細川晴元

提供: Yourpedia
2018年2月22日 (木) 19:52時点におけるYuicheon Exp. (トーク | 投稿記録)による版 (防人 (トーク) による版 350935 を取り消し)

移動: 案内検索

'''細川 晴元'''('''ほそかわ はるもと''')は[[室町時代]]末期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[戦国武将|武将]]・[[戦国大名]]。[[本姓]]は[[源氏]]。[[家系]]は[[清和源氏]]のひとつ[[河内源氏]]の流れを汲む[[足利氏]]の[[庶流]] [[細川氏]]。[[官位]]は[[従四位|従四位下]][[右京大夫]]。[[正室]]は[[三条公頼]]の長女であり、その縁から[[武田信玄]]・[[本願寺顕如]]の義兄に当たる人物でもある。 == 生涯 == 永正11年(1514年)、細川澄元の子として生まれる。永正17年([[1520年]])、澄元が[[阿波国|阿波]]で死去したため、晴元は7歳で家督を継承した。 大永6年([[1526年]])、[[三好元長]]らと共に挙兵して[[細川高国]]を攻め、大永7年([[1527年]])に高国が第12代将軍・[[足利義晴]]らとともに[[近江]]へ落ち延びると、晴元は[[足利義維]]と共に[[和泉国|和泉]]堺を本拠とし、義維を将軍と成した([[堺公方]])。[[享禄]]4年([[1531年]])、三好元長に命じて、高国を[[摂津国|摂津]]天王寺において討たせた([[天王寺の戦い]])。この戦いにおいて高国は戦死している。 しかしやがて元長と対立し、[[天文 (元号)|天分]]元年([[1532年]])に晴元は[[本願寺証如]]や[[木沢長政]]らと手を結び、[[一向一揆]]を扇動して元長を堺で殺害した。さらに足利義維とも不和になったために追放し、将軍・足利義晴と和睦した。その後、一向宗は堺公方を襲撃するなど対立し、対立宗派の[[法華宗]]と協力して[[法華一揆]]を誘発させ、領内で一向宗の活動が活発であった近江の[[六角氏]]とも協力して[[山科本願寺]]を攻めた。天文5年([[1536年]])には京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、[[比叡山延暦寺]]・六角氏と連合して壊滅させた([[天文法華の乱]])。天文6年([[1537年]])、右京大夫に任官し、幕政を支配した。 天文12年([[1543年]])、細川高国の養子・[[細川氏綱]]が晴元打倒を掲げて挙兵した。氏綱は[[畠山政国]]や遊佐長教らと手を結び、将軍・足利義晴も天文15年([[1546年]])、将軍職を実子の[[足利義輝]]に譲った上で氏綱を支持し、晴元と敵対する。これに対して晴元は義晴らを近江坂本へ追放し、氏綱らと戦い続けた。 しかし天文17年([[1548年]])、元長の嫡男で三好宗家の家督を相続していた[[三好長慶]]が、晴元に一族の[[三好政長]]の討伐を要請し、これを拒否されたため、天文18年([[1549年]])に氏綱側に寝返った。このため、晴元は摂津江口において長慶らと戦って敗北する([[江口の戦い]])。この戦いで三好政長・[[高畠甚九郎]]ら多くの配下を失った晴元は、将軍・義輝や義晴と共に近江へ逃れ、こうして細川政権は終焉した。 その後、晴元は将軍・足利義輝を擁して三好長慶と争うが、敗北し続け、永禄4年([[1561年]])に[[六角義賢]]の仲介を受けて長慶と和睦する。そして剃髪し、摂津富田の普門寺に隠棲した。 永禄6年(1563年)3月1日に死去。享年50。 [[category:守護大名|ほそかわ はるもと]] [[category:戦国大名|ほそかわ はるもと]] [[Category:細川氏|はるもと]] [[Category:1514年生|ほそかわ はるもと]] [[Category:1563年没|ほそかわ はるもと]]