花岡事件 (暴動事件)

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2017年12月31日 (日) 22:45時点における由亜辺出夫 (トーク | 投稿記録)による版 (秋田裁判)

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狭義の花岡事件(はなおかじけん)、花岡暴動事件は、1945年6月30日または7月1日の深夜に、秋田県北秋田郡花岡町にあった鹿島組花岡出張所の華人労務者が、同出張所の輔導員(監視員)ら5人を殺害し、約800人で集団脱走した事件。逮捕時の「山狩り」や逮捕後の警察による暴行・虐待により、華人労務者のうち数十人が殺害されたり、死亡したりした。日本の敗戦後も暴動の首謀者とされた華人労務者の幹部13人の裁判手続きが続けられ、1945年9月11日に秋田地方裁判所で無期懲役以下の判決が下されたが、受刑者は数日後に秋田に進駐してきた米軍によって保護された。

暴動前の状況

1944年に、各県警察は、華人労務者を使役する事業所に対して、中国人を厳格に管理し、待遇を良くしないように指示していた[1]。花岡鉱山も、1944年6月末日および同年10月4日付で秋田県警察部長から華人の取締・管理について指示を受けており、鹿島組花岡出張所には派出所が置かれて警官1人が常駐し、大館警察署の後藤健三巡査部長や花岡警部補派出所の警官が毎日のように華人労務者が居住していた同出張所の「中山寮」や作業現場を巡視していた[2]

1944年7月13日には内務省厚生省の官僚や警察関係者など20数名が花岡鉱山を訪問し、その際に内務省の本間嘱託は、宿舎の設備や布団、食糧の配給などが多すぎ、贅沢すぎる、華人を放任しており、言うことを聞き過ぎ、甘やかしすぎている、作業効率が低いのでもっと働かせるように、などの指示をした[3]。花岡出張所の作業現場では、中国戦線から帰還した傷痍軍人5人が「輔導員」として警察的な管理・監督を行い、ほか3人が輔導員に類した仕事をしていた[4]

鹿島組花岡出張所の華人労務者は、中山寮の伊勢寮長代理や、現場で華人労務者の監督・監視にあたっていた輔導員による食糧の横領によって配給予定量の食糧を与えられず、休日なしで毎日長時間の重労働に従事し、何か気に入らないことがあったときや作業が滞ったときなど日常的に輔導員からの暴行を受け、病欠者が多くなると食糧の配給が減らされ、衣料品の支給も少なく中山寮の建物・設備が粗末で冬場の寒さがしのげないなど、劣悪な生活・労働環境に置かれていた[5]

  • 藤田組・花岡鉱山の「東亜寮」の華人労務者に比して、鹿島組花岡出張所の中山寮の華人労務者は身体や栄養の状態が悪く、病人も多かったが、警察は華人労務者を病院に入院させないように通達しており、鹿島組は医師(免許のない人物もいた)を中山寮に派遣していたが、満足な治療はなされず、仮病による労務放棄の防止に重点が置かれていた[6]
  • 中山寮には食糧が豊富にあり、鹿島組花岡出張所の職員は豊かな暮らしをしていたとの証言がいくつかあり、鹿島組花岡出張所に対しては配給品は支給されていたが、華人労務者には配給されずに、出張所の関係者や輔導員たちによって物資のピンハネ横流しが行なわれていた[7]
  • 華人労務者の中でも、軍需長として食糧の分配を担当していた任鳳岐は、中山寮の寮長代理だった伊勢や輔導員の小畑惣之介と親しくし、寮関係者による華人労務者用の物資の横流しに協力し、配給品を輔導員に渡していたため、華人労務者の仲間から恨まれていた[8]。書記として任と同じ内勤事務を担当していた劉玉卿は、食糧の出納も記録しており、任による食糧の横流しを咎めたため、小畑から暴行を受け机を片付けられるなどの嫌がらせに遭い、書記の仕事ができなくなっていた[9]

1944年8月に連行されてきた第1次の華人労務者300人弱のうち、8ヶ月後までに約90人が死亡した[10]。工事に必要な人数が不足したため、1945年5月に第2次約590人、同年6月に鹿島組玉川出張所から第3次98人の華人労務者が連行されてきた[11]。また新たに到着した華人労務者は悪待遇に馴れていなかったため、病気に罹患したり、監督にあたっていた輔導員から見せしめの場合を含めて暴行を受けて負傷・死亡したりする人が多く、待遇改善を要求したところ却って苛酷な労働を課されるなどして、状況は悪化していた[12]

1944年8月から1945年6月までの間に、花岡出張所に連行されてきた華人労務者の人数は、第1次-第3次の合計で986人-979人とされている[13]。うち約700人は元農民、約140人は元軍人、約100人は元商人だった[14]

このうち、暴動事件までに、殺害されたり、病死するなどして、第1次297人のうち113人、第2次587人のうち23人、第3次98人のうち4人が死亡していた[15]。死者のほかにも、約50人が病気や怪我で病室に入っており、怪我で後遺症を負っていた人が生存者の約1/4に及んでいた[16]

暴動事件

蜂起のきっかけ

華人労務者隊の大隊長・耿諄ら華人労務者の幹部は、「このままではいずれ全員が殺されるから、蜂起して輔導員に報復し、失敗して死んだ方がいい」と考えて、蜂起を計画した[17]

  • 1985年11月の石飛仁による耿諄へのインタビューによると、耿諄は、1945年4月下旬には幹部に蜂起の意思を伝えていたという[18]
  • 華人労務者たちが蜂起を決意したきっかけとして、1945年6月に、華人労務者の仲間の1人・薛同道が、飢えのため規律違反をしたことを咎められ、輔導員から暴行を受けて死亡したこと
    • 野添(1993,p.39)によると、耿諄は1987年の「感謝のことば」の中で、薛は、道端に捨てられていたリンゴの芯を拾って食べようとしたところを輔導員に見つかって殴打され、その場で死亡した、と説明していた。
    • 劉(1995,pp.127-130)は、薛は、山で草を食べていて夜の点呼の際に行方不明になっており、捜索により発見された後、輔導員から殴打などの暴行を繰り返し受け、一晩中苦しんでいたが、翌朝には死亡していた、としている。
    • 野添(1975,p.98)は、李振平の証言として、薛は仕事中に裏山で草を食べていて寮に帰るため点呼をとった際に行方不明になっており、見つかった後で暴行を受け、3日後に死亡した、としている。
や、その後で、華人労務者の1人・劉沢玉が、輔導員から、熱したレールの断片を下半身に押当てられる虐待を受けたこと
  • 劉(1995,131-132)および元井英資「清水正夫が焼火箸を華人労務者中逃亡したる者に押付けたるの件」[19]によると、1945年6月に、劉沢玉は、寮を抜け出して草を食べていたことを咎められ、輔導員補佐の清水正夫が鉄の棒(鉱山の小軌道の断片)を炊事場ので焼いてから劉の両股の間に挟ませ、他の輔導員に手足を押さえ付けさせて、更に尻や股に押しあてる虐待をした[20]
  • 劉智渠の証言によると、1945年6月初めに連行されてきた華人労務者で、空腹で「頭おかしくなった」人が、他の現場に食べ物をもらいに行き、輔導員に見つかって焼いたレールを股にあてるなどの虐待を受けた。その後、傷が悪化して重態になったが、日本の敗戦が判明して米国のペニシリンが入手できたため助かった。[21]
  • 野添(1975,pp.101-102)は、李振平および林樹森の証言として、劉沢玉は夜中に寮の前の川で蟹を取って食べているところを見つかり、輔導員による虐待を受けて殺され、華人労務者たちは指示を受けて劉の死体を埋葬した、としている。
が挙げられている。
  • 朝倉喬二が記録した宮耀栄の証言によると、1945年6月頃、輔導員の殴打や栄養失調による死者が増加し、それを山へ運んで火葬する際に、作業を志願する者が多くなったため、耿諄が不思議に思い、何をしているのか調べると、運んでいった者が死体の肉を缶詰の蓋で切り取って食べていた[22]。また上海在住の事件の生存者・張海萍も、死体を焼く仕事をしていた華人労務者が人肉を食べていたことを証言している[23]。耿諄は人肉食のことを知り、耐え難い状況だと考えて、蜂起を決意したという[24]
  • 野添(1993,p.22)は、1945年6月27日に、秋田県労務報国会が計画した「工事突貫期間」により、華人労務者の作業時間が毎日朝晩2時間延長されることになり、この「工事突貫期間」4日目に華人労務者による暴動事件が起きた、と指摘している。
  • 華人労務者の幹部たちは、1945年5-6月に花岡出張所に連行されてきた華人労務者たちから、日本がかなり追い詰められた戦況にあることを聞いていたが、あと1ヵ月半で敗戦になるほど日本が追い詰められているとは分からなかったという[25]

蜂起計画

中山寮の監視は厳しく、また軍需係の任鳳岐が輔導員に通じていたため、耿諄は大勢の幹部や華人労務者を集めることを避け、個別に幹部と相談して4人程度で計画を立てた[26]。蜂起の直前まで、計画を知っていたのは8人の幹部だけだった[27]

  • 劉智渠の戦後の回顧録によると、計画では、最初に、任鳳岐と輔導員を報復的に殺害して外部の警察や軍隊への連絡を阻止し、全員で食事を取った後、米国人俘虜収容所と花岡町駐在所を襲撃して警備にあたっている日本兵から武器を奪い、山中に入って遊撃戦をして連合軍の上陸を待つことになっていた[28]。また決起予定の6月30日夜には下記の分担が伝えられたという[29]
    • 李克金は20人で事務室の窓口を守る
    • 劉玉卿は30人で四方の要地に伏兵を置き、輔導員の脱出と逃亡を防ぐ
    • 李黒成は電話線の切断を担当する
    • 張金亭は20人で室内に入って敵を殺す
    • 張賛武は比較的強壮な80人で、米国人俘虜収容所の日本兵を襲撃する
    • 劉錫方は20人で花岡警察局を襲撃する
    • 看護班は外で全員が決起してから、病人を山の上に移す
    • 最後に羅士英の監督の下に放火して中山寮を焼き払う
  • 1985年11月の石飛仁による耿諄へのインタビューによると、耿諄は、蜂起が鎮圧され、殺害されることも覚悟していたが、極力抵抗して、山伝いに北上して青森から北海道へ渡り、北海道からソ連国境ないし満州へ渡ることを考えていたという[30]。また耿諄は、軍需係の任鳳岐が殺害の標的とされたほかにも、副隊長の羅世英、第三中隊長の王(または大)成林や炊事班長の某人は任と親しかったため、蜂起計画から外した、としており[31]、副隊長の羅世(士)英に関する証言が劉智渠の記録と食い違っている。
  • 計画は綿密に立てられていたとの証言もあるが、直前まで限られた幹部しか計画を知らされていなかったため、暴動参加者の中には「アメリカ人も連れて山の中に逃げ、山を越えて海に出ると舟を奪い、アメリカ人に運転させて祖国に帰る」という「夢のような話」だったと認識していた人もいた[32]
  • 耿諄らは蜂起がうまくいかないと考え、幹部に蜂起後に自殺するよう指示していたとの証言もある[33]

決起予定日の変更

  • 劉(1995,pp.137-140)は、当初は6月26日夜に決起を予定していたが、報復の対象と考えていた輔導員のうち、小畑、福田、清水らが宿直しないことが分かったため、決起日を6月30日夜に変更した、としている。
  • 野添(1992,pp.147-149)は、李振平の話として、もともと決起予定日は6月26日だったが、同日は「輔導員の中でもいちばん悪い」小畑、福田、清水が宿直せず、中国人に同情的だった越後谷と石川が宿直予定となっていたため、2人に害が及ばないように決起日を遅らせ、6月30日夜(7月1日午前1時)に蜂起が決行されることになった、としている。
  • 耿諄は、1985年11月に石飛仁のインタビューを受けたとき、日本人に同情的だった越後谷と石川が宿直しない日を選んで決起したとしており[34]、1987年6月30日に大館市役所で記者会見したときには、最初は6月27日の決起を予定していたが、中国人に同情的だった「19歳と45歳の2人」が宿直予定だったため、同月30日に決起した、としているが[35]、石川は決起当日宿直していた[36]

蜂起と集団脱走

1945年6月30日夜9時頃、幹部から決起の計画が全員に伝えられ、華人労務者たちは、翌7月1日午前1時の決起を予定して持ち場に着こうとしていたが、同日夜10時過ぎに、輔導員らを殺害する担当だった20人のうちの2人が早まって「漢奸(裏切り者)」として殺害予定だった任鳳岐を殺害し、物音で目を覚ました輔導員らのうち猪俣と桧森の2人をツルハシで殺害したが、他の輔導員は中山寮から逃走した[37]。悲鳴を聞いた華人労務者たちが慌てて行動を始め、長崎と小畑の2人が逃走中に殺害されたが、他の輔導員4人はそれぞれ逃げ延び、伊勢は鹿島組の事務所にたどり着いて蜂起を伝え、助けを呼んだ[38]

逃げ延びた輔導員が中国人の蜂起を伝え、警報や半鐘が鳴らされた[39]。華人労務者たちには襲撃を中止して、山に逃げるよう命令が伝えられた[40]

耿諄ら幹部や元軍人らは主力集団を形成して、スコップやツルハシなど武器になるものを持って逃げたが[41]、他の華人労務者は食糧が隠匿されていると目されていた中山寮の倉庫を破って小麦粉を食べたりポケットに入れたり粉袋を担いだりして、衣服や布団を持って逃走した[42]。病気や怪我で看護棟にいた華人労務者たちも逃走したが、遠くまでは移動できなかった[43]

主力集団は、計画が失敗したため、暗い中で目印になった高い山へ向かって逃げ、花岡から見て東南にある釈迦内村の獅子ケ森[地図 1]の山中に立てこもった[44]

鎮圧と報復

翌7月1日未明から、警察官、消防団員、警防団員、在郷軍人、青年学校の生徒など多数の地元住民が動員されて「山狩り」が行なわれ、神山[地図 2]付近や旧松峰[地図 3]付近にいた病弱者らは蜂起から数時間ほどで逮捕され[45]、その後、疲れて路上を歩いていた2-300人が逮捕された[46]

同日朝には秋田市や弘前市から憲兵隊が到着し、獅子ヶ森山中に籠っていた約300人の主力集団を武装して包囲し、華人労務者たちは散発的に石を投げるなどして抵抗したが、発砲を受けるなどして殺害・逮捕された[47]

  • 耿諄は獅子ケ森で包囲されたときにゲートルを木に結び首吊り自殺を図ったが、気絶した後に逮捕された[48]

この他にも数人で逃走し、山を越えたり隣村に出たりした人もいたが、一帯の村々では蜂起から7月6日頃まで厳重な捜索・警戒態勢が敷かれ、逃走した華人労務者も逮捕され、逮捕後に暴行を受けて殺害された人もいた[49]

同日朝から、逮捕された華人労務者たちは、共楽館[地図 4]前の広場に集められた[50]。全員が、2人ずつ後ろ手に縛られた状態で、広場の砂利の上に目隠しをして正座させられ、食事や水を与えられないまま、同日から3日まで広場に止め置かれた[51]

憲兵や警察は、共楽館前に連行された中国人の中から事件の首謀者や、輔導員らを殺害した実行者を探し出すため、中から数人ずつを共楽館の劇場内に連れて行き、尋問した[52]。その際、平手打ちなどの暴行を加え、椅子に縛って水責めにしたり、指を針金で縛って宙吊りにして棍棒で殴打するなどの拷問を加え、これによって殺害された人がいた[53]

蜂起を計画した8人は自分たちが首謀者だと名乗り出たが計画の詳細については黙秘し、13人が首謀者とみなされて繰返し拷問を受けた[54]。警察は首謀者は拷問しても殺害するつもりはなく、裁判で死刑になるまで殺さないと言っていた[55]。共楽館の中で死亡した人の遺体は、建物の脇に積まれていた[56]。また広場に座らされていた人の中にも、衰弱して死亡したり、姿勢を崩したことを咎められて警官に殴打されて殺害されたりした人が出たが、遺体はそのまま放置された[57]

  • 劉智渠は秋田県衛生局による広場の遺体の検屍に立ち会った[58]

事件から5日後に、主謀者として耿諄ら13人が秋田市の刑務所に運ばれ、生き残った人たちは中山寮に戻され、寮の周囲には有刺鉄線が廻らされ、武装警官が巡回・警備にあたった[59]。1945年7月7日に、耿諄ら13人は、国防保安法の「戦時騒擾殺人罪」で送局された[60]

共楽館前の華人労務者の遺体は事件後しばらく放置され、10日ほど経ってから、生き残った華人労務者によって姥沢山の中腹に大きな穴(「大穴」)が2つ掘られ、花岡鉱業所の朝鮮人労務者によって共楽館前から遺体が運び込まれ、穴に埋められた[61]

暴動後の状況

使役の継続

暴動事件の後、伊勢寮長代理や生き残った輔導員たちは別の職務に移され、新任の大久保寮長代理や、赤塚輔導員らが配置された[62]。李介生が華人労務者隊の退潮に指名され、副大隊長は以前と同じ羅士英だった[63]

暴動事件後、秋田県警察部特高課の指示により、警察による鹿島組花岡出張所の管理が強化された[64]

暴動後も華人労務者の食糧事情には変化がなく、また衛生状態はむしろ悪化しており、病死者や栄養失調による死者も減らなかった[65]。輔導員は以前のように度の過ぎた虐待はしなくなったが、「打たれたり、罵られたり」することは続けられていた[66]

1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後、同月17日に内務省主管の防諜委員会から、敗戦に伴う華人労務者の取扱いについて、労務を中止し、賃金を支払い、衣料品・食糧を支給し、留置者を釈放し、死者の遺骨を整理して送還の準備をするよう関係者に通達が出された[67]。しかし、鹿島組花岡出張所では通達は破棄され、華人労務者に敗戦の事実は伝えられず、使役が継続された[68]

同月28日に、米軍機B29が花岡町の上空から花岡鉱山の米軍捕虜収容所に慰問品を投下し、このとき華人労務者たちは戦争が終わったことに気付いた[69]。直後に大館警察署の三浦署長が中山寮を訪れて「大東亜戦争が終った」ことを伝え、日本の兵隊が帰国し、仕事を引き継いだら中国に送還するとの話があり、華人労務者たちは、終戦の条件が分からないまま、引き続き働かされた[70]

その後、中山寮にやって来た通訳から日本の敗戦を伝えられ、華人労務者たちは労務を放棄したが、食糧などの待遇は改善されなかった[71]

鹿島組花岡出張所では、終戦以降も、1945年8月に49人、9月に68人、10月に51人、11月に9人と米軍が介入する同年10月まで、死者の多い状況が続いた[72]

同年10月に米軍の調査隊が花岡に入った後、食糧が十分に支給されるようになり、病人が花岡鉱山病院に収容され治療を受けるようになると、華人労務者の栄養状況・健康状態は眼に見えて改善した[73]

秋田裁判

暴動事件により逮捕された耿諄ら13人の幹部のうち12人ないし11人は、8月17日の通達発出後も釈放されず、日本の敗戦などの状況を知らないまま起訴され、同年9月11日に秋田地方裁判所で「戦時騒擾殺人罪」により耿諄は無期懲役、ほか11人は懲役3-10年の有罪判決を受け、同日13日に秋田刑務所に護送された[74]

  • 西成田(2002,p.401)によると、このとき判決を受け、秋田刑務所へ護送された12人は、耿諄、李光栄、李彦紳、劉玉林、劉玉郷、張金亭、楮万彬、張書森、張賛武、劉錫財、孫道敦および宮耀完。石飛(1973,p.156)によると、秋田刑務所に送られた13人は、耿諄、李光栄、李秀深、劉玉林、劉玉卿、張金亭、趙樹林、張賛武、劉錫才、孫徳泉、宮耀栄、馮輔延および李克金。
  • 罪状について、石飛(1975,p.156)によれば『秋田県警察史』に「(…)13人を国防保安法第16条第2項適用の戦時騒擾殺人罪として送局した」との記述があり、新美(2006,p.304)は「『国防保安法』の戦時騒擾殺人罪で送局(起訴は刑法)」と記しているが、「戦時騒擾の罪」は戦時刑事特別法第9条[75]にある[76]。西成田(2002,p.401)は「戦時騒擾殺人罪」、田中(1995,p.174)は「殺人罪」と記している。
  • 判決文は、暴動事件の背景について、「昭和20年(1945年)6月25日より突貫期間と称し、労働時間を延長し工事を促進し来りたる関係等より、下痢患者其の他の病者続出し死亡する者亦少なからざる状況にあり、他面輔導員中其の素質悪く、往々にして華人労務者を殴打する者ありて、労務者管理の方法拙劣なりし為、被告人耿諄は大隊長としての責任上、之を打開せんと苦慮し、度々鹿島組花岡出張所長及所管警察当局等に対し、之が改善方を願出でたるも実現を見るに至らず、却って輔導員等の反感を招き虐遇を受くる有様なりしを以て、同人は華人労務者等を右窮状より脱せしむるに、寮長、輔導員等を殺害して逃走するの外方途なしと思考し、又、他方軍需たりし任鳳岐は食糧の配給等に付不正を為し、同胞なる華人労務者等を苦しめたるところより、日本人輔導員等殺害と同時に、同人に対しても制裁を加へんとし(…)」と認定した[77]

判決の数日後、秋田に進駐してきた米軍は、秋田刑務所にいた受刑者を保護し、待遇は改善されたが、受刑者たちは戦犯裁判の証人として引き続き留置された[78]

補遺

暴動発生日の記載揺れ

  1. 西成田(2002)pp.287-297
  2. 西成田(2002)pp.367-368
  3. 西成田(2002)pp.368-370
  4. 西成田(2002)p.370
  5. 野添(1993)pp.19-23
  6. 西成田(2002)pp.370-372
  7. 西成田(2002)pp.372-381
  8. 石飛(2010)p.236、1985年11月の耿諄へのインタビューによる。
  9. 石飛(2010)pp.251-252、1985年11月の劉玉卿へのインタビューによる。
  10. 野添(1993)pp.19-23
  11. 新美(2006)p.304、西成田(2002)p.364、野添(1993)p.22
  12. 野添(1993)p.22
  13. 新美(2006)p.304、大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)p.364、野添(1993)p.23、野添(1992)pp.221-223。新美(2006,p.304)では、出発時人数合計は299+589+98=986人、到着時人数合計は975人で内訳の合計294+587+98=979人と不一致。西成田(2002,p.364)によると、鹿島組花岡出張所の『華人労務者就労顛末報告書』は合計992人を「移入」したとしており、内訳の合計297+587+98=982人と不一致。大館郷土博物館(2014)は出発時人数986人で連行中の死亡数を7人としており、到着時人数合計は979人となる。野添(1993,p.23)は被連行者合計は297+587+98=982人、野添(1992,p.139)は、295+587+98=980人としている。1945年4月15日の鹿島組と華北労工協会の契約書の中では「契約数」は600人とされており、差分は連行途中での死亡・逃亡数とみられる(杉原,2002,pp.67-69)
  14. 西成田(2002)p.365
  15. 野添(1975)p.89、野添(1993)p.23。大館郷土博物館(2014)は、「中山寮」に連行された979人のうち暴動事件までに137人が亡くなっていた、としている。
  16. 野添(1993)p.23、野添(1975)p.89
  17. 野添(1993)pp.23-24
  18. 石飛(2010)p.234
  19. 昭和22年8月13日(IPS文書、リール15)
  20. 西成田(2002,pp.385-386)
  21. 野添(1975)p.99
  22. 石飛(1973)p.118
  23. 石飛(1997)p.123
  24. 石飛(1997)p.123、石飛(1973)p.118
  25. 野添(1993)pp.23-24、野添(1992)p.144
  26. 野添(1992)pp.142-148
  27. 野添(1992)pp.142-148
  28. 野添(1993)pp.23-24、劉(1995)p.138
  29. 劉(1995)pp.140-141
  30. 石飛(2010)p.237。耿諄は、1987年に訪日した際に、「北海道へ逃げてそこで戦い、囲まれたら海へ飛び込もうと思っていた」とも話している(野添,1992,p.246)
  31. 石飛(2010)p.236
  32. 野添(1992)pp.145,157
  33. 野添(1992)p.148
  34. 石飛(2010)p.235
  35. 野添(1992)pp.245-246
  36. 石飛(2010)p.235
  37. 野添(1993)p.24、野添(1992)p.154、劉(1995)pp.142-143
  38. 野添(1992)pp.154-155
  39. 野添(1993)p.24、野添(1992)p.156
  40. 野添(1993)p.24、野添(1992)pp.156-157、劉(1995)p.143
  41. 石飛(2010)p.237
  42. 西成田(2002)p.386、野添(1993)p.24、野添(1992)pp.156-157
  43. 野添(1992)pp.157-159
  44. 野添(1992)p.156
  45. 大館郷土博物館(2014)、野添(1993)p.24
  46. 野添(1992)p.168
  47. 大館郷土博物館(2014)、野添(1993)pp.24-25、野添(1992)pp.168-170、李(2010)p.98
  48. 石飛(2010)p.238
  49. 野添(1993)p.25、野添(1992)pp.170-174
  50. 野添(1993)p.25、野添(1992)pp.166-168
  51. 野添(1993)p.25、野添(1992)pp.167,174-177、大館郷土博物館(2014)
  52. 野添(1993)pp.25-26、野添(1992)pp.177-183
  53. 大館郷土博物館(2014)、野添(1993)p.26、野添(1992)pp.177-183
  54. 野添(1992)pp.178-180
  55. 野添(1992)pp.178-180
  56. 野添(1992)p.177
  57. 野添(1993)p.26、野添(1992)pp.177,182
  58. 劉,1995,pp.150-151)。
  59. 野添(1993)p.26
  60. 新美(2006)p.304
  61. 野添(1993)p.27、野添(1992)pp.189-190、大館郷土博物館(2014)
  62. 劉(1995)p.155
  63. 劉(1995)p.155
  64. 西成田(2002)pp.393-395
  65. 劉(1995)p156。衛生状態については、花岡病院の大内正医師の証言がある(西成田,2002,pp.393-394)
  66. 劉(1995)p156、野添(1992)pp.189-190
  67. 西成田(2002)p.395、野添(1993)p.27、野添(1992)p.195
  68. 野添(1993)p.27、野添(1992)pp.195-196
  69. 野添(1992)pp.196-198,199-200、劉(1995)pp.156-157
  70. 野添(1992)pp.198-199。劉(1995)pp.157-158では、三浦の話の中で「工作」を停止するよう指示があり、翌日に通訳の于傑臣が釈放されてきて日本が敗戦したとの事情が分かった、としている。
  71. 野添(1992)p.199。越後谷義勇「中山寮の事務員」(野添,1993,p.235)では、強制労働が中止されたのは10月にアメリカ兵が花岡鉱山を訪れ、中国人の労働禁止が命令されてからのこととされている。
  72. 大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)pp.395-396、野添(1993)p.27、野添(1992)p.195。西成田(2002)pp.395-396によると、1945年12月の死者は3人、1946年1月の死者は1人。
  73. 野添(1992)pp.210-211、野添(1975)pp.141-142-林樹森の証言による。
  74. 新美(2006)p.304、西成田(2002)p.401、野添(1992)pp.201-202、田中(1995)p.174、野添(1975)p.97、石飛(1973)pp.156-157。
  75. 司法省編『戦時刑事特別法・戦時民事特別法・裁判所構成法戦時特例 解説』1942年、NDLJP:1439114/20
  76. 編注)国防保安法第16条第2項と「戦時騒擾(殺人)罪」との関係は必ずしも明らかでない。
  77. 田中(1995)pp.174-175
  78. 野添(1992)pp.213-214


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