喜多文子
喜多 文子(きた ふみこ、1875年11月16日 - 1950年5月10日)は、明治時代から昭和時代の女流囲碁棋士。多数の女流棋士を育てた。囲碁界の母といわれる。
経歴
佐渡国(新潟県)出身の医師司馬凌海の二女として東京で生まれた。父の司馬凌海は幼少の時から神童の誉れ高く、12歳の時に江戸に出て漢学と蘭学、医学を学んだ。1857年(安政四年、医師松本良順(のちの陸軍軍医総監松本順)に従い長崎に赴き、オランダ語と医学の研鑽をつんだ。明治維新後、大学東校、宮内省、元老院書記官、愛知県医学校教授を歴任した。同五年に日本最初の独和辞典『和洋独逸辞典』を出版するなど、日本におけるドイツ学の草分け的存在であった。その後、名古屋で開業したが、結核を発病し、凌海が元気な時は収入が多かったが、派手に使ってしまう性格のため、凌海が病気になるとたちまちに一家は窮地に陥った。1879年(明治12年)に凌海が亡くなると一家は故郷の佐渡へ帰ることになったが、わずか3歳で病弱であった文子は長旅に耐えられないと、凌海の全盛時代に碁の相手として家に出入りしていた林佐野の養女となった。
林佐野は文子を碁のお稽古まわりに連れて出るようになった。当時日本橋浜町にあった三井三郎助家や、安田善次郎家にも出入りした。佐野はやがて文子の才を見込んで本格的に囲碁を教え、文子は佐野の厳しい指導によく耐え、18歳で二段、明治二十九年二十一歳で三段に進んだ。 その年、喜多六平太と結婚しました。 喜多六平太は、明治十七年十歳で能楽師喜多流十四代家元を襲名し、二十歳で六平太を襲名した。能楽は徳川家康の保護のもと幕府式楽の家元として観世、宝生、金剛、金春の四座が認められていたが、これとは別に喜多流が独立する事が認められた。そのころ能楽も囲碁の世界と同様、幕府の後ろ盾を失い衰退していた。六平太は辛苦の末、独創的なひらめきと絢爛にして変幻自在な芸風によって当代名人の世評を得ていた。文子は結婚当初は方円社やおつとめ廻りを続けていたが、「喜多はうまい嫁をもらった、あれなら貧乏の喜多流も立つに違いない」という噂話を耳にし、それからの13年間は囲碁から遠ざかり、六平太を助けて家事と家元の裏方の仕事に没頭し、喜多流の再興に貢献した。
1907年、夫の六平太の勧め出で棋界に復帰し、頭山満の支援により修業時代からの知己であった田村保寿(後の本因坊秀哉)と霊南坂の頭山家での週一回の対局が52局に及んだ。はじめは負け続きで、文子はこの時のことをのちに「女が家事に埋もれるというのはこんなに落ちてしまうことなのかと、一局一局がしんと骨身に堪えました。」と語っている。十七、八回続くと不思議に焦りもなくなり、謙虚な状態となり、するとどうしたことかぼつぼつ勝ち目が出てきて、田村からも「喜多さん、ようやく石が活きてきた」といわれるようになった。次いで三井家の支援で、中川亀三郎と20番を行う。1911年に、万朝報の坊社対抗戦、時事新報の方円社勝ち抜き戦にてそれぞれ5人抜きを果たし、この年に女流棋士としては初の四段となり、1921年には五段に昇段した[1]。
1923年に本因坊家と方円社が合同して中央棋院が設立され、その後に再分裂したとき文子は旧方円社であったが、碁界合同を進める立場から小野田千代太郎と共に旧坊門側の中央棋院に残った。同年の関東大震災後から日本棋院設立までの間、方円社の中川亀三郎、裨聖会の瀬越憲作らとの調整に走り回った。
1924年の日本棋院設立後は現役を引退した。 1950年死去。日本棋院から七段を追贈され、1973年に名誉八段を贈られた。
夫の喜多六平太は1953年(昭和28年)に文化勲章を受章し、1955年には重要無形文化財保持者に指定され、1965年1月没。
人物
- 女流棋士の育成、発展に力を注ぎ、鈴木秀子、伊藤友恵、荻原佐知子、小杉勝子、神林春子、大山寿子、鈴木津奈、杉内寿子ら多くの女流棋士を門下として育てた[2]。
- 1918年に本因坊秀哉が野沢竹朝を破門した際、1923年の和解の席で喜多文子が立会人となっている。
- 1928年の呉清源の来日後に医者に連れていくなどの世話をし、1940年の富士見高原診療所への入院中もしばしば見舞いに訪れた。1942年の呉清源の結婚式では、喜多夫妻が媒酌人を務めている。