトを肌で感じたことも、動機の一つにあると思います」 と、日本の国柄についても要因だったとコメントしている。

日本のサッカーについては、 「日本のサッカーは技術レベルが高く、スピードがあり、非常にいいサッカーをしていると思います」と語り、 「オファーをいただいたことは、私にとってチャレンジであると思い、決断しました」と意気込みも述べた。

代表歴

2002年にウルグアイ代表に初招集され、同年に開催された日韓ワールドカップに出場した。グループリーグのセネガル戦でボレーシュートを決めて引き分けに持ち込んだが、フランスとともにグループリーグで敗退した。フランス代表メンバーの中にはFWユーリ・ジョルカエフがいたが、ディエゴの父パブロ・フォルランとユーリの父ジャン・ジョルカエフ1966 FIFAワールドカップで対戦している。

2007年頃に代表レギュラーの座を獲得し、コパ・アメリカ2007準決勝ではブラジル相手に得点したが、PK戦でシュートをミスし、チームは5-4で敗れた。2008年6月17日、2010 FIFAワールドカップ南米予選ペルー戦ではハットトリックを達成した。

2010 FIFAワールドカップでは第2キャプテンを任され[1]、グループリーグ第2戦の南アフリカ戦ではミドルシュートとPKで2得点を挙げ、大会選定のマンオブザマッチに選出された。他にもグループリーグ初戦のフランス戦、準々決勝のガーナ戦でもマンオブザマッチに選出され、7試合でチーム最多の5得点を挙げて得点王タイとなり、ウルグアイの40年ぶりの4位進出に大きく貢献。この活躍により、大会MVPにあたるFIFAゴールデンボール賞を獲得した。

コパ・アメリカ2011では決勝のパラグアイ戦で2得点を挙げ、ウルグアイの6大会ぶり15度目の優勝に貢献。祖父から続く3代続けてのコパ・アメリカ制覇を達成した。また、この2得点によりエクトル・スカローネと並びウルグアイ代表通算最多得点となった[2]。その後、2010年10月11日のワールドカップ予選、パラグアイ戦で得点し、ウルグアイ代表単独最多得点となった。

2013年6月20日のFIFAコンフェデレーションズカップ2013ナイジェリア戦で、ウルグアイ代表史上初となる通算100試合出場を達成。また、この試合では決勝点を挙げた。

所属クラブ

ユース
シニア

個人成績

クラブでの出場成績

2014年1月23日時点
クラブ シーズン リーグ カップ 国際大会 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
CAインデペンディエンテ 1998/99 2 0 - - - - 2 0
1999/00 24 7 - - - - 24 7
2000/01 36 18 - - 6 2 42 20
2001/02 18 12 - - 5 1 23 13
通算 80 37 - - 11 3 91 40
マンチェスター・ユナイテッドFC 2001/02 13 0 - - 5 0 18 0
2002/03 25 6 2 0 13 1 45 9
2003/04 24 4 2 1 4 2 32 8
2004/05 1 0 0 0 1 0 2 0
通算 63 10 1 4 23 3 98 17
ビジャレアルCF 2004/05 38 25 0 0 0 0 38 25
2005/06 32 10 2 0 13 3 47 13
2006/07 36 19 2 1 2 1 40 21
通算 106 54 4 1 15 4 125 59
アトレティコ・マドリード 2007/08 36 16 6 1 11 6 53 23
2008/09 33 32 3 1 9 2 45 35
2009/10 33 18 6 3 17 7 56 28
2010/11 32 8 3 1 7 1 42 10
通算 134 74 18 6 44 16 196 96
インテル・ミラノ 2011/12 18 2 0 0 2 0 20 2
通算 18 2 0 0 2 0 20 2
インテルナシオナル 2012 19 5 - - - - 19 5
2013 15 5 - - - - 15 5
通算 34 10 - - - - 34 10
通算 435 187 37 11 95 26 531 214

代表での年別得点

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |2002||5||2 |- |2003||7||5 |- |2004||11||2 |- |2005||9||2 |- |2006||3||0 |- |2007||9||5 |- |2008||7||3 |- |2009||9||3 |- |2010||10||7 |- |2011||14||3 |- |2012||9||1 |- |2013||10||3 |- !通算 |103||36 |}

代表での得点

# 開催日 開催地 対戦国 スコア 結果 大会
1 2002年3月27日 ダンマームプリンス・モハメド・ビン・ファハド・スタジアム テンプレート:KSAf 0–1 3–2 親善試合
2 2002年6月11日 水原市水原ワールドカップ競技場 3–2 3–3 [[2002 FIFAワールドカップ]]
3 2003年3月28日 東京都国立霞ヶ丘陸上競技場 0–1 2–2 親善試合
4 2003年8月20日 フィレンツェ、[[スタディオ・アルテミオ・フランキ スタディオ・アルテミオ・フランキ]] 1–0 2–3 親善試合
5 2003年9月7日 モンテビデオエスタディオ・センテナリオ 1–0 5–0 [[2006 2006 FIFAワールドカップ予選]]
6 2003年11月19日 ブラジルの旗 ブラジルクリチバピネイロン ブラジルの旗 ブラジル ブラジル 2–1 3–3 2006 FIFAワールドカップ予選
7 2–2
8 2004年6月1日 モンテビデオ、エスタディオ・センテナリオ 1–3 1–3 2006 FIFAワールドカップ予選
9 2004年7月10日 チクラーヨエスタディオ・エリアス・アギーレ 1–0 2–1 コパ・アメリカ2004
10 2005年3月30日 モンテビデオ、エスタディオ・センテナリオ 1–0 1–1 2006 FIFAワールドカップ予選
11 2005年6月4日 マラカイボエスタディオ・ホセ・パチェンチョ・ロメロ 0–1 1–1 2006 FIFAワールドカップ予選
12 2007年6月2日 シドニースタジアム・オーストラリア 1–1 1–2 親善試合
13 2007年7月7日 ベネズエラの旗 ベネズエラサン・クリストバルエスタディオ・ポリデポルティボ・デ・プエブロ・ヌエボ テンプレート:VENf 0–1 rowspan=2 1–4 コパ・アメリカ2007
14 1–4
15 2007年7月10日 マラカイボ、エスタディオ・ホセ・パチェンチョ・ロメロ 1–1 2–2 コパ・アメリカ2007
16 2007年10月13日 モンテビデオ、エスタディオ・センテナリオ 2–0 5–0 [[2010 2010 FIFAワールドカップ予選]]
17 2008年6月17日 モンテビデオ、エスタディオ・センテナリオ テンプレート:PERf 1–0 6–0 2010 FIFAワールドカップ予選
18 2–0
19 3–0
20 2009年3月28日 モンテビデオ、エスタディオ・センテナリオ 1–0 2–0 2010 FIFAワールドカップ予選
21 2009年6月10日 プエルト・オルダスポリデポルティボ・カチャマイ 1–2 2–2 2010 FIFAワールドカップ予選
22 2009年10月10日 キトエスタディオ・オリンピコ・アタウアルパ 1–2 1–2 2010 FIFAワールドカップ予選
23 2010年3月3日 ザンクト・ガレンAFGアレナ 1–1 1–3 親善試合
24 2010年5月26日 モンテビデオ、エスタディオ・センテナリオ 1–0 3–1 親善試合
25 2010年6月16日 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国プレトリアロフタス・ヴァースフェルド・スタジアム align="center"| 0–1 0–3 2010 FIFAワールドカップ
26 0–2
27 2010年7月2日 ヨハネスブルグサッカー・シティ・スタジアム 1–1 1–1 2010 FIFAワールドカップ準々決勝
28 2010年7月6日 ケープタウンケープタウン・スタジアム 1–1 2–3 2010 FIFAワールドカップ準決勝
29 2010年7月10日 ポート・エリザベスネルソン・マンデラ・ベイ・スタジアム 2–1 2–3 2010 FIFAワールドカップ3位決定戦
30 2011年7月24日 ブエノスアイレスエル・モヌメンタル align="center"| 2–0 3–0 コパ・アメリカ2011決勝
31 3–0
32 2011年10月11日 アスンシオンエスタディオ・ディフェンソーレス・デル・チャコ 0–1 1–1 [[2014 2014 FIFAワールドカップ予選]]
33 2012年6月2日 モンテビデオ、エスタディオ・センテナリオ 1–0 1–1 2014 FIFAワールドカップ予選
34 2013年6月20日 サルヴァドールアレーナ・フォンチ・ノヴァ 1–2 1–2 FIFAコンフェデレーションズカップ2013
35 2013年8月14日 宮城県宮城スタジアム 日本の旗 日本 0–1 2–4 キリンチャレンジカップ2013
36 0–2

タイトル

クラブ

マンチェスター・ユナイテッドFC
アトレティコ・マドリード

ウルグアイ代表

個人

脚注

  1. 「待ち望んでいた瞬間」ワールドサッカーダイジェスト、日本スポーツ企画出版社、2010年8月19日号、24-26頁
  2. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「3.E4.BB.A3」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません