津軽為信
津軽 為信(つがる ためのぶ、1550年1月18日(天文19年1月1日) - 1607年3月29日(慶長12年3月2日))は大浦守信の嫡男(養子)で、弘前藩の初代藩主。官位は従五位下、右京大夫。正室は某氏。子には津軽信建(長男)、津軽信堅(次男)、津軽信枚(三男)、娘(津軽建広室)、娘(兼子盛久室)。
経歴
為信の出自
大浦氏の出自には様々な説や伝承があるが、南部一族の豪族であるという説が一番有力である。為信の経歴は津軽氏側に残される資料と、三戸南部氏側の資料との間で記述に食い違いがあるため、はっきりしない点が少なくない。
為信が、南部氏の一族であったという見方は南部氏側の資料に古くから存在する。この見方を補強する資料が津軽家文書の中にもある。その文書は豊臣秀吉から送られたもので、宛名は「南部右京亮(なんぶうきょうのすけ)」とあり、これは為信に宛てられたものであると推定されている。これを勘案して、久慈信長の次男で大浦氏の婿養子となったという説もある。
独立と本領安堵
永禄10年(1567年)、大浦為則の養子となり、大浦氏を継ぐ。元亀2年(1571年)(天正9年(1581年)説もある)、5月、突如として南部信直の実父石川高信討ち取る(このとき、高信を自害に追い込んだというが、高信は生き延びていたという説もある)。
その後、浪岡御所北畠顕村の浪岡城を攻め落とすなど、為信は天正16年(1588年)頃には津軽一帯と外ヶ浜占領に成功し、天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉より所領を安堵された。この時為信の本領安堵を認めるように仲介したのは石田三成である(豊臣秀吉が南部右京亮=為信に宛てた朱印状などの証拠による。白川亨著「石田三成の生涯」第二章十項「近世大名津軽家存続の背景と石田三成」、同じく「石田三成とその一族」第二章四項「杉山源吾の足跡」など参照)。為信はその恩に報いるため、後年関ヶ原の後に三成の子たちを積極的に保護している。南部氏は為信を惣無事令に違反する謀反人として秀吉に訴えたが、為信は豊臣秀次を介して秀吉に鷹を献上するなどしてその歓心を得ていたため、罪に問われなかったという。ただし、惣無事令違反を問われ、石高4万5千石のうち、1万5千石を太閤蔵入地とされたと推定する研究もある。また。この頃に、「大浦」から「津軽」に改姓している。また、大浦政信が近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、元関白近衛前久の猶子となり、本姓を藤原とした。文禄3年(1594年)には大浦城から堀越城へ居城を移す。
その後は九戸政実の乱の討伐や朝鮮出兵、伏見城普請などに功績を挙げた。
秀吉死後の為信
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から三男信枚と共に、東軍として参加した。しかし、嫡男信建(烏帽子親は石田三成)は豊臣秀頼小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子重成らを連れて帰国している。重成は杉山八兵衛と名乗って津軽家に仕え、のちに妹の辰姫が信牧の側室となって次の藩主信義を産んだことなどから重臣となっている。これらを考えると、つまりは真田氏らと同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考えられる。そのためか戦後の行賞では上野に2000石加増に留まる(上野領については満天姫・辰姫の項目参照)。関が原の合戦中、国許では家臣反乱が起こり、居城を占拠されたが、西軍敗戦の報が伝わると反乱方は戦意喪失の上で追討されている。
その後も家中騒動にて城が占拠されたりなどしたため、慶長8年(1603年)には岩木川と土淵川に挟まれた高岡(鷹岡)に新城を着工した(弘前と改名。弘前城)。ただし、城の建設はあまり進まず、次代の信枚の代に引き継がれた。
慶長12年(1607年)12月に京都で死亡する。58歳。しかし父の名代を務めるなど、次代として確実視されていた嫡男信建は同年10月、父に先立ち死去していた。為信の跡は三男・信枚(次男も既に死亡)が継ぐが、翌年信建の嫡男熊千代(大熊)が津軽建広ら信建派の家臣に推され、為信の正嫡を主張し、幕府に裁定を求める御家騒動が勃発する。幕府は信枚を正嫡として公認し、建広らは追放。御家騒動は収まった。
その他(その後・逸話など)
- 墓所は弘前市藤代にある革秀寺にあり、国の重要文化財に指定されている。また、弘前市西茂森長勝寺に木像が安置されている。
- あご鬚が長く垂れていたので「髭殿」と呼ばれた。
- 弘前城東門近くの弘前文化センター正面入り口前には、津軽為信の銅像がある。戦前までは弘前城本丸にあったが、戦時中の金属供出により撤去された。
- 嫡男信建が京で病に倒れた際、津軽にいた為信は、自身も病に陥っていたにもかかわらず、信枚を伴って京まで見舞いに訪れ、そのまま同地で没している。親子兄弟の最期の別れがしたかったから、という見解もあるが、信建が診察を受けていた名医に自分も診てもらいたかったからと言う説もある。いずれにせよその年の10月に信建は在京のまま死去し、その二ヵ月後に為信も京で死去した。
- 津軽統合の後は、新田開発や漆の栽培など、民政にも大きく力を注いだ。
関連項目
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