後趙
後趙(こうちょう、ごちょう)とは、五胡十六国時代前期の319年11月から351年4月まで続いた羯族による王朝。建国者は石勒。首都は319年から335年までは襄国、335年から350年までは鄴、350年から351年までは襄国である[1]。国名は単に趙であるが、後趙より前に劉淵が建国した前趙と区別するため、歴史用語では後趙と称される。華北の大半を支配したが皇族間の内紛が相次ぎ、それにより最終的に滅亡した。
歴史
建国まで
石勒は上党武郷(現在の山西省楡社県)出身の羯族の部族長の息子であった[2]。羯族は西晋時代初期に上党など河北に根を張っていたが勢力はさほど大きくなかったため、自立することはできずに漢族に雇われて生活を維持していた[2]。ところが八王の乱の最中である302年から303年に并州で大飢饉が発生し、上党の羯族部落は解体してしまった。石勒も部落を離れて旧知の漢人である郭敬を頼って衣食を与えられて生き延びた[2]。石勒はこの飢饉を逆利用して窮している異民族の奴隷狩りを行なうことで勢力を取り戻そうとしたが、皮肉にも自分自身が并州刺史で西晋の皇族である司馬騰による奴隷狩りで捕縛されて山東方面に売られてしまった[2][3]。しばらく石勒は奴隷として農耕に従事せざるを得なくなった[3]。
その後、石勒は群盗の首領になり、現在の河北省南部や河南省北部、山東省西部を根城にして頭角を現した[3]。そして西晋の八王の乱で八王のひとりである成都王・司馬穎の部下である公師藩の部下となる[3]。ところが公師藩は敗死したため、当時の河北で勢力を拡大していた鮮卑や匈奴の配下になって生き延び、307年10月に漢を建国していた劉淵に帰順した[3]。石勒は劉淵配下の有力武将として鳥丸の張伏利度を帰順させ、その功により輔漢将軍・平晋王に封じられた[3]。以後、石勒は劉淵の配下ではあるが半独立した軍事力を背景にして河北東部の支配と経営を担当した[3]。石勒は西晋領の鄴を陥落させ、309年夏までに河北省南部の郡県を平定した[3][4]。311年に西晋で内紛が起こり、それにより八王の乱で唯一生き残っていた八王である東海王・司馬越が憤死したのを見てその混乱をつき、亡き司馬越の軍を襲撃して壊滅させた。さらに同年6月には劉淵の息子・劉聡の命令で劉曜、王弥、劉粲と共に西晋の首都・洛陽を攻撃して陥落させた[4]。さらに直後、王弥を滅ぼしてその勢力も吸収するに至った[4]。
洛陽陥落により西晋は実質的に滅亡したが、その残党はまだ健在だった。幽州の王浚や并州の劉琨らがそれであるが、前者は314年3月に、後者は318年に滅ぼして河北東部の支配権を拡大した[4]。また鳥丸や鮮卑段部も服属させて石勒の軍事力は著しく拡大した[4]。このように石勒が自己の権力を固めていた中、主君の劉聡は西晋を滅ぼしたことで次第に酒色に溺れて国政を顧みなくなり、外戚の靳準による専横や飢饉などで次第に衰退が目立ちだした。318年7月に劉聡は死去し、息子の劉粲が跡を継いだが、わずか1ヶ月後の8月に靳準によって劉粲が殺害され、さらに劉粲の一族もほぼ皆殺しにされる事態となる(靳準の乱)。この反乱に対し、10月に劉一族の生き残りである劉曜が挙兵すると、石勒も呼応して靳準が支配する平陽に迫り、12月までに靳一族を皆殺しにして鎮圧に貢献した。これにより石勒は漢の中でも劉曜に次ぐナンバー2となる。また、劉曜が拠点を平陽から西方の長安に遷都したため、華北東部の支配は完全に石勒に委ねられることになった(同時期に劉曜は国名を漢から趙に改めた)。
319年11月、遂に石勒は襄国において大単于・趙王を称して前趙の劉曜の支配から離れて自立する[4]。これが後趙の建国であった。
華北の攻防
石勒は劉曜と攻防を繰り返しながら、官僚機構の整備や官吏任用法の制定など内政の整備も行なった[4]。また前趙に対して国力で優位に立つため、現在の河南省や山東省への進出も計画したが、これらは西晋の亡命政権である江南の東晋との衝突を意味することであり、東晋の名将・祖逖の前に苦戦した[4]。321年に祖逖が死去したため、ようやくそれに乗じて河南を支配下に置く[4]。だが324年以降は前趙の劉曜との攻防が激しくなり、328年には洛陽をめぐって劉曜率いる前趙軍と石勒率いる後趙軍は全面衝突になった[4][5]。この戦いは激戦の末、石勒の従子・石虎の活躍で劉曜が捕縛されたため、後趙の勝利に終わる。劉曜は後趙への服従を拒否したため329年に殺害し、劉曜の跡を継いだ皇太子の劉煕を長安から追い、さらに石虎に追撃させて、329年9月に劉煕を殺害させて前趙を完全に滅ぼした[5]。
これにより後趙は山東省から甘粛省東部までを支配する華北の大部分を支配する王朝となる[5]。石勒は330年2月に趙天王を称し、9月には遂に皇帝に即位した[5]。この後趙の勢威の前に高句麗や鮮卑段部、前涼などは自ら服属下に入ることを申し入れ、後趙の勢力はさらに拡大した[5]。
石虎の時代
333年7月、石勒が崩御し、その次男である石弘が跡を継いだ[5]。しかし石勒の下で華北統一事業に功を立てた従子の石虎がこれに反発し、強大な軍事力を背景に石弘を傀儡にして丞相・大単于・魏王に就任し、実権を握った[5]。これに対して石氏一族の中には石虎に反発する者もあったが、石虎は333年10月までに全て平定した[5]。334年11月、石虎は石弘を廃して自ら居摂趙天王と称して完全に後趙の君主となった[5]。335年9月、石虎は自分の本拠地である鄴に遷都し、都城の造営を行なう[5]。337年には大趙天王と自らの称号を改めた[5]。
338年12月、石虎は鮮卑段部を攻撃し、部族長である段遼を敗走させて段部を滅ぼした[5]。さらに石虎は段部攻撃で協力関係にあった鮮卑慕容部も攻撃するが[5]、これは失敗して逆に340年9月には逆に慕容部に侵攻されて段部の旧領は奪われてしまった[6]。東晋に対しては優位に立つが、西では343年と347年の前涼攻撃に失敗し、石虎の勢力拡大は思うようには進まなかった[6]。
一方で石虎は鄴から襄国にかけて200里ごとに宮殿を建て、各宮殿には夫人をひとりと侍婢数十人を住まわせ、内外に大小9つの宮殿と台観や行宮44か所を建設するなど(『初学記』)、その生活は豪奢を極めた。また諸制度を整備して鄴や襄国に移民を奨励して人口は600万人に達したが[6]、連年の出兵や宮殿建設は経済的疲弊を招いた[7]。
石虎の晩年になると石氏皇族間で内紛が起こり、348年4月に皇太子の石宣が兄弟である石韜を殺害するという事件が起こる[6]。石虎は石宣を誅殺して前趙の劉曜の娘との間に生まれた石世を新しい皇太子に封じた[6]。この直後に石虎は病に倒れた[6]。349年1月、石虎は皇帝に即位するが病は重くなるばかりであり、死期を悟った石虎は息子の石遵や石斌に石世を託し、4月に崩御した[6][8]。
内訌と滅亡
石虎の遺志に基づいて石世が跡を継いだが、後事を託されていた石斌が殺されるなど権力争いはさらに激化していくばかりだった[8]。石遵は河内で軍勢をかき集めて鄴に進軍し、石弘を廃して自ら皇帝となった[8]。このクーデターは石虎の養孫である石閔が功を立てていたため、実権は石閔が握ることになった[8]。石閔の傀儡になることを嫌った石遵は石閔の排除を計画したが、石閔は李農と共謀して石遵を殺害した[8]。後継には石遵の兄弟である石鑑が擁立されたが、これは当然ながら石閔と李農による傀儡であり、石鑑も傀儡になることを嫌って排除を図った[8]。これは失敗に終わったが、襄国にあった弟の石祗が挙兵し、さらに石成や石啓らが挙兵して石閔と李農の排除を目論むなど、後趙は事実上分裂状態となった[8]。石氏一族の反発を見た石閔と李農は鄴にいる漢族に呼びかけて五胡の虐殺を決行し、20万に及ぶ異民族が殺され、さらに石鑑と石虎の孫38名も殺害し、石閔は自ら皇帝に即位して冉魏を建国し[8][7]、姓を石から冉に戻した。
350年3月、襄国にいた石祗は石鑑や一族の死去を知って皇帝に即位した[7]。そして冉魏と攻防を繰り返すが旗色は悪く、351年2月に自ら趙王と号を改めた[7]。4月、石祗は部下の劉顕により殺害され、ここに後趙は滅亡した[7]。石虎の崩御からわずか2年後のことであった。
政治
石勒・石虎の時代に行なわれた官吏任用法の制定、官僚機構の整備により張賓など多くの漢人知識人が登用され、流民の入植を奨励して農業生産を回復させるなど、八王の乱以来混乱の続いた華北で国力が大いに充実したことは特筆すべきこととして挙げられる[7]。
後趙の歴代君主
- 石勒(在位:319年 - 333年)
- 石弘(在位:333年 - 334年)
- 石虎(在位:334年 - 349年)
- 石世(在位:349年)
- 石遵(在位:349年)
- 石鑑(在位:349年 - 350年)
- 石祗(在位:350年 - 351年)
- 石勒は319年から330年まで趙王を称した。330年に趙天王を称し、同年に皇帝に即位した[9]。
- 石虎は334年に趙天王を称し、337年に大趙天王を称した。349年に皇帝に即位した[9]。
- 石祗は351年に趙王に改号した[9]。
元号
脚注
- ↑ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P184
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P62
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P63
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 4.8 4.9 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P64
- ↑ 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 5.12 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P65
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P66
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P68
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 8.5 8.6 8.7 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P67
- ↑ 9.0 9.1 9.2 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P175
参考資料
- 三崎良章『五胡十六国』(東方書店、2002年、ISBN 9784497202017)