夢は牛のお医者さん

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夢は牛のお医者さん(ゆめはうしのおいしゃさん)とは「ズームイン!!朝!」が、新潟県上越市の女性を長期に渡って取材したもの。

9年間初代司会者を務めた徳光和夫は「ズームイン!!」シリーズの中で最も忘れられない出来事として挙げた。

ストーリー

  • 1987年の春、新潟県東頸城郡松代町(現十日町市)の小さな村の小学校に新入生がいない代わりに牛3頭が入学した。この牛たちには「元気(げんき)」、「強子(つよし)」、「モグタン」と命名し、全校児童達9人で8か月間育てた。小学校側は児童達に、「家畜は大きく成長すると食肉として売られなければならない」と教えていた為、「学習するための体験授業」と説明。児童達が担当する牛たちと生活しながら、徐々に別れの日々が迫っていく。
  • 1987年11月、ついに別れの時がが近づき、児童達は「牛の卒業式」を行った。「君たちの事は決して忘れない」「君たちから色々な事を教えてくれた」と一言ずつ最後の言葉をかけながら児童達は号泣し、牛たちはトラックに運ばれて村を去った。
  • 後日牛3頭は市場で競りにかけられ、小学校側の予想よりも高い価格、合計105万2000円で売られた。
  • 「牛の卒業式」から16年後の春、1人の女性がある夢の職業の道を歩き始めていた。

ズームイン!!密着取材

この小学校を取材した「ズームイン!!朝!」とテレビ新潟は、牛たちを育ててきた児童の中の1人の少女だった女性にカメラを向けた。初代徳光を始め、2代の福留功男、3代の福澤朗、4代の羽鳥慎一のリレーで彼女の夢を16年間追いかけ、密着取材を行っていた。

牛3頭のうち、「強子」の牛を担当した少女は酪農家の娘である。中でもこの牛は体が弱く、よく腹痛を伴う下痢を起こしていた。この牛との出会いが女性の成長に結びつくきっかけを与えることになる。

  • 1991年3月、徳光が福留に司会のバトンを引き継いだ3年後、女性は「私は獣医師になる」と親に報告。しかし親側は「そんな努力ではなれる訳がない」と猛反対だった。親のこの一言に彼女は猛勉強をし、小学校卒業前には眼鏡をかけた。猛勉強の成果で学力も上がっていった。
  • 1994年4月、新潟県上越市内の高校に入学。女性の実家からでは遠いため、下宿生活をスタートする。眼鏡からコンタクトレンズに変えた女性は「高校卒業までの間はテレビは視聴しない」と誓いをたて、下宿の四畳半にテレビは設置しなかった。そして岩手県盛岡市にある国立大学の獣医学科を志望するため猛勉強を始めた。この大学の偏差値は私立の医学部より高く、倍率は13.5倍で、21人の募集に284人が受験。父親は「スベリ止めに私立に行け」とアドバイスした。しかし女性は「スベリ止めなし、浪人するつもりもない、志望大学1本で受験。この大学の受験に失敗したら夢を諦めざるをえない」と親に宣言していた。取材で女性は「自信がなかったら受けない」と話している。
  • 1997年3月、岩手県盛岡市の国立大学を受験。合格発表は見に行かずに実家で返事の結果を待った。結果は合格、父親に電話で報告し安堵の表情で女性は号泣する。4月に国立大学の農学部に入学。
  • 1999年、福留から福澤へ司会のバトンを引き継いだ1年後、女性は成人し、岩手県の大学で勉強する傍ら夏休みを利用しながら、実家の新潟で家畜を学ぶ為の見習い助手をしていた。
  • 2001年、「ズームイン!!SUPER」が開始、さらに取材は継続する。2年後、福澤から羽鳥へ司会のバトンを引き継いだ2003年の春、大学で研究などをする傍ら、目標である獣医師国家試験を受験する。合格発表は大学の研究室にあるパソコンで結果を待ち、合格となった。新潟の実家の母親、祖母に結果を報告、祖母の「それ(合格)を待ってた」の一言に女性は喜びのあまり号泣した。
  • 岩手県盛岡市の大学を卒業後、女性は上越市内の家畜診療所に勤務。その後結婚し、1児の母となっている。

前述のように16年間女性を追いかけ続けて取り上げてきた模様は2003年5月に放送された。