ホックレー事件
ホックレー事件(ホックレーじけん)は、1945年8月15日の玉音放送の後に、千葉県長生郡一宮町で、同地に配属されていた第147師団の歩兵第426連隊が、同日撃墜されたイギリス海軍艦載機搭乗員のフレッド・ホックレー志願少尉を殺害した事件。1947年にBC級戦犯裁判(イギリス軍香港裁判)で裁かれた。
事件
1945年8月15日の午前10時頃、千葉県長生郡西村(現・長南町)の上空で、イギリス海軍の空母インディファティガブルの艦載機が日本軍の戦闘機によって撃墜された。搭乗員だったフレッド・ホックレー少尉は東村(現・長南町)にパラシュート降下して警防団員に捕獲され、東村の教育隊(国民学校)に連行された[1]。玉音放送の後、ホックレー少尉は第147師団歩兵第426連隊の岩井本部で教育隊から第426連隊のF大尉、S少尉、H曹長らに引き渡され、午後5時頃、同連隊一宮本部が置かれていた一宮町の一宮国民学校(現・一宮町立一宮小学校)に移された[2][3]。
岩井本部からF大尉らが第147師団司令部に英兵捕虜の処遇に関し問い合わせたところ、第147師団の参謀・平野昇少佐は、「連隊で処置せよ」と指示した。[2]
- 平野少佐は戦後の戦犯裁判で、午前中の電話で(護送のため)自動車を手配すると話をしていたので、「連隊で手配してほしい」という意味で「処置せよ」と言ったと主張した。第426連隊の連隊長・田村昇大佐は、平野少佐が「処分せよ」と指示したと主張した。[2]
一宮本部への護送後、第426連隊の連隊長・田村昇大佐はS中尉に処刑を指示し、鶴舞の師団司令部の会合に出席するため外出した。S中尉はH曹長に命じて処刑予定地に穴を掘らせ、F大尉に「田村連隊長から処刑命令が下り、準備ができたので処刑してほしい」旨を伝えた。F大尉はホックレー少尉を山中に連行し、拳銃で撃った後に刀で背中を刺して殺害し、遺体を穴に埋めた。[2]
隠蔽工作
1945年10月頃、進駐軍が茂原の海軍保安隊を通じて第147師団宛てに、同年8月15日に茂原西南方付近に墜落した英軍機搭乗員ボナス少尉の死体の捜索を要求し、第147師団の平野参謀は第426連隊に調査を命じた。第426連隊の田村連隊長は、同月中旬に山中に埋めたホックレー少尉の死体を掘り起こして火葬し[4]、一宮の実本寺に遺骨を安置した上で、同年11月初旬に連隊関係者を集めて「ホックレー少尉は負傷によって死亡したことにする」と申し合わせた。同月末に第147師団の平野参謀が東部管区司令部に提出した報告書では、ホックレー少尉はパラシュート降下時に警防団や村人から「鳶口か何かで打たれたような」傷が原因で死亡したとされた。[5]
しかし、近隣住民の間ではホックレー殺害が噂されていた。同年12月から翌1946年2月にかけて、東部復員監部が第147師団と第426連隊の関係者に事情聴取したところ、田村連隊長の報告内容に矛盾があることがわかった。しかし、田村連隊長は報告書どおりの内容を主張し、東部復員監部は上部機関の第一復員省に報告しないまま調査を中止して、書類を焼却した。しかし、同年2月から4月にかけて、進駐軍は田村連隊長や第426連隊のF大尉を東京の極東空軍司令部(明治生命館)に呼んで尋問した。田村連隊長の陳述の疑問点について問われたF大尉は、ホックレー少尉の殺害を自供した。F大尉は自供の翌日、服毒自殺を図ったが未遂に終わり、国立第一病院に入院した。田村連隊長は一転して処刑の事実を認めたが、平野参謀から連隊への指示を問題にした。[6]
BC級戦犯裁判
1947年6月13日に、事件はイギリス軍香港裁判で裁かれ、第147師団付参謀の平野少佐と歩兵第426連隊長の田村大佐は絞首刑、処刑実行者であるF大尉は禁固15年の判決を受けた[7][8]。平野少佐と田村大佐は1947年9月16日に香港で処刑された[8]。
付録
関連文献
- 福林徹『本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士』私家版[9]
- GHQ/SCAP法務局調査課報告書155号文書、国立国会図書館所蔵[9]
- 石橋正一『幻の本土決戦 - 房総半島の防衛 第8巻』千葉日報社、1994年、JPNO 95022868
- 零戦搭乗員会(編)『海軍戦闘機隊史』原書房、1987年、ISBN 4562018429
- 秦郁彦『8月15日の空 - 日本空軍の最後』〈文春文庫〉文藝春秋、1995年、ISBN 4167453037
脚注
- ↑ ホックレー機と交戦した日本軍機はホックレー機の墜落地点近くに墜落し、パイロットは即死した(笹本 2004 59)。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 笹本 2004 54-55,57,62-64
- ↑ 連行先は、国民学校ではなく、某男性の自宅だったとの証言もある(朝日新聞 2001 、笹本 2004 73,75)。
- ↑ 事件から1ヶ月ほど経った某日、村落の人が祭で家から出払ったときに、某男性の父親と職人の計4人で掘り起こしたとの証言がある(朝日新聞 2001 )。
- ↑ 笹本 2004 64-66
- ↑ 笹本 2004 66-70
- ↑ Linton 2010
- ↑ 8.0 8.1 岩川 1995 237-238
- ↑ 9.0 9.1 笹本 2004 278
参考文献
- Linton (2010) Suzannah Linton、Hong Kong's War Crimes Trials Collection Website > Case No. WO235/1021、University of Hong Kong Libraries、2010年12月25日、2018年4月25日閲覧
- 笹本 (2004) 笹本妙子『連合軍捕虜の墓碑銘』草の根出版会、2004年、ISBN 4876482012
- 朝日新聞 (2001) 「消えない銃声 -56年後の検証 - (1) - (5)」『朝日新聞』千葉版、2001年8月9,10,12,14,15日掲載
- 岩川 (1995) 岩川隆『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915
- 東京裁判ハンドブック (1989) 東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年、ISBN 4250890139