日野OL不倫放火殺人事件
日野OL不倫放火殺人事件(ひのOLふりんほうかさつじんじけん)とは1993年12月14日、東京都日野市で発生した日本電気(NEC)府中事業場共通ソフトウエア事業部ネットワーク開発部員、北村有紀恵による放火殺人事件であり、不倫相手の上司の幼児2人が焼殺された事件である。
事件現場は、東京都日野市程久保650-36 「UR都市機構高幡台団地」36号棟401号室。
目次
事件概要
1993年12月14日、東京都日野市に在住する原田幸広は、出社するために妻・京子が運転する自動車で鉄道の最寄駅に向かった。原田幸広の日常の生活習慣と出社するための通勤経路・時間帯を熟知している、原田幸広の職場の部下で原田幸広の元不倫相手だった北村有紀恵(当時27歳)は、原田夫妻の不在時間帯に北村が保有していた原田の自宅の玄関ドアの鍵を使用して原田幸広の自宅に侵入し、原田幸広の自宅室内と就寝中だった原田幸広の長女・麻美ちゃん(当時6歳)、長男・祐太朗(当時1歳)にガソリンを散布して放火し、幼児2人を殺害し原田幸広の自宅を全焼させた。
警察は原田幸広の元不倫交際相手であり、原田幸広の妻に不倫関係が発覚後に、原田幸広との不倫関係は終了していたが、原田幸広に対する恋愛感情や原田夫妻との紛争により、原田幸広に対して怨恨感情を持っていたと推測される北村有紀恵を、真犯人の可能性が高い被疑者と推定していた。警察は公判を維持し有罪判決を獲得するために必要で十分な証拠を集積できず、北村有紀恵の逮捕に踏み切れない状況だったが、北村有紀恵は父親に説得され、警察の捜査が身辺に迫ったことを察知して、翌年の2月6日午後、ようやく警察に出頭して自首。事件発生から自首前日まで、いつも通り出勤していた。
北村有紀恵
1966年(昭和41年)8月7日、北村有紀恵は東京の下町で生まれた。父親は自宅を仕事場に印刷業を営んでいた。有紀恵は小学校時代から成績は抜群で近所からは「有紀恵ちゃんはかわいくって、頭のいい子だね」とうらやましがられていた。また、踊りや習字、ピアノ、お茶とひと通りの習い事を身につけた。
中学、高校は山脇学園に進んだ。成績は優秀で、ストレートで東京都立大学(現・首都大学東京)理学部数学科に合格した。大学の同級生らによると、有紀恵は頭脳明晰で多くの男子学生から注目され、性格は明るく、几帳面で、何事にもまじめに取り組むタイプだったという。数学科に在籍する女子学生はわずかで、それだけに有紀恵に交際を迫る男子学生はいたが、有紀恵にその意志がなく、彼氏と呼べる男はいなかったらしい。
北村有紀恵は大学を卒業して就職するまで特定の男性と恋愛関係になった経験は無く、男性と性関係を持った経験も無かった。
1989年(平成元年)、有紀恵は日本電気(NEC)に入社した。技術系総合職としての採用だった。数ヶ月の研修を終え、8月下旬から東京都府中市にある工場にソフトウエア事業部ネットワーク開発部員として配属され、SE(システム・エンジニア)として働いた。そこで、同じ職場で働く原田からコンピュータ技術のイロハを学んだ。7歳年上の原田は身長が180センチ近く、「ハンサム」なスポーツマンで社内の女性の注目の的だった。原田は鹿児島県の農家で6人兄弟の末っ子として生まれた。地元の商業高校を卒業後、上京して日本電気ソフトウエアに就職、SEとして働いていた。2人は最初は上司と部下の付き合いだったが、やがて「師匠」「キャッシー」と呼び合うようになり、次第に親密になっていき、デートを重ねる関係になった。
北村有紀恵は、原田幸広に妻子がいることを知りながら積極的に不倫関係になり、避妊や出産の選択をせず、二度の中絶を自分の意思で経験する。不倫を良く思わない同僚の忠告などにも耳をかさず、自分の人生を修復する決断をできなかった。
北村有紀恵は原田幸広の妻・京子に不倫関係が発覚し、原田京子から繰り返し不倫をやめるように言われたことに対して、両親に相談し、弁護士を依頼して、問題を訴訟で解決しようとしていたが、自分こそが被害者だと思い込んでいたのに、裁判の中で京子に対して自分が慰謝料を支払わないといけない加害者の立場だと知り、その後は一週間で体重が激減、その後放火殺人という暴挙にでた。
北村有紀恵と原田幸広の関係歴
1989年 出会い
平成元年、有紀恵は日本電気(NEC)に入社した。技術系総合職としての採用だった。数ヶ月の研修を終え、8月下旬から東京都府中市にある工場にソフトウエア事業部ネットワーク開発部員として配属され、SE(システム・エンジニア)として働いた。そこで、同じ職場で働く原田からコンピュータ技術のイロハを学んだ。7歳年上の原田は身長が180センチ近く、「ハンサム」なスポーツマンで社内の女性の注目の的だった。原田は鹿児島県の農家で6人兄弟の末っ子として生まれた。地元の商業高校を卒業後、上京して日本電気ソフトウエアに就職、SEとして働いていた。2人は最初は上司と部下の付き合いだったが、やがて「師匠」「キャッシー」と呼び合うようになり、次第に親密になっていき、デートを重ねる関係になった。
1990年 北村が独り暮らしを始める
平成2年秋、有紀恵は自宅から会社のある日野市まで約2時間かかる遠距離通勤をしていたが、同じ日野市のマンションに引っ越した。引っ越した理由を両親には時間に余裕をもって仕事したいからと言っていたが、毎日でも原田とデートしたかったというのが本当の理由だった。原田は日野市の公団住宅に妻子とともに暮らしていた。妻の京子とは職場で知り合い、1987年(昭和62年)に結婚していた。
1991年 原田に処女を捧げる
平成3年4月、原田の妻・京子が流産した。原田はショックを受け、有紀恵がこれに同情する形で、2人の関係はますます親密になっていく。だが、有紀恵は上司と部下の関係は決して崩すまいと思っていた。
8月6日、この日は有紀恵の25歳になる誕生日の前日で、多摩川で花火大会があった。その夜、2人で花火大会を見たあと、原田は有紀恵に誕生日のプレゼントとしてラジカセとCDを贈り、有紀恵のアパートで初めて関係した。
翌7日、2人は会社を休み、府中の郷土の森のプラネタリウムに行った。その後、多いときには1週間に数回は有紀恵のアパートに泊まることもあった。この頃から原田は社内メールをひんぱんに使い、有紀恵にメールを送り続けていた。全部で116通あり、有紀恵はこれをプリントアウトしていた。画面上のメールの文字がはかなく消えてしまうのが淋しいような、もったいないような気になり、プリントアウトしていたとのちに供述している。
10月頃、原田は有紀恵に対し、職場結婚した妻・京子のことを次のように言った。
- 「元々、今の女房みたいなタイプの女と結婚するつもりじゃなかった。たまたま入院していたときに毎日、見舞いに来てくれて、本当は東京の人と結婚したかったんだ」
- 「妻と別れて男独りになったら子どもは育てることができないからね」
- 「女房が死なないかなとか、交通事故に遭わないかなとか、すごく、思うんだ」
有紀恵はこのとき、原田との結婚を意識した。
12月24日(クリスマス・イヴ)、原田は会社を終えると、シャンパンをもって有紀恵のアパートを訪ねた。このとき、原田はこともなげに「8月が妻の出産の予定日なんですよ」と言った。それに対し、有紀恵は「そう、、、おめでとうございます」と言うのが精一杯だった。
1992年 北村の中絶
平成4年4月、有紀恵は妊娠した。だが、原田に「時期が悪い、今回は堕ろしてくれ」と言われ、5月、有紀恵は中絶した。その頃、原田の妻・京子が臨月に近かったのである。有紀恵は避妊についてのちに次のように供述している。
「奥さんには子どもができるように、私にはできないようにされるのが哀しくて、哀しくて、思い余って2回ほど拒否したことがありました。その後、ときどき、原田は避妊をしなくなりました」
その後、原田と有紀恵の2人は水子供養と称し、高尾山へ行ったり、鎌倉へ日帰り旅行、美ヶ原高原美術館へ一泊旅行、サマーランドで水泳などをして楽しんだ。原田は有紀恵に、「離婚のことも考えている」「単なる浮気じゃない」などと話をしていた。
5月23日、有紀恵の実家に近いグラウンドで会社のソフトボール大会があり、原田は有紀恵を誘った。有紀恵は車で実家に帰る予定があったので、グラウンドに寄った。そこで、原田は長女を連れて大きな腹を抱えた妻の京子を有紀恵に引き合わせた。有紀恵は「初めまして、北村と申します」と挨拶はしたものの、そのあとは気持ちが動揺して、言葉にならなかった。ほんの2週間前に中絶した私のことをこの男はどう考えているんだろうか。わざと大きな腹の奥さんを見せびらかして、無神経すぎる!あまりの衝撃に有紀恵は足が震えた。実家に帰る途中、車を停め、何度か胃の中のものを吐いてしまった。
翌24日朝、原田は有紀恵に、「妻を紹介したのはわざとやったことじゃないんだ」「すまない、許してくれ」と言って、平謝りした。それに対し、有紀恵は「じゃあ、師匠、奥さんと別れてよ」と言った。原田はしばらく考えて、「今、即答できない。少し考えさせてくれ」と言った。
7月、原田の妻・京子が2人目の子どもを産むために東北地方にある実家に帰った。原田は妻が里帰りしている1ヶ月半もの間、有紀恵のアパートで夫婦同然の生活をした。
9月上旬、京子が長男を出産、上京した。
11月、原田は有紀恵に、
- 「来年になったらキャッシーと一緒になるために“事”を起こすから、今は我慢して」
- 「ずっと、今の会社に勤める気持ちはない。将来は何か他の仕事を始めたい。ゆくゆくはキャッシーのお父さんとお母さんみたいに、自分で仕事を始めて、キャッシーと一緒にやっていきたい」
と言った。この原田の言葉を真に受け、有紀恵は通関士の勉強をするなど将来に向けて準備した。
1993年 不倫が京子に発覚
年が明け、平成5年になった。だが、原田の言う“事”は起きなかった。
2月末、原田と有紀恵が伊豆高原に旅行に出かける。
3月、原田は有紀恵に、「長女が幼稚園が休みに入る3月19日までには離婚の話を妻にするつもりだから」とか「4月5日には“決着”をつけるつもり」などと言っていた。だが、やはりその日が過ぎても何も変わらなかった。この頃、有紀恵が2回目の妊娠をした。だが、有紀恵は妊娠を理由に離婚話を積極的に進めさせることはしなかった。
4月9日、今度は自分の意志で中絶した。その頃にはようやく原田との関係を終わりにさせる気持ちが強まっていたのである。
5月18日朝、原田が出勤したあと、妻・京子が友人のところに電話をしようと自宅電話のリダイヤルボタンを押した。するとなぜか、有紀恵の電話につながり、「はい、北村です」という声が返ってきた。このとき、京子は主人が浮気をしていると直感した。女の声にも覚えがあった。すぐに主人に電話し、「私に隠れて電話するような女の人がいるのか?」と詰め寄った。すると、原田は素直に浮気を認めた。原田は会社から帰宅すると、有紀恵と約2年間、不倫関係にあったこと、その間に有紀恵が2回、中絶していることまで白状した。京子はその場で原田に土下座させ、平手打ちを浴びせた。原田は「気が済むまで殴ってくれ」と言うのがやっとだった。その後、原田は京子の前で、有紀恵に電話をかけ、「キャッシーに嘘をついていた。実はまだ何も女房に話をしていないんだ」と言った。有紀恵は電話をかけ直し、京子と直接、話をした。京子はヒステリックな調子でまくしたてた。
「今まで主人が話したことは全部嘘ですから、私は何も聞いていませんし、絶対に別れません。あなただって、家庭があるのを分かって付き合っているんでしょ。うちの主人が無理やりレイプしたとでも言うんですか・・・・・・」
有紀恵には妻子ある男と不倫したのだから自分が悪いという気持ちがあった。だから、ひたすら、すみませんを繰り返すだけだった。その素直な応対に京子は拍子抜けしてしまい、電話を勝手に切った。
だが、それだけでは終わらなかった。毎夜のように京子は有紀恵に電話をかけ、罵詈雑言を浴びせた。有紀恵は執拗な電話攻勢と自責の念で不眠症にかかり、食欲も失せて60キロあった体重が1週間から10日で40キロ台になった。
7月26日夜、京子は有紀恵に電話をかけ、あざ笑うように言った。
「生きた子どもを平気でお腹から掻き出すような人なのよ、あなたは」
この傷痕をえぐるようなひと言が有紀恵の疲れきった神経に突き刺さり、怒りに火をつけた。不倫した自分を責めるのなら、黙って謝るしかないが、この言葉は中絶して死なせた子どもまでも侮辱している。せっかく身ごもった愛の結晶を2回も堕ろさなければならなかった女の悲しみや辛さを分かっているのか。原田の2人の子どもを殺す決心をしたのはこのときであった。
8月、有紀恵は電話での応酬だけでなく、両親にも相談した上で、弁護士の元を訪れて訴訟の準備に入った。京子は有紀恵の父親に対し、「訴訟まで起こすことはないんじゃないか。全部もとにあった状態になるのが一番いいじゃないか。私も不実をした夫を許すように努力します」と言って説得した。
11月、有紀恵は京子の説得を無視し、家事調停に踏み切った。そして、調停中の12月、有紀恵は最悪の暴挙に出てしまう。
12月14日朝、京子(当時36歳)は日野市の高幡台団地36号棟401号室の自宅を出ると、いつものように出勤する夫の原田(当時34歳)を近くの駅まで車で送っていった。物陰から夫婦の車を見送った有紀恵(当時27歳)は、自分が運転してきた車を団地36号棟の近くに寄せて停めた。車を降りると、ガソリンを入れたペットボトル5本が入っているビニール袋とガソリン入りのポリタンクを入れた紙袋をそれぞれ両手に抱えて、以前に渡されていた合鍵で開錠し、ハンカチで指紋がつかないようにドアノブを回してドアを開けた。有紀恵は6畳の居間のこたつの周りにガソリンを撒いた上で、ライターでテーブルに残されていた原田のタバコの吸い殻に火をつけて、こたつ付近に投げ込んだ。だが、火がつかなかった。仕方なく今度はテーブルの上にあったダイレクトメールに火をつけようとするが、火がつかなかった。で、ふと気付いたら右手に持ったハンカチに火がついていた。有紀恵は慌ててライターとハンカチを取り落とした。そのとき、その前に火のついたタバコの吸い殻による引火によって爆燃現象が起こり、その爆風によって有紀恵が吹き飛ばされ、玄関を通り越して、402号室のドアに身体を打ちつけた。一瞬気を失ったものの、すぐに気を取り戻し、階段を駆け降りた。家屋は全焼し、奥の4畳半の寝室で寝ていた長女の麻美ちゃん(6歳)が居間で両腕を焼失し頭蓋骨は熱で割れ、大脳を露出した姿で発見され、長男の祐太朗ちゃん(1歳)が寝室で両腕とひざから下を焼失した姿で発見された。
裁判の経過・結果
裁判において北村有紀恵の弁護人は、この事件は、犯罪的・暴力的・破壊的な性格・感受性・考え方の傾向が全く無かった北村有紀恵が、北村有紀恵を性欲の対象としてもてあそぶことしか考えない原田幸広に、虚言により騙されて心と体を傷つけられたことが原因だと主張し、被告人は犯行当時は心神耗弱だったと主張し、情状酌量による減刑を主張した。
地裁・高裁・最高裁のいずれも、原田幸広が北村有紀恵を性欲の発散の対象としか考えず、北村有紀恵の尊厳を侵害し、北村有紀恵に対する思いやりが無く、北村有紀恵を虚言で騙し、北村有紀恵の心と体をもてあそび、結果として北村有紀恵の心と体を傷つけたことを認定し、原田幸広を人道・道徳・倫理の観点から非難はしたが、法的な観点から原田幸広の責任を問う事はなく、この事件の犯行の根本的な原因・責任は、北村有紀恵の性格・感受性・考え方の短所・欠点が現象形態として作用したと認識する検察官の主張を認定し、北村有紀恵はBの虚言による騙し、原田幸広により心と体をもてあそばれ、心と体を傷つけられた被害者で犯行時は心神耗弱状態だったから、減刑が適切であるという弁護人の主張は認定しなかった。
- 1995年(平成7年)11月、原田夫妻は有紀恵に対して、1億1300万円を求める民事訴訟を起こした。京子は「彼女に支払い能力があるとかないとか、金銭の問題じゃない。世間が彼女のことを可哀相な女と言っても、私だけは許さない」と言いきった。
- 1996年1月19日、東京地裁は北村に対して、検察の主張を全面的に認定して、検察の求刑どおり無期懲役の判決をした。被告人と弁護人は、裁判所が検察の主張を全面的に認定し、被告人が原田幸広の虚言に騙され、もてあそばれて心と体を傷つけられた被害を考慮せず、量刑が重過ぎると言う理由で6日後に控訴した。
- 1996年6月、有紀恵の両親は被災住民9世帯に200万円を支払って示談を成立させ、同様に団地を管理する住宅・都市整備公団とも示談にこぎつけた。
- 1997年10月2日、東京高裁は地裁の判決を維持し、被告人・弁護人の控訴を棄却した。被告人と弁護人は、裁判所が検察官の主張を全面的に認定し、被告人が原田幸広の虚言に騙され、もてあそばれて心と体を傷つけられた被害を考慮せず、量刑が重過ぎると言う理由で上告した。
- 2001年7月17日、最高裁は地裁の判決を維持し、被告人・弁護人の上告を棄却し、北村有紀恵の無期懲役刑が確定した。
- 原田夫妻が子供2人を殺害されたことに関して、北村に損害賠償を求めた裁判では、北村有紀恵の両親が原田夫妻に1500万円を賠償金として支払ったことに加えて、北村有紀恵が原田夫妻に3000万円の賠償金を支払うことで和解が成立した。
その他
北村有紀恵は裁判中に講談社が発行する雑誌『月刊現代』で、弁護士に宛てた私信を公表。「獄中手記 私が落ちた愛欲の地獄」というタイトルがあったが、「タイトルは現代編集部がつけたもので、本文は北村有紀恵が書いたものではなく編集部がまとめたもの」という断り書きがあった。
やがて北村有紀恵は受刑開始後、創出版が発行する雑誌「月刊創」において、「不倫放火殺人OLと呼ばれて」という手記を発表して、自分が原田夫妻の自宅に放火し、原田夫妻の子供2人を焼殺し、原田夫妻の自宅を全焼させたことは深く反省していること、自分が焼殺した原田夫妻の子供2人に対しては毎日冥福を祈願していることを表明したが、自分が原田幸広に騙され、もてあそばれて、心と体を傷つけられた被害者だという面もあることを理解してほしいと訴えている。
原田幸広はこの事件で勤務先を実質的に解雇(形式としては自己意思による退職)された。原田夫妻の間には事件後、1男1女が生まれた。
劇化
この事件を野田秀樹が2008年に「THE DIVER」にて劇化、イギリスで上演された。また、日本でも公演が行われた。
『性犯罪事件簿 ダブルフェイス』(監督&脚本・小松越雄/出演・丸純子&大浦龍宇一・・・/配給・エンゲル/2001)がある
被疑者の逮捕後の報道
「悲劇のキャリア・ウーマン」――都内にある私立山脇学園高校から、十数年ぶりの合格者として都立大学理学部数学科に入学。卒業後は、NECに入社し、SE(システム・エンジニア)として活躍した才媛だった。北村の起こした凄惨な事件は、マスコミの注目を集めた。
特に月刊「現代」誌上で、弁護士にあてた北村の私信が2回にわたり公表され(平成7年9・10月号)、話題を呼んだ。記事のなかで、原田が北村に対し、「離婚してキャッシーといっしょにやっていく」「キャッシーは理想の人」などと甘言を弄したことが暴かれた。
しかし、実際には妻・京子に離婚話はおろか、北村の存在すら明かしていなかった。また2度の妊娠中絶を北村に強いながら、平然と妊娠中の妻に引き合わせたなど、不実の一切が仔細に綴られている。
原田は浮気が発覚して、妻からビンタを食わされた時のことを法廷で尋ねられ、「気合を入れてもらっていた」と述べている。優柔不断を絵に描いたような男だった。鹿児島県の農家の出身で、兄4人、姉1人の6人兄姉の末っ子。母親や姉は性格的に強い人だった。
地元商業高校を卒業後、上京して、日本電気ソフトウエアに就職。SEとして働いていた。サラリーマンとしての周囲の評価は、可もなく不可もなくといった程度。性格は温和でおとなしく、子煩悩。生来、口の重いところがあった。
北村は、夫の浮気に逆上した京子が、いまだ中絶の精神的ストレスが癒えない自分に向かって、「子供を抱いた時のあの気持は……」と勝ち誇ったように自慢したうえ、さらに「生きている子供を平気でお腹から掻きだすような人なのよ、あなたは」と侮辱したと主張した。
北村有紀恵と、北村有紀恵の元上司・元不倫交際相手である原田幸広との入社後の関係、北村有紀恵が放火殺人に至るまでの経緯が明らかになると、多くの新聞社・テレビ放送社・出版社・評論家は、この事件は北村有紀恵を騙して、もてあそんで、北村有紀恵の心と体を傷つけた原田幸広と、北村有紀恵に対して厳しい非難と罵倒を繰り返し、北村有紀恵を精神的に不安定にさせ、北村有紀恵が精神的に耐えられなくなって暴発するまで追い込んだ妻・京子に根本的な原因と責任があり、北村有紀恵は被害者であると評価する、北村有紀恵に対して同情的な報道を繰り返した。
その反面、多くの新聞社・テレビ放送社・出版社・評論家は、北村有紀恵が原田幸広・京子夫妻の子供2人と原田夫妻の自宅室内にガソリンを散布して放火し、子供2人を焼殺し、自宅を全焼させたこと、原田夫妻の自宅の周辺家屋にも延焼させたことという、修復不可能または重大な罪に関しては、北村有紀恵が非難されず、成人の男女である原田幸広と北村有紀恵がお互いの身上を認識して不倫関係になり、結果として原田幸広の妻の家庭の平穏を侵害したこと、原田幸広だけでなく北村有紀恵も避妊の努力をしなかったこと、原田幸広に要求されたとしても最終的には北村有紀恵の判断で中絶したことなど、犯行に至るまでの北村有紀恵と原田幸広の不倫関係における北村有紀恵の責任は十分に問うことなく、北村有紀恵に共感・同情の感情移入した報道・評論を繰り返した。
参考文献
- 『月刊現代1997年9月号・10月号 獄中手記 私が落ちた愛欲の地獄』講談社
- (著者が受刑者のため省略)『月刊創2002年3月号・4月号 不倫放火殺人OLと呼ばれて』創出版
- 中尾幸司『新潮45 - 2003年1月号 日野OL不倫放火殺人被害者夫妻10年目の初告白』新潮社
- 新潮45編集部『その時殺しの手が動く 引き寄せた炎、必然の9事件』新潮社
- 犯罪心理追跡斑、町沢静夫、宮台真司『報道できない 超異常殺人の真実』竹書房
- 事件犯罪研究会『明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典』東京法経学院出版
外部リンク
掲示板サイト『2ちゃんねる』の本事件に関する議論のスレッド。上記の参考文献『月刊創2002年3月号・4月号』に掲載された、加害者の手記の内容の概要が読める。