織田信長 (人物叢書)
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織田信長 (人物叢書)とは、左翼偏向学者・池上裕子が書いたトンデモ歴史本である。
書評
はしがき
※五木寛之は小説家である。だから文章がうまい。そこのところを警戒してから読んでほしい。
信長と敵対者について、作家の五木寛之さんが『朝日新聞』に連載の「みみずくの夜メール」で興味深い記述をされているのに出会い、私は強く惹かれた。 少し長いが、みなさんにぜひ伝えたいと思うところを引用してみよう。 (以下引用) ……ところが東京中心のジャーナリズムには、その違和感がない。日本全国みんな一定の物の見方をしているように思い込んでいるふしがある。…… たとえば、織田信長という人物は、だれでもが英雄氏していると決めこんでいるような気配がある。……しかし私が日本各地で出会った人たちの中には、 「信長許すまじ」 と、平成のいまでも眉をつりあげ、言葉が激する人びとが少なくなかった。いや、むしろ松代まで信長を憎み続けると公言する人たちがたくさんいたのだ。 北陸、東海、近畿、中国地方など、ことにその傾向がつよかったように思う。 瀬戸内の島々の人びとのなかには、信長勢と戦う一向宗の応援に水軍としてはせ参じた船の民の末裔があちこちにいて、ご先祖の船乗りたちがいかに水上戦で信長軍を翻弄したかを、 きのうのことのように唾をとばして語ってくれる人たちがいた。 (引用おわり) 私はこの文章に深く共感し安堵の思いを持った。近年は、平和が勝者=権力者も含めて多数の希求していた絶対的な価値であるかのようにみなして、 平和のために統一をめざし実現したから民衆に支持されたという権力象を描く立場もある。そうなると、信長や統一政権に抵抗した人々の立つ瀬がないのである。 五木さんの文章からは、誰もが権力による「平和」を待望し、統一政権の戦争をそのための戦争と称賛していたわけではなかったことがわかる。 命を懸けて戦った人々には、抵抗し戦うべき立場があったからこそ闘ったのである。それなくして、どうして四00年以上もの間、「許すまじ」意識が生き続けてこられようか。 私はこれまで「英雄」の歴史を書きつつ、敗者・抵抗者の思いを気にかけてきたが、その思いを描き出せたわけではなかった。 そしてこの先は、信長の側に立って天正十年六月一日までの勝者の歴史を描くことになるのだが、私の立場は、民衆のために平和=統一をめざしたかのごとき権力像を描こうとするものではなく、 また、敗者・抵抗者を歴史の「進歩」を見誤った愚者のように扱うものでは決してないことを表明しておきたい。
評論
- 五木寛之は「蓮如物語」「親鸞」という小説を書いている。一向宗(=浄土真宗)側に偏った視点になっているのではないか。
- 北陸、中国地方はまあ分かる。近畿は数年でほぼ制圧されてしまったが、まだ分からんでもない。しかし東海は信長(と家康)の本拠地である。信長を憎んでいる人が多くいるとは全く思えない。
- 「末代まで信長を憎み続ける」・・・日本人が本当にこんな事を言うものだろうか? 朝鮮人や中国人ではあるまいし、400年前の人間を恨み続けるなど、およそ日本人の価値観とはかけ離れている。
もし本当に憎んでいるとしても、それはおそらく実際の信長ではなく、江戸時代以降に創作によって作り上げられた信長像ではないのか。 - 抵抗した人々の立つ瀬がないと、著者にとってなにか不都合なことでもあるのだろうか。
- 「平和を待望していた人々」に抵抗し、命を賭けて戦うことはむしろ不名誉なことではないのか。
- 「信長許すまじという意識」は、本当に400年間生きてきたものなのか。江戸時代200年の平和、そして明治維新後の激動の中、特に目的も無くそんな意識を持ち続けていられるとは。ちょっと思えない。
- 要は「自分は反・信長の立場から本書を著す」と宣言しているのである。これではとても中立的な内容は期待できない。
第一章 尾張・美濃平定
- 初めっから史料の丸写しのような文章が目立つ。「武者始」くらい現代語訳したらどうなのか。(初陣のこと)