つけ麺
つけ麺(つけめん)とは、麺をつゆにつけて食べるスタイルの麺類で、主にラーメンの一種[1]として扱われる日本の麺料理である。店によってはもりそば、つけそば、ザルとメニューに記される[2]。
特徴
茹で上げた麺を冷水で締めてから皿やざるに盛り、別の器についだ熱い(もしくは冷たい)スープに一口分ずつ漬けながら、ざる蕎麦のように食べるのが一般的。麺を温めた状態で提供することを「あつもり」という[3]。 スープ(つけだれ)は通常のラーメンのものよりも濃く調整されることが多い。酸味を効かせたもの、甘味を効かせたもの、魚粉を効かせたものなど多種多様である。ボリュームを出すために、麺の量は普通盛りで通常のラーメン(100-150グラム)に対して、つけ麺は2倍程度(200-300グラム)多く提供する傾向がある[1]。麺を食べた後に、ラーメン用の豚骨や鶏がら風味のスープをさらに足し、つけだれをスープで割って味わうよう、「スープ割り」を提供する店がある。店員に注文すると提供してくれる店が大半であり、逆に注文しなければ提供されないことが多い。
具は店によって様々のスタイルであり、スープの器か麺の器、あるいは双方の器に乗せられる。具の内容は、基本的にラーメンと変わらず、麺の上に海苔、叉焼、メンマ、ゆで卵などがトッピングされることもあり、薬味としてワサビや柚子などがつけられることもある。
広義では冷やし中華や冷麺に近いものや、食べ方は同じであるがスープが冷たいものも変種の「つけ麺」として扱われることがあり、それらは「ざるラーメン」「ざる中華」等と呼称することもある。その場合、麺が(ざる蕎麦を食べる際に使用されるような)蒸篭で提供されたり、スープがごまダレとなっていることがある。
歴史
日本のつけ麺の発祥には諸説存在するが、1955年(昭和30年)[4][5]に東京都にある大勝軒[6]にて山岸一雄が開発・商品化した説が定説になっている[7]。
山岸が東池袋大勝軒を独立創業する以前17歳の時に勤めた修行店で、残ってしまった麺を、スープと醤油を湯のみ茶碗に入れ浸して食していた賄食がベースである[5]。1年後、修行店から山岸が「兄貴」と慕っていた従兄弟の坂口政安が独立することから一緒に行動を共にし『大勝軒』(中野店)を立ち上げた。後に坂口が別の場所に本店(代々木上原店)を構えた事により、山岸が中野店の店長として任され活動していた頃、引き続きこの賄食を食していた[8]。それを見ていた客の関心を惹きつけ、試食してもらうと好評価を得たことから「これをメニューにしたら売れるかもしれない」と感じ[5]、様々な試行錯誤の後、冷やし中華の甘酸っぱさを参考に酢と砂糖で調味し、麺の量は見栄え良くするためラーメンの3割増しにして、メニューの一品「もりそば」として完成させた[8]。1955年[4][5]「特製もりそば」(当時の代金40円)として供されたのが商品化された最初のつけ麺とされる[5]。また、その3年後に坂口の本店からもつけ麺と同様の「つけそば」が独自研究開発されて商品化となった[5]。1961年(昭和36年)山岸が東京都豊島区東池袋に『東池袋大勝軒』として独立創業(暖簾分け)した際も味を受け継いでおり、甘酸っぱいつけだれと弾力ある麺の食感とボリュームで人気を博した[9]。
つけ麺の名称が最初に使用されたのは1973年(昭和48年)頃『元祖つけ麺大王』によるものとされる[1][5]。
1970年代後半にはつけ麺ブームが発生しており[2][10]、呼称として「つけめん」「もりそば」「つけそば」のほかに、「中華盛り」などの別呼称も存在した[2]。
1970年代から1980年代初頭にかけて、ハウス食品より「つけ麺」が発売されていた(CM出演者は女優の高瀬春奈と漫画家のはらたいら)[11]。これは冷たい「タレ」につけて食べるもので、大勝軒の「もりそば」とはまた異なる。
平成に入り山岸が方針転換した事により弟子を取るようになり[12]、1990年代中盤頃から同店で修行後にのれん分けで独立したラーメン店主が類似のつけ麺を供したことが影響して2000年頃から関東圏、特に東京都内にはつけ麺を提供する店が増えていった[12]。同時期頃に埼玉県川越市の頑者にて具材に「自家製極太麺」「魚粉」「濃厚つけだれ」を使用した個性的なつけ麺が登場[1]。これが火付け役となり2000年代中盤頃からつけ麺ブームが始まり[13][14]、「自家製極太麺」「魚粉」「濃厚つけだれ」を使用したつけ麺は「濃厚魚介豚骨系」「魚介豚骨系」「豚骨魚介系」や「極太つけ麺」と呼称され[13]、インパクトの強さや極太麺の食感を楽しむ部分が受けたことや、太い麺は細麺に比べてつけ麺のスープにからみやすいこともあって濃厚魚介豚骨系の店舗は増加して東京近郊では3年以上の長期トレンド化しており[13][14]、それが九州や北海道などの地方にも広がったり[14][15]、多数の個人店が目まぐるしく入れ替わる競争状態のため、人気店の味を模倣した店が多くなる傾向にあった[13][15]。
2000年代後期から、定番化した従来の大勝軒系や濃厚魚介豚骨系以外にも、店主の創意工夫により他の料理に使う食材を取り入れて新たな味を模索する動きがあり、エスニック風のカレー風味やトマトや乳製品を使ったイタリアン風などのメニューが生み出され、味の多様化が進んでいる[8]。
2009年10月・11月、つけ麺限定の大規模イベントとして日本初のつけ麺博覧会「大つけ麺博」が東京・日比谷パティオで開催され[1][16]、以降も2010年4月に六本木ヒルズアリーナ、同年6月に北海道・札幌、同年9月~10月に東京・港区と複数回開催[17]。2010年5月、新横浜ラーメン博物館はつけ麺に関して取材・調査・データ分析を行った結果から、つけ麺は「ラーメン」というジャンルとして確立したものと結論付け、単なるブームではなく「食文化」として定着した、との見解を示した[1]。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 「つけめん」は「ラーメン」か? 新横浜ラーメン博物館が取材・調査を発表 asahi.com(朝日新聞)2010年5月19日
「つけめん」は「ラーメン」か? / 画像版 - 新横浜ラーメン博物館 2010年5月19日 - ↑ 2.0 2.1 2.2 「〝つけめん〟大ウケ」『讀賣新聞』1977年11月25日付朝刊、第12面。
- ↑ 冷水で締めてから加熱提供するもの、茹で上げたものをそのまま提供するもの、いずれの場合もある。「あつもり」との区別として元々の冷たい麺を「ひやもり」と特記する店舗も存在する。
- ↑ 4.0 4.1 2007年3月19日放送『嗚呼!花の料理人 PRESENTS グルメの常識100連発 目指せっ!食ツウの星2』(日本テレビ系)にて「1955年」と山岸本人が発言。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 CodeZine 『東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その1-戦争の終結で消えた最初の夢』より。
- ↑ 1961年6月6日開店、2007年3月20日閉店、2008年1月5日移転再開。
- ↑ この店のルーツを辿っていくと、荻窪駅南口にある1948年に創業した「丸長」というラーメン屋になる。この「丸長」から「丸信」、「栄龍軒」、「大勝軒」(大勝軒といっても、後述の坂口と山岸が立ち上げた中野の大勝軒から代々木上原や永福町などに展開した系列)などがのれん分けしていく。そういった店が「丸長」をトップに「丸長のれん会」を結成する。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 つけ麺広めた大勝軒の歴史をたどる - 読売新聞 2011年9月20日
- ↑ CodeZine 『東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その2-27歳で独立、初の行列店に』より。
- ↑ 元祖中華つけ麺大王
- ↑ 日本即席食品工業協会:即席麺家頁 > 誕生と進化のストーリー > 第4章 カップめん登場と国際化
- ↑ 12.0 12.1 月刊人事マネジメント 2005年12月号『行列ラーメン店の系譜と暖簾分け・弟子育成システム』(JMリターンズ)PDF より。
- ↑ 13.0 13.1 13.2 13.3 「ラーメン」ブーム再燃!?“ポスト魚介豚骨”はこれだ〔2〕 日経トレンディネット 2009年05月28日
- ↑ 14.0 14.1 14.2 ラーメン界に次なるブームの予感!“つけ麺”の次は“太麺ラーメン”か 東京ウォーカー 2009年11月16日
- ↑ 15.0 15.1 「ラーメン」ブーム再燃!?“ポスト魚介豚骨”はこれだ〔1〕 日経トレンディネット 2009年05月28日
- ↑ 日比谷パティオで「大つけ麺博」 - 全国24店がオリジナルつけ麺提供 銀座経済新聞 2009年10月27日
- ↑ 『大つけ麺博』が“JAPANツアー”開催 今年もPR大使に狩野英孝が就任 オリコングルメ 2010年4月14日