南方方面通信要員
南方方面通信要員とは、日本陸軍将官の情報部の派閥の一部が軍需局の職員(及川喜重郎)と設立した工作機関。海軍派の軍令部の進出を防ぐための諜報活動を目的としていたが板垣征四郎少将が「君たち小気味いい事をしているじゃないか」と述べられ「粋な金」として板垣征四郎少将から毎年6月に活動資金提供を受けていた。及川喜重郎が死去してからは実質上の司令官が板垣征四郎大将となり畑俊六陸軍大臣派の動向を探るために用いてきたものの板垣征四郎大将と畑俊六陸軍大臣派の親睦が深くなり対テロ防諜機関として目的が変わって八路軍の便衣兵の拘束を行って組織壊滅のために宣撫工作のためだけに運用された他、病気や怪我で陸軍士官学校や海軍士官学校を受験できない軍人の子供に代わって替え玉受験を行ったり、日本陸軍の実施したケシ栽培や覚せい剤の販売に従事し壮絶な戦死をした指揮官や下士官の家族に非公式に見舞金(800円から1000円)を届ける軍人の厚生機関(南方方面通信要員第四課坪井課長担当者ら70名)だった。
特務として蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学し卒業してからの動向を探り日本軍と同盟するように説得するために蒋介石を納得させるために同盟の前提となる証拠金の三井金属の蒲鉾型の金塊を大量に携えての追跡したため太平洋戦争後、南方方面通信要員部隊の大半が安慶第三管理処の少上達将軍の国民党軍に参加して中華民国国籍となって八路軍と戦った。
このため日本に日本人として帰国後も台湾旅券で渡航するといった多重国籍の問題となっているため国籍選択を法務省が求め長征の後の1949年~1990年代に台湾国民政府国籍を選択したものも多い。中華民国軍参戦の日本軍人で台湾国籍を選択した者に対し日本政府は軍人年金の展望である平和記念基金の受給停止などの報復措置をとっている。
日本陸軍派閥が奨学金制度を設立し師団長~少佐クラスの戦死(行方不明)により現場が混乱することを防ぐため作った軍司制度(なりすまし司令官制度)。
奨学生となる在学中の高校生から中学生などの候補生は軍需局の指定する物資を製造するアルバイトをしながら在学中2ヶ月間を印鑑偽造訓練、船舶製造訓練、紙幣偽造訓練、地元警察署への潜入訓練(特別高等警察官が協力者として随伴)、6ヶ月目には弾丸摘出や外科縫合、当時のレントゲンであるマスター版などの使用方法を理解し血管縫合や血管位置の把握などの訓練を9ヶ月間受ける、
奨学金を受け取る民間人をあらかじめ変装させて師団長~少佐クラスになりすますように国士舘大学で夏季に予備士官の短期教育を施し各学校卒業後、就職を実施させ1年以内で日本鉱業株式会社および三菱財閥の南方方面の支店長として表の肩書きを与え現地に潜り込ませ短波で頻繁に報告を送り毎週水曜日の正午に長波を本部から返信され定期的に呼び出される形で通信連絡を行った上で日本医科大学の前身である医科研修所で秋から春にかけて保健医療研修を実施し空挺医科部隊に準じる素養を身につけさせた。具体的には中国軍の捕虜の顔を剥がして顔を焼いた仲間に顔表面を移植し成りすまさせるなど映画フェイスオフのような感じの行動。(人道犯罪のため被害者が特定できたため加害者側の意思で上海で賠償金が弁済されている)
高等連絡員 8年間南方方面通信要員を行ったもの又は大尉以上の者 日本国内から長波を送った。気象予報目的の電波発射として定期的に目的を偽装した。暗号表を定期的に変更する手間を省くために暦の凶と赤口だけは違うコードを使った。3種類の暗号コード(中国語の数字、中国の漢語利用、カタカナ平文)があった。
公安連絡員 満州鉄道に長波電波を傍受管理する担当者を2名在籍させていた黄色(替え玉受験または資材調達命令。調達物は主として金銭や馬の餌や糧秣や軍人用の鎮痛薬や移動手段や燃料など)、赤(緊急招集命令)などのアドバルーンを使って連絡に利用した。蒲鉾型の三井鉱業または三井金属の純金50g200gを報酬とし2ヶ月に1回定期的に前渡しで手渡した。勤務態度の良いものに
ブローニング拳銃を与えた。
連絡員 候補生を卒業した高卒者、大卒者、中卒者は下士官適格証のある者 200名だったものが戦後1年後までに340人程度在籍していたという。国士舘大学、松山商業高校などの卒業生が多い。
戦後は国民党軍少上達少将の麗下となる者も多く安慶第三管理処では120名の連絡員が暗号解読や食料調達、下剤を多用した破壊工作を担当した。
南方方面通信要員が守っていた与えられた規則
現地人に危害を加えてはならない。伝令として折衝にあたり便衣兵は宣撫工作によって何度でも放免するように。宣撫工作の成功の可否を左右するので殺人は正当防衛でも禁じるというものでした。
出典元 愛媛県立 松山商業高校第38回卒業生同窓会文集 発行元 愛媛県教育委員会 現在 絶版