耿諄

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耿 諄(こう じゅん、ピンイン:geng3 zhun1、1914年頃-2012年8月27日)は、中国・河南省から日本に連行され、鹿島組花岡出張所で働かされた、花岡事件の「受難者」の1人。大隊長として華人労務者隊を統率し、1945年6月30日の蜂起を計画・指揮した。1946年に中国に帰国していたが、1985年に帰国後の消息が明かになり、日本からの招請を受けて1987年に訪日した。その後、中国で花岡受難者聯誼会を組織して、1989年に鹿島建設に謝罪と損害賠償、花岡事件の記念館の建設を要求。1995年に提訴された対鹿島訴訟の原告団の代表となった。2000年の和解成立後、原告団の一員としてその総意は尊重するとしつつも、個人的には和解を拒否した。

経歴

日本への連行まで

1932年頃、18歳のときに軍隊に入隊[1]

1944年5月、洛陽の防衛戦(大陸打通作戦京漢作戦)で、大尉として180人ほどの部隊を指揮していたとき、腹部貫通銃傷を受け、日本軍の俘虜となる[2]石家荘の俘虜収容所に入れられ、後に北京の捕虜収容所に移された[3]

青島から船に乗せられ日本に向かう途中で、日本軍から華人労務者の代表者に指名される[4]

花岡事件とその後

日本に到着後、鹿島組花岡出張所では、「中山寮」に収容されていた華人労務者隊を大隊長として統率。1945年6月30日の蜂起を計画・指揮した[5]。暴動事件で逮捕された後、花岡の派出所へ連行され、特高警察や憲兵隊の取調べを受け、秋田刑務所に拘置された[6]

同年9月11日に秋田地方裁判所で「戦時騒擾殺人罪」により無期懲役の有罪判決を受け、その数日後に秋田に進駐してきた米軍に保護されるが、戦犯裁判の証人として引き続き留置される[7]

その後、東京の中野刑務所に移管され、中華民国代表団の門衛をしながら戦犯裁判の証人として日本に残っていたが[8]、1946年10月中旬ないし11月に中国・河南省襄城県に帰郷[9]

1947年9月、戦犯裁判への出廷の呼出状を受け取り、上海へ向かうが、出廷日から1ヶ月ほど遅れて到着し、戦犯裁判には出廷しなかった。その後、南京の軍招待所で次の出廷を待つ間に内戦が激化し、貴州へ移動。1949年に貴州が解放軍によって解放された後、帰郷しようとしたが、重慶で足止めされ、同所で建設労働者として働いた。[10]

1954年に妻の実家のあった河南省襄城県霊樹村へ帰る。帰郷後は農家になり、1955年にできた合作社、1958年にできた人民公社の社員として働いた。[10]

1966年からの文化大革命では、以前国民党の中隊長だったため、反革命分子として批判闘争会で吊し上げられて殴られたり、便所掃除や肥汲み、雪かきなどを課せられ、家族も苛められるなど、激しく攻撃された[11]

その後、名誉回復が行われ、1984年に襄城県の政治協商会議の委員になった。1985年に同会副主席に選ばれ、3期13年を務めた。1988年から1993年まで、河南省政治協商会議委員に選出。[12]

鹿島建設との補償交渉

戦後、1985年に至るまで、耿諄は、BC級戦犯裁判の結果については伝え聞いていたが、遺骨送還運動のニュースなどは知らずにいた[13]

1985年7月5日付の『参考消息』で、日本で花岡事件の40周年の慰霊祭が行われ、戦後も日本に在留していた元華人労務者の劉智渠らが、鹿島建設に元華人労務者の労務金の支払いを要求していることを知り、劉に書簡を送る[14]

同年11月に、河南省襄城県で、訪中した劉らと会い、開封石飛仁のインタビューを受けた[15]

1987年6月26日に来日し、同月30日に大館市花岡町の十野瀬公園で、市主催で開催された「中国人強制連行殉難者慰霊式」に出席[16]。この訪日の際に、鹿島が責任を認めず、労賃は支払済で、遺族に救済金も支払っており、戦犯裁判は間違った裁判だ、と主張していると聞き、鹿島と戦う意思を持ったという[17]

帰国後、中国在住の花岡事件の生存者や遺族約40人と連絡を取り合い、1980年代末に花岡受難者聯誼会を組織[18]。1989年12月22日に北京市で鹿島建設に対して謝罪等を要求する公開書簡を公表、中国人強制連行を考える会や在日華僑団体の支援を受けて、鹿島建設との補償交渉を行なった[19]

和解成立後

2000年11月に花岡事件の対鹿島訴訟で和解が成立した後、聨誼会は会として和解条項を受け入れたが、原告団の中でも耿諄ら十数人は、聨誼会の総意を尊重するとしながらも、個人としては和解を受け入れず、補償金を受け取らないと宣言した[20]

  • 2001年4月に林伯耀が耿諄を訪問したとき、耿諄は記念館の開設を模索していることを聞いて「花岡事件記念館」の題字3枚を揮毫して渡し[21]、同月訪問してきた石飛には、和解を受け入れる意思を示していた[22]
  • 2001年8月に耿諄は「屈辱的和解」に反対する声明を出した[23]
  • 2002年2月に林伯耀が耿諄を訪問しようとしたときには、「『花岡和解』に賛成する人士に告ぐ、私はもう『花岡和解』について各位と話したいとは思わないので、来訪はお断りする」として訪問を拒絶するFAXが送られてきた[24]
  • 2003年3月9日付で、河南省の地元紙『平頂山日報』が、同年4月2日に河南省の鄭州で信託金の受給式が行なわれることになり、「耿諄を含む河南省の受難者が賠償金を受け取る」と報じ、耿諄は誤報だとして同年3月13日に抗議文を出した[25]

死去

2012年8月27日に、襄城県の自宅で、呼吸器不全のため死去、享年97[26]

付録

関連文献

  • 野本憲治(編)『花岡を忘れるな 耿諄の生涯』社会評論社、2014年、4784515224

脚注

  1. 石飛(2010)p.224、1985年11月の耿諄へのインタビューによる。
  2. 石飛(2010)pp.224-227、1985年11月の耿諄へのインタビューによる。
  3. 石飛(2010)p.227、1985年11月の耿諄へのインタビューによる。
  4. 石飛(2010)p.227、1985年11月の耿諄へのインタビューによる。劉(1995)p.49
  5. 石飛(2010)pp.233-238
  6. 石飛(2010)pp.239-242
  7. 新美(2006)p.304、西成田(2002)p.401、野添(1992)pp.201-202,213-214、田中(1995)p.174、野添(1975)p.97、石飛(1973)pp.156-157。
  8. 石飛(2010)p.222
  9. 野田(2008)p.274、石飛(2010)p.219-1985年11月の耿諄へのインタビューによる。帰国の時期は、野田(2008,p.274)によると1946年11月、石飛(2010,p.219)によると1946年10月中旬
  10. 10.0 10.1 野田(2008)pp.274-275
  11. 野田(2008)p.275
  12. 野田(2008)p.275
  13. 石飛(2010)p.220、1985年11月の耿諄へのインタビューによる。
  14. 野田(2008)p.275、石飛(2010)pp.195-196。
  15. 石飛(2010)pp.214-218
  16. 金子(2010)p.410、新美(2006)p.306、野田(2008)p.276、野添(1993)pp.口絵,37-38。このとき耿諄は「感謝のことば」を述べた(野添,1993,pp.38-40)
  17. 野田(2008)p.276
  18. 野添(1993)p.40、李(2010)p.100
  19. 李(2010)p.100、新美(2006)pp.282,306、野添(1993)pp.40-41
  20. 李(2010)pp.104,108、新美(2006)p.234
  21. 田中(2008)p.278
  22. 石飛(2010)pp.353-354
  23. 野田(2008)p.282
  24. 田中(2008)p.278
  25. 田中(2008)p.278、野田(2008)p.282
  26. (おくやみ)耿諄氏が死去 花岡事件訴訟の元原告団団長」『日本経済新聞』電子版、2012年9月3日。

参考文献

  • 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
  • 田中(2008) 田中宏「花岡和解の事実と経過を贈る」『世界』2008年5月号、岩波書店、pp.267-278
  • 野田(2008) 野田正彰「虜囚の記憶を贈る 第6回 受難者を絶望させた和解」『世界』2008年2月号、岩波書店、pp.273-284
  • 劉(1995) 劉智渠(述)劉永鑫・陳蕚芳(記)『花岡事件-日本に俘虜となった中国人の手記』岩波書店、1995年、4002602257
    • 初版「花岡事件-日本に俘虜となった一中国人の手記」中国人俘虜犠牲者善役委員会、1951年