神戸学院大生全裸殺人事件
神戸学院大生全裸殺人事件(こうべがくいんだいせいぜんらさつじんじけん)は、1987年、兵庫県神戸市で起きた性犯罪事件。目撃者や物証が少なかったため事件は迷宮入りするとみられたが、2年後の1989年に起きた明石短大生全裸殺人事件の犯人の供述によって再逮捕となった。
事件発生
1987年10月24日、午前6時ごろ、兵庫県神戸市西区伊川谷町の駐車場で、私立神戸学院大学法学部2年生の黒田恭子さん(20歳)が、全裸で首を絞められ殺されているのが見つかった。恭子さんは両足を広げた格好であお向けに倒れ、赤いブラウスと黒いズボン、下着、黒い靴が周りに散乱し、脱げかけたブラジャーで両手がしばられたようになっていた。また、恭子さんの性器には性交の跡があった。
兵庫県警捜査1課は玉津署に捜査本部を設置して本格捜査に乗り出したが、周囲に夜間照明はなく、近所の人も悲鳴などを聞かなかったため、捜査は難航した。
被害者・黒田恭子さん
黒田恭子さんは岡山県赤磐郡山陽町出身。同県立瀬戸高校を卒業後、1986年4月、神戸学院大学に入学。学生アパートの4畳半の部屋に入居していた。大学では1年生のときからラグビー部のマネージャーをしていた。
同級生や同じアパートに住む知人らによると、黒田さんは身長155~6cmで、小柄なわりにグラマーで髪の毛が長い美人タイプ。大人っぽい服装を好み、センスがよく、活発な性格でだれとでも気軽に話していたという。授業にはまじめに出席していたが、スナックでアルバイトを続けていたせいで、帰宅時刻は門限の午後10時をすぎた午前1時ごろが多かった。黒田さんは門限に遅れた時は、勝手口を合いかぎで開けていた。実家の両親から毎月10万円の仕送りを受けている上にアルバイト料が毎月10万円ほど、DCブランドの洋服やドレスなどを買い込み、生活は一段と派手になっていたという。
事件前日の23日は正午からラグビー部の練習に2時間立ち会い、その後同部の奇宿先に行き、部員たちとビデオを見ていた。午後6時ごろになって全員ばらばらに引き揚げ、恭子さんも「用事があるので」と1人で出て行った。
バイト先のスナックには午後8時半ごろ出勤。24日午前零時ごろ閉店したあと、女性を含む客3人と近くの深夜喫茶でビールを飲み、午前2時ごろ女性客を近くの自宅まで送りとどけた。 その後、1人で歩いて帰ったという。
黒田恭子さんが住んでいたアパート周辺では農家が学生向けの寮を次々と建設、約20軒の寮が建ち並んでいた。プールバーやファストフード店の進出も目立つ新興の学生街となり、深夜族も多かった。
(黒田恭子さんは)体育委員をしてクラスの世話役という印象だった。国家公務員の税務職を志望していたが、2次で落ちたので、今の大学へ入ったんです。
– 高校3年のときの担任教諭
マネジャーとしてよくやってくれていました。面倒見がよく、明るい性格でだれからも好かれていた。なぜ殺されたのか。
– ラグビー部員
お嬢さんぽいけど客あしらいがうまかった。
– スナックの客
異性関係はかなり派手だった。
– 黒田恭子さんの知人
深夜喫茶でもとりたてて変わったこともなく、みんなでワイワイ言いながら酔いつぶれた。あんなにぎやかだった娘が殺されるとはいまだに信じられん。
– 事件直前まで黒田恭子さんと一緒に酒を飲んでいた男性
酔いつぶれたので恭子ちゃんに送ってもらい、主人にこっぴどく叱られたことしか覚えていない。私を送っていなかったら、あんな目に遭わなくて済んたかも…。
– 事件直前まで黒田恭子さんと一緒に酒を飲んでいた女性
門限は19時だっだんですが、彼女だけ特別に、勝手口のカギを渡してあったんです。こんなことになるなら認めなければよかった。
– アパートの大家
10月26日、郷里で悲しみのうちに葬儀が行われた。棺の中には、来年の成人式のため両親があつらえた振袖が遺体とともに収められた――。
明石市の殺人犯が黒田恭子さんの殺害を自供
ナゾが多く、難事件とみられた黒田恭子さん全裸殺人事件は2年後の1989年になって解決に向けて動き出した。7月23日、知り合った女子短大生を絞殺し、全裸で路上に捨てたとして殺人、死体遺棄容疑で兵庫県警に逮捕された明石市の寿司店調理師米田和久(30)が、同県警明石署捜査本部の調べに対し、1987年10月、黒田恭子さんを絞殺し、全裸で放置した事件についても「私がやった」と自供を始めた。
米田和久は1989年7月22日夜、JR西明石駅付近を帰宅中の私立明石短大教養学科1年岡部三千代さん(18歳)に声をかけて一緒に酒を飲んだ。翌23日午前2時すぎ、勤務先の明石市内の寿司店内で絞殺、衣服を脱がせて寿司店近くの路上に放置したとして、その日のうちに殺人、死体遺棄の疑いで捕まった。
2つの事件の現場は約3キロしか離れていないうえ、
などの共通点が浮かんだ。このため、捜査本部が調べた結果、
- 米田は神戸の女子大生黒田恭子さんが殺害された1987年10月当時、殺害現場から約900m北側に住んでいた
- 黒田恭子さんの死体が見つかった現場、バッグが捨てられていた現場、米田の当時住んでいた自宅の3点を結ぶと、ほぼ一直線となり、米田が自宅に帰る途中、バッグを捨てた可能性がある
などの点がわかった。
このため、捜査本部が米田を追及したところ、「2年前、新聞に出ていた女子大生殺しは私がやった」と、黒田恭子さん殺害について自供したため、兵庫県警玉津署捜査本部は8月15日、米田を黒田恭子さん殺害の疑いで再逮捕した。
自供によると、米田和久は1987年10月24日午前2時ごろ、神戸市西区伊川谷町の飲食店でかなり酒を飲んで帰る途中に黒田恭子さんと出会った。恭子さんに声をかけて断られたため、無理やり近くの空き地に連れ込んで乱暴しようとしたが抵抗されたため、首を手で絞めて殺害。死体を全裸にしレイプした後で駐車場に放置した。その後、恭子さんから奪ったハンドバッグを殺害の現場から北へ約600m離れた第二神明大蔵谷インターの進入道路に投げ捨てた、という。
米田は1985年夏から、神戸市西区伊川谷町の県営住宅に住んでいた。黒田恭子さんの殺害事件の約5ヶ月後、「明石まで通うのがしんどい」といって明石市内に引っ越していた。
今でも2日に1回、墓参りをし、恭子の墓の前で、早く犯人を捕まえてほしいと祈ってさました。もうあの子は帰らないので、むなしい思いがします。
– 黒田恭子さんの父親
裁判
- 1992年5月20日、神戸地裁は1987年の事件について懲役15年(求刑懲役18年)、1989年の事件については求刑通り無期懲役を言い渡した。同一人が複数の罪で裁かれる場合、併合罪として一括審理するのが通常だが、第1の犯行と第2の犯行との間に道交法違反(無免許運転)などの罪で懲役10月、執行猶予2年の刑が確定。禁固以上の確定判決の前と後の犯罪は併合罪を適用できないとの刑法45条の規定からそれぞれ求刑、判決という珍しいケースとなった。