検校
検校(けんぎょう)とは、中世・近世の盲官の最高位の名称。
元々は平安時代・鎌倉時代に置かれた寺院や荘園の事務の監督役職名であったが室町時代以降、盲官の最高位の名称として定着した。
検校は、専用の頭巾・衣類・杖などの所有が許された。盲官(盲人の役職)では、位階順に別当、勾当、座頭があった。
起源
仁明天皇の子である人康(さねやす)親王が若くして失明し、そのため出家して山科(現在京都市山科区)に隠遁した。その時に人康親王が盲人を集め、琵琶や管絃、詩歌を教えた。人康親王の死後、側に仕えていた盲人に検校と勾当の2官が与えられた。これが検校と呼ばれる盲官の始まりとされている。又、人康親王が坐って琵琶を弾いたとされる琵琶石は後に盲人達により琵琶法師の祖神として諸羽神社に祭られている。「法師」と呼ばれるのは、検校は剃髪し、正式な検校専用服(検校服)は僧服に近く、また実際に僧職となる者もいたからである。
室町時代
室町時代に検校・明石覚一が『平家物語』をまとめ、又、足利氏の一門であったために室町幕府から庇護を受け、当道座を開き、検校は当道座のトップを務めた。
江戸時代
江戸時代に入ると当道組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、盲官の売買が公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・三弦・箏曲・鍼灸・按摩ができなければならなかったとされている。
江戸時代には地唄三弦、箏曲、胡弓楽、平曲のプロフェッショナルとして、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。
有名な検校
( )内は関名
- 杉山検校(和一) - 鍼で管鍼法を確立した
- 八橋検校(城談) - 近代筝曲の父、胡弓の弓を改良
- 石村検校・虎沢検校 - 最古の芸術的三味線歌曲「三味線組歌」を創始した
- 沢住検校・滝野検校 - 三味線で浄瑠璃を語り始めた
- 生田検校(幾一) - 生田流箏曲の始祖
- 藤植検校(喜古一) - 胡弓演奏家。江戸で活躍、四絃胡弓を考案、藤植流を興す
- 塙検校(保己一) - 学者として活躍。「群書類従」の編者
- 荻野検校(知一) - 平曲家、平曲中興の祖、「平家正節」を編纂
- 山田検校(斗養一) - 江戸で活躍、山田流箏曲の始祖。箏を改良した
- 松浦検校(久保一) - 19世紀前半京都で活躍、地唄の「京流手事物」を確立、多くの名曲を残す
- 菊岡検校(楚明一) - 19世紀前半京都で活躍、地唄の「京流手事物」を発展させ多数の名曲を作った
- 八重崎検校(壱岐一) - 19世紀前半京都で活躍した箏の名手。松浦検校や菊岡検校の作品に箏の手付をして合奏音楽として高めた
- 光崎検校(富機一) - 19世紀前半京都で活躍、地唄、箏曲の名曲を残す。箏の二重奏曲「五段砧」は特に有名
- 吉沢検校(審一) - 幕末名古屋、京都で活躍、「千鳥の曲」など名曲を多数残した
- 石田検校 - 将棋の戦法のひとつである石田流三間飛車の創始者
- 石本検校 - 天野宗歩に平手で勝ちをおさめたことのある将棋の強豪