ロシアの現代音楽
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ロシアの現代音楽はソビエト時代を完全に含む20世紀以降のロシア音楽をさす。ロシア・アヴァンギャルドの生みの親とされるアレクサンドル・スクリャービン以降、幅広く開花した。経緯は、スターリン政権の介入以後様々な屈折を経て現在に至る。
レーニン政権時代
ソビエト連邦建国当時は音楽家への強制はほとんどなく、作曲家は競うようにしてスクリャービンの後継をになえる前衛作曲家になることを夢見た。セルゲイ・プロトポポフ、ニコライ・ロスラヴェツ、アレクサンドル・モソロフ、ニコライ・オブホフ、イワン・ヴィシネグラツキー、ほか総勢で20人くらいの作曲家が活動していたことが後日確認された。
この時代にロシア・アヴァンギャルドの作曲家達が次々と野心的な作品を作曲していた事実が西側に知られるようになったのは1990年代以降であり、楽譜出版も遅れてしまった。ソ連当局は彼らの存在を音楽事典からも抹消していたことが明らかとなった。収容所送りになるのを防ぐため、作曲家に対して楽譜の破棄すらも求めていた。
ロシア・アヴァンギャルドの作曲家達は総て共通の目的を持っていたわけではない。ロスラヴェツは新しい和音をテーマに創作を続けたが、モソロフのテーマはノイズと反復(まだこのころにはミニマリズムと言う概念すらなかった)であった。オブホフはマルチメディア的な音楽を夢見たらしいが、クロワソノールと呼ばれる創作楽器で資金が底をつくことになった。
スターリン政権時代
スターリンが政権を取ると、彼はグルジア民謡しか歌うことの出来ないくらい音楽的素養に欠けていたので、彼より素養のあるものは粛清の可能性を持つものとみなされるようになった。この時代の恐怖政治はショスタコーヴィチの苦悩時代と一致する。彼がアヴァンギャルドを捨てたのは身を守るため以外の何物でもなかった。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』以降や『第9交響曲』以降の危機はこの作曲者をより保守的なものに向かわせた反面、徐々に音楽の中へ隠し絵的、メタ音楽な技法を織り込んでいくことになる。
ショスタコーヴィチはまだ国家からショパンコンクール出場を命じられるだけ共産党員と仲が良かったからペンを折ることがなく済んだが、彼以外の音楽家は多かれ少なかれ作風を曲げた。アレクサンドル・モソロフの手紙はスターリンによってゴミ箱行きになり、モソロフには「民謡風の合唱曲」を作ることが命じられて、没年までその業務にしぶしぶついた。サムイル・フェインベルクとアナトリー・アレクサンドロフはあっさりと共産党員の味方につき、彼らも「調性的」な作風で没年まで孤立を余儀なくされた。ソ連時代、西側の楽譜は総て「貸し出し」制になり、共産党員の許可がないとストラヴィンスキーの楽譜すら入手できなくなった。この時代に「情報を遮断された」ピアニストとヴァイオリニストの育成を国家予算で賄うことにもつながった。要は、総ての実験が打ち切られたのだ。(レフ・ブラセンコは「コンクールに勝つためなら、総ての合宿費が支給された」と述べる。)
その一方でかつてのロシア音楽の演奏伝統は国家の手によって鍛えられた演奏家の手で、強引に守り抜かれることになった。現在でもソ連時代の作曲家の解釈の直伝は、ロシアでないと学べないと言われている。総ての作品が政治的に正しいことを証明するため、チャイコフスキーの序曲1812年がグリンカの作品を切り貼りして演奏されると言う事態に発展していた(スヴェトラーノフとゴロヴァノフがこの版で演奏)が、この問題はゴロヴァノフのCDが復刻されるまで一般市民には公表されていなかった。ショスタコーヴィチの死後、共産党を皮肉る合唱とピアノの曲「反形式主義的ラヨーク」が発見されたのも、その類である。
作風は曲げられても音楽家の命だけは守らねばならない、という危機感はすべての音楽家にあったようである。また、元から調性に親近感を持つ「古典的な」音楽家は優遇されたので、その系列の音楽家と反体制派のスターリン政権の証言は当然異なる。ティホン・フレンニコフは共産党員全員に根回しを行い、収容所行きを回避させるために数々の要職をしぶしぶ歴任した。彼の作品がヴァディム・レーピンとエフゲニー・キーシンによって1987年に来日公演が開かれたのも、その功績が国家の手で称えられたからであった。もちろん、反体制派からは称えられていない。その彼の作風は「政治的に極めて正しい社会主義リアリズム」であった。
この時期を耐えた作曲家は優れた古典の演奏技術で知られる者(フレンニコフ、スヴェトラーノフ、ティシチェンコ、シチェドリン)を多く含む。ペレストロイカ以降は優れた古典の演奏技術で知られる作曲家ではなく、創造的な自作自演で知られる者(ゴルリンスキー、シェグラコフ、サフロノフ)に取って代わられた。
雪解け時代
この時代に入ると、唯一共産主義者として入国を許可されたルイジ・ノーノが楽譜をロシアに持ち込めたことで、ポスト・セリエル以降の情報が非公式ながら入手できた。依然として現代音楽の演奏を行った演奏家はブラックリストには入れられていたものの(アナトール・ウゴルスキの証言)、シベリア送りになることまではもはやなかった。この事情を反映してアリフレート・シニートケが「未だ古い音楽が聴衆や共産党員の間で聞かれ続けるのかはなぜか」、というシンプルな問いから、複数の様式が素材や構造の枠を飛び越えて共存する多様式主義を確立。『合奏協奏曲第1番』を初めとする作品群を次々と世に送り出した。
またテルミンなどの「伝統的電子楽器」も、ヨーロッパではあっけなく演奏伝統が滅んでいたものの、ロシア本国では密かに演奏伝統が継承されていた。テルミンのプロとして現在も楽器を操れる作曲家や演奏家が複数人確認出来る。アレクサンドル・ヴスティンは現在も現役のテルミンのプロ奏者であり、その技術を応用した電子作品も残されている。西側よりかなり遅れ、演劇的あるいは即興的な作風を世に問うマルティノフやグバイドゥーリナのような作曲家も出現した。数少なくロシアの入国を許可されたロック・グループやジャズ・バンドもロシアの音楽を鍛える一員になったことは否めない。その影響が国際的に知れ渡るきっかけになったのがニコライ・カプースチンの1990年代以降の創作活動である。
ヴァレンチン・シルベストロフは1960年代に西側で作品発表を行っていたのがソ連当局にばれ、報告された後に作曲家連盟から除名されたが、彼はその後前衛色を総て捨て旋法的で聞きやすい作風を「自ら」選択した。アルヴォ・ぺルトの「ティンティナブリ様式」は宗教的な帰依のために開発された。両氏の様式の選択は、国家の手によって強制されたものではない。この時期に西側から前衛運動が停滞し、ソ連の看板となっていたショスタコーヴィチが亡くなった。世界のどこに行っても通用する大黒柱を失ったソ連の音楽界は1980年代以降、作曲と演奏の両面で迷走することになる。典型的な例が「チャイコフスキーコンクールの審査員やモスクワ音楽院の留学生に、多くのアジア人を受け入れたこと」である。当時のソ連は北朝鮮からの留学生も、政治的な取引の元で一定数受け入れていた。
ショスタコーヴィチの没後、ガリーナ・ウストヴォルスカヤは地味に創作活動を続けていたが、世界的に再評価されるのはソ連崩壊以後である。シルベストロフやぺルトも、この時代には音盤化がなされず母国がソ連邦からの独立を果たせなかったこともあり、知名度が高くはなかった。演劇性の拡張に努めたウラディーミル・マルティノフや、「オペラ・オラトリオ」といった新たな形式を模索したニコライ・カレートニコフの存在がクローズアップされたのは1990年代であったが、カレートニコフはロシア当局の監視下に置かれたまま、その悲劇的な生涯を閉じている。現在もロシア語圏以外への紹介は、極めて少ない。
ペレストロイカ以降
ソ連崩壊後、現代音楽の情報は完全に解禁された。モスクワ現代音楽アンサンブルの創立は1990年、モスクワ現代音楽スタジオの創立は1993年であり、ソ連崩壊まで現代音楽のアンサンブルを組むことすら、逮捕の口実になりえたのである。これらの現代音楽アンサンブルの創立の著しい遅延は、ロシアの若い演奏家へ計り知れないダメージを与えた。日本でも同様の現象が見られるが、「ロシア人の演奏家なのに、ロシアの現代作曲家を知らない」ということも依然として稀ではない。シニートケの音楽が日本やアメリカなどの資本主義国で広く聴かれるようになったのもこの時期であり、スウェーデンのBISレーベルはシニートケ全集を直後にスタートさせている。
国境すらも大きく変わり、ソフィア・グバイドゥーリナはタタールスタン共和国の作曲家、アラム・ハチャトゥリアンはグルジア生まれのアルメニアの作曲家と言った具合に、ソ連から独立に成功した共和国か独立を望む共和国の音楽家は、国家間では一切の連携を絶つことになった。コンクールの応募状況ですら、ロシア連邦内の共和国は切り離されて個別にカウントされる。これは作曲のみならず、演奏も同様の現象が生じている。それでもモスクワで学んだ音楽家の指導力に未だ依存している背景は変わっていない。そのために独立に成功した共和国は独自に現代音楽を奨励しようと言う動きが若干見られる模様である。近年のCall for Scoresにはウズベキスタンからの問い合わせすら珍しくない。バルト三国はそれまでモスクワの楽壇ともコンタクトがあったが、これを機に独自の路線を歩むことになる。
1990年代にはセルゲイ・ベリンスキー、アリフレート・シニートケ、モイセイ・ヴァインベルグらが相次いで亡くなり、またも大きな精神的支柱をロシアは失うことになった。活動に制限がなくなったため、国際コンクールへの挑戦も自由に行うことが出来るようになった。恐らく、コンスタンチン・シュモレヴィッチはロシア人初のガウデアムス音楽週間入選を果たすことが出来たが、これは留学先のフランスからの投函であった。ヴァレリー・ヴォロノフもルトスワフスキ作曲賞を2000年に得ている。アメリカのピアニスト、イヴァ・ミカショフはアメリカ人として初めてウクライナ人の作曲家のオレクサンダ・シチェティンスキー(シェチンスキ)に委嘱を授けた。シチェティンスキーはその後国際的な作曲賞を次々と制した(セロツキ、ルトスワフスキ、ルクセンブルク、デユティユ、マーラーの総てで入賞または優勝)ことで、楽壇の評判をさらった。
モスクワ現代音楽アンサンブルがツアーを行った際、前半をロシア・アヴァンギャルドの作品、後半をアレクサンダー・ヴスティンからアレクセイ・シオウマクまでの世代をカヴァーした演奏会がイギリスで行われており、ロシアの新しい世代の作曲家達は2002年以降もオランダ、ポーランド、ドイツなどで定期的に上演され、高い評価を得ている。近年先輩格のボリス・フィラノフスキから、アレクセイ・シオウマクがサンクトペテルブルクで、Structural Resistance Groupを結成し、グループで動き出した。この時期はモスクワ音楽院で教鞭を取るウラジミール・タルノポルスキーが次々と世界に俊英を送り出したことも特筆される。ようやく指導陣が最先端の音楽語法をリアルタイムで継承できることになった、良い証明である。(それでも、旧共産党時代の「体制派」が一蹴されたわけではない)
この世代に該当する作曲家はヴァディム・カラシコフ、ドミトリ・コゥリャンスキ、アレクセイ・シオウマク、アントン・サフロノフ、アッラ・ケッセルマン、ドミトリ・シェグラコフ、オルガ・アルシナ、オルガ・ボチヒナ、マリナ・コルコヴァ、ニコライ・クルスト、ウラジミル・ゴルリンスキーなどが挙げられる。当局によって海外活動を制限されることがなくなったため、学生でこぞって数々の国際マスタークラスに参加しており、以前では考えられない師事暦を持つ作曲家も増えた。ヴェラ・イヴァノヴァはロシアからアメリカ合衆国にわたって作曲を続けた、最初の成功例である。単なる偶然なのか、聞き苦しさや陰鬱な雰囲気に彩られた作品を多く見かけるのは、スターリン体制下の音楽家への不当な冷遇を想起させる。女性であっても、相当な音響の爆発が認められる点も特筆される。
近年では国内で最も優秀とみなされた作曲家をDAAD研修プログラムで渡独させ、ベルリンで創作させることも行われている。この恩恵を受けた作曲家に、A.サフロノフ、D.クルリャンツキー、S.ネフスキーがいる。その中のD.クルリャンツキーがロシア人初のガウデアムス大賞に輝いたことにより、大きな歴史の変化がロシアから起きたと考えられている。
参考文献
- International Festival of Contemporary Music MOSCOW FORUM[1]の1994年以降の冊子。
- ensemble aleph第3回フォーラム発行のLog Book及びCDから、クリャンツキィーとネフスキィーのコメント。現在のロシア音楽の動向を知る上で貴重である。[2]
- Tribune of Contemporary Music[3]の2005年以降の冊子。
- Gaudeamus Music Week catalog&bulletin, issue from 1990.
- 現代音楽のパサージュ 松平頼暁著、ぺルトのティンティナブリ様式に関する詳細な説明アリ。
- ロディオン・シチェドリンと武満徹の対談。武満徹全集に含まれる。ロシアの共産党時代の教育や活動の制限について語られている。
- 1945年以降の前衛(改訂版のみ)ポール・グリフィス著、改訂版のみソ連崩壊後の著述が多い。