化粧
この記事の出典が知りたいと言っていた人がいたようです。 |
この項目では、{{{1}}}について説明しています。その他の用法については「化粧 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
メイクアップは、この項目へ転送されています。その他の用法についてはメイクアップ (曖昧さ回避)をご覧ください。 |
化粧あるいは仮粧(けしょう)とは、
- 白粉(おしろい)や紅(べに[注 1])などをつけて顔(など)を装い、飾ること[1]。英語で makeup(カタカナでは「メイクアップ」「メーキャップ」と表記)フランス語で maquillage 「マキアージュ」「マキヤージュ」。
- (建築用語)外から見えるところ[1]。建造物・工作物・道具・器具・機器などの内外の表面を、ある目的をもって仕上げること。
- 虚構・虚飾・脚色など、上辺(うわべ)のこと。中身がともなわないこと。「化粧軍(けしょういくさ)」と言うと、たたかっているフリだけをしていて、実際の戦力としては役に立とうとしていないこと。
目次
概説
ブリタニカ百科事典によると、化粧というのは、人間の顔を中心として首・手・足などの表面に化粧料をほどこし、美化することである[2]。広義には、(人だけでなく)ものの外観を美しく飾ることである[2]。
見る人の印象を操作するという機能・本質部分では、化粧と「装飾的な衣服」は同一であり、元来は一体的なもので、化粧のほうが洗い流すものであるのに対し、衣服は着脱可能で、はずしても原型をとどめる、という違いがある(/ 違いくらいしかない)ということになる[2]。
歴史 古代から一部の人が化粧をしていた。古代エジプトでは王族などがすでに化粧をしていたらしい。中世ヨーロッパでは「七つの大罪」のひとつの「傲慢」にあたるとして行われなくなった。→#歴史
様々な目的 王族などが人前に現れる時、化粧を用いた。祭礼などでも化粧が行われる。
俳優は、舞台に立つ時は、独特の化粧をする。たとえば、目・鼻筋・口などが遠くからでもはっきり判るような化粧をする。これを「舞台化粧(ぶたいげしょう)」と言う。各国の伝統的演劇の多くが独特の化粧を用いている。例えば京劇では、役柄に応じた特定の模様の化粧をする。日本の歌舞伎でも、役柄ごとに決まった化粧がある。
材料・道具など 化粧に用いる品々を、(主にからだに塗る粉・液・ペーストの類を)「化粧品」と言う。道具類は「化粧道具」と言う。化粧を行うための部屋は「化粧部屋」「化粧室」という。
歴史
古代
この記事の出典が知りたいと言っていた人がいたようです。 |
[[en:History of cosmetics]] も参照
紀元前1200年代頃のエジプトでは、人々が目や唇に化粧をしている絵画が見つかっている。ツタンカーメンの黄金のマスクを例にとると、目の周囲にアイラインをしていることが見てとれる。当時のアイラインの原料は、紺色の鉱石であるラピスラズリであり、それを微細な粉にして液体に溶かして使用していた。これには病気を媒介する蚊や蝿を近づけない虫除けの意味もあった。また、黄色の顔料を肌に塗って日焼け止めにしたり、香油で乾燥した皮膚をやわらかくするなど、砂漠地帯ならではの化粧も行われていた。これらの化粧は時代が下るにつれて神官などの特権階級のシンボルとなっていった。現在でも中近東地域ではこのようなアイラインを日常に行っている。特権階級となった王族や神官たちは『白い肌は肉体労働をしていない証拠』と鉛白を使って肌を白く塗り始めた。この風習は鉛の有毒性を知られてもなお続き、18世紀まで続いた。
古代ギリシャでは、日ごろの鍛錬こそが美しさにつながる、とし、本物の肉体的な美しさを求めた為、化粧はあまりなされなかった。
古代ローマでは、一般には行われていなかった。だが、上流階級は生活が乱れており、不摂生(特に食生活の乱れと運動の不足)を隠す為と、アレクサンドロス3世(大王)の東征によりオリエントの文化が流入した為、鉛白などを使った化粧行われた。また、紀元2世紀のローマ帝国時代のギリシアの医師 ガレノスは現在のコールドクリームの原型を作ったとされる。
その後、ヨーロッパでは化粧文化はキリスト教の「神がお作りになったものに手を加えてはならない」という教えと、虚飾は罪である、という考え方により、一時廃れることになる。七つの大罪 の中でも最も重い罪が「superbia 傲慢」であり、「虚飾」は、この最も重い罪「傲慢」に含まれている。[注 2]
中世ヨーロッパ
この記事の出典が知りたいと言っていた人がいたようです。 |
キリスト教の影響で公然と化粧をすることが出来なくなってもなお、特権階級の人々は肌を白く見せる為の努力をした。ビールで顔を洗ったり、眉を剃って細くし額の髪の生え際を剃って髪を結い上げることで顔の白さを強調したり、極端な場合は瀉血をして人為的に貧血になることで肌を白く見せようとした。
時代は下り、宗教革命の影響で教会の権力が弱くなった中世ヨーロッパでは、顔に蜜蝋を塗り、その上に白粉を叩くという化粧方法が流行した。この化粧のはじまりはイギリスの女王エリザベス1世とされ、戴冠式などの教会の儀式で聖性を高める目的で行われ、また、貴族達もそれに倣うようになった。この化粧の問題点は蝋が溶け、化粧が崩れるのを避けるために、冬や寒い日でも暖房に近づくことができなかったことである。当時の白粉は鉛白などが含まれていたために皮膚にシミができやすかったとされる(鉛中毒)。これをごまかすために「つけぼくろ」が一時期貴族の間で流行した。16世紀には水銀を使った白粉が登場し、肌の皮膚がボロボロとはがれて吹き出物が取れる事から持てはやされたが、水銀中毒により歯茎が黒ずんで歯が抜ける副作用があり、口元を隠す為に扇子が流行した。再び化粧が流行した背景にはヨーロッパとイスラーム社会の争いがある。当時のイスラームは科学技術が発達していた上に裕福で、十字軍は遠征先から香水や香油をヨーロッパに持ち帰ってきた。また、イスラームから天然痘を持ち込んでしまい、その後遺症である『あばた顔』を隠す為に白粉を厚く塗ることがはやり始めた。
近代ヨーロッパ
18世紀は再び自然志向が強まり、薄い化粧が流行した。19世紀には上流階級の女性の間で病弱で痩せた体が持てはやされ、食事を抜き夜更かしをした上で静脈を強調する青い化粧や、黄疸に見せかける黄色い化粧が流行した時期が有った。また、科学者や医薬品メーカーが化粧品開発に関わるようになり、化粧が安価に出来るようになった。但し、フランス革命などの一連の市民革命の結果特権階級が衰退したのに伴い男性の化粧の風習は廃れ、第二次世界大戦後にはほぼ完全に姿を消した。1899年には人体に無毒な酸化亜鉛を使った白粉が開発された。
日本
この記事の出典が知りたいと言っていた人がいたようです。 |
古代〜江戸時代
日本では3世紀後半の古墳から、赤い顔料で顔や身体に化粧を施した埴輪が出土している。古墳時代の化粧は呪術的な意味合いのものである[3]。
飛鳥時代、遣隋使によって大陸との交流が始まり、紅や白粉などが輸入され、日本でも鉛を使った白粉が作られた。これを献上された持統天皇が大変喜んだと「日本書紀」にある。
日本では古代から大正時代に至るまで、お歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る化粧が行われていた。平安時代には男性もお歯黒をすることがあったが、江戸時代にはお歯黒は既婚女性の習慣となった。黒い歯は「ほかの人の色に染まらない」という貞女の証しだが、この風習が長く続いたのは、タンニンの効果で歯槽膿漏の予防にもなったからだろう[3]。
口紅は紅花を原料にしたものが使われていたが、極めて高価な品とされていた。日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に水銀や鉛を含んでいた。長期的な使用者には鉛中毒や水銀中毒による肌の変色(白粉焼け)が多くみられたといわれている。
男性も、公家が古代より白粉などで化粧をする習慣が存在し、幕末まで続いた。武家もやはり公家に習い公の席では白粉を塗っていたが、江戸時代中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。ただし、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったという。
江戸時代に入り、上流階級だけではなく庶民も化粧をするようになり、世界で初めて庶民向けの化粧品店が開かれた。江戸時代の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出した。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという手間のかかるものであった。口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見せた。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残った。結納のすんだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には引眉が行われる風習があった。和服はうなじが広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視された
明治〜大正
1870年(明治3年)、政府は皇族・華族に対しお歯黒・引眉禁止令を出した。当初はなかなか徹底されず、3年後皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになった。これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れた。しかし、お歯黒の習慣は大正時代まで根強く残った。高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいた。一方、男性の化粧は富国強兵のスローガンの下で「化粧をする男性は軟弱だ」と言われ、廃れていった。
明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、1900年には国産の無鉛白粉が発売された。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、害があることが知られていたにもかかわらず、昭和初期まで使われ続けた。
大正時代には、和風の化粧をベースに、西洋の頬紅を使ったり耳元に紅を入れるなどの和洋折衷の化粧が流行った。白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものも使われるようになった。
本格的に西洋風の化粧が行われたのは、関東大震災後のことだった。モダンガール(モガ)と言われた一部の女性たちの間に、アイシャドウや唇全体に塗った口紅といった化粧が行われ、断髪や足の出るスカートといったいでたちとともに、保守的な人々の非難の的となった。
20世紀後半以降
1950年代には、明るく血色が良く見える肌色が重視され、ピンク系のファンデーション、真っ赤な口紅などが流行した。アイシャドーやマスカラなどのアイメイクが導入されたのもこのころである。
1960年代から1970年代には、健康的で溌剌としたイメージを演出するため、オレンジ・イエロー系のファンデーション、ピンクベージュ系の口紅が好んで使われた。細く眉尻の上がった眉が流行した。明るい色のチーク、マスカラやアイシャドウで目元を強調する化粧が大いに流行した。
1970年代後半から1980年代には、「ナチュラルメイク」が市民権を得、個人の個性を生かして自然な顔に見せる化粧が広まっていく。天候やTPOに合わせた化粧の使い分けが定着したのもこのころである。日本人らしい顔立ちが見直され、アイメイクは控えられるようになり、太い眉毛(太眉)が流行した。
1990年前後のバブル期には、紫外線の害が広く知られるようになったことから、美白化粧品が売り出された。濃くはっきりした色の口紅を塗り、白系のファンデーションをしっかり施す化粧が流行した。
1990年代中盤に入ると「癒し系」メイクが流行し、きちんと化粧を施しつつも、素肌の質感を残すナチュラルメイクが主流になった。従来の真っ赤な口紅は廃れ、ベージュ系の口紅が好まれるようになった。1970年代ブームから、細い釣り眉やマスカラが復活した。
1990年代後半から2000年代には、ファッションの多様化が進んだ。前述の美白指向の定着により、ナチュラルな白肌メイクが多数派になっているが、濃い色のチークやファンデーションも好んで使われ、一時は「ガングロ」と言われる黒い肌の女性も現れた。
目的による分類
- 舞台用
- 舞台で演技を行なう者は、通常より濃い化粧をする。目・眉・口などの顔のパーツ、鼻筋や頬など顔の陰影を強調し、離れた観客にも表情などが判りやすいよう工夫がされている。また歌舞伎や京劇などでは「隈取」と呼ばれる独特の化粧をする。表情や感情を伝える目的というだけでなく、隈取の種類によって役どころ(二枚目・悪役・娘役など)を見分ける一助としての役割を果たしている。
- テレビ用
- テレビ、特にCMやテレビドラマなどでは、通常以上に顔の皮膚がアップで映るため、特にファンデーションやその下地に重点を置いた化粧がなされる。
化粧の心理作用
化粧の内容にも左右されるが、一般的な化粧によって得られる心理的効果には自尊心の向上と、社会的な幸福感がある[4]。化粧することによって自分の身体的問題点をカバーし、自己呈示したい特徴を増強することで、自己評価を高めるとともに社会的積極性を高めることになる。
化粧の作業には適度な緊張が生じることから気持ちの切り替えがしやすく、鏡に向かうことによって自己意識や内省的な傾向を高めるなど、心理的な安定をもたらす効果がある[4]。また、うつ病や老人性認知症などの患者に対して化粧指導することで、平板化した感情を活性化し、社会復帰を促す効果が示されている[5]。
化粧行動は他者や世間への関心を前提として、自分の印象を管理することで関係の調和を図り、社会的承認欲求を満たすことが基本的な動機となる[4]。また、入念なメイクアップをすることで、変身願望や若返りといった自己満足を達成する意味もある。化粧による自己満足感は年代的には30代後半で特に多く認識されており、その後はしだいに習慣性のものと認識される傾向がある。
主な化粧品
- 洗顔料
- 化粧水
- 美容液
- 乳液
- ファンデーション
- コンシーラー
- 眉墨
- 頬紅(チーク)
- 口紅(ルージュ)
- グロス
- アイライン
- アイシャドー
- マスカラ
- アイプチ・アイテープ
- おしろい
- マニキュア・ペディキュア
概要について詳しくは化粧品を参照のこと。
関連職種
建築
建物の表面に、(白など、見栄えのする色の)塗料を塗ることなどを「化粧」と言う。
化粧板(けしょういた)というのは、表面をかんなで削って仕上げた板のことである。
脚注
- 注
- ↑ 赤っぽい色彩に見せるもの。頬紅(ほおべに)、口紅(くちべに)等 のせる部位によって呼び分けられている。
- ↑ もともと、4世紀のエジプトの修道士エヴァグリオス・ポンティコスが枢要罪として「暴食」「色欲」「強欲」「憂鬱」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」の八つを挙げており、それを6世紀後半にグレゴリウス1世が七つにまとめなおした、ということらしい。
- 出典
- ↑ 1.0 1.1 広辞苑第六版【化粧・仮粧】
- ↑ 2.0 2.1 2.2 ブリタニカ百科事典 「けしょう」【化粧】
- ↑ 3.0 3.1 日本経済新聞朝刊2016年12月21日付
- ↑ 4.0 4.1 4.2 大坊郁夫 二宮克美、子安増生(編)「化粧行動」『キーワードコレクション 社会心理学』 新曜社 2011 ISBN 9784788512368 pp.202-205.
- ↑ Cosmetic Program による入院がん患者のQOL改善の試み - 野滞桂子, 小越明美, 斉藤善子, 青木理美 『健康心理学研究』 Vol. 18 (2005) No. 1、J-STAGE 2017年9月19日閲覧。