姉小路 (和宮の大叔母)
姉小路(あねがこうじ、文化7年2月12日(1810年3月16日) - 明治13年(1880年)8月9日)は、幕末の大奥の上臈御年寄。名は勝子。大奥ではいよ(伊与子)と称した。父は橋本実誠。兄に橋本実久、妹に水戸藩老女花野井がいる。和宮の生母である観行院(橋本経子)の叔母にあたる。
11代将軍徳川家斉から12代将軍徳川家慶の治世の間、大奥に君臨した[1]。将軍家の縁組に関しては姉小路が独断で差配していたとされ、後の13代将軍徳川家定の正室・篤姫の輿入れに際しても、当初は大奥側の担当者として島津家との交渉を行っていた。一方で、政敵への陰謀の画策や天保の改革の妨害を試みるなど、政権運営にも影響力を及ぼし、財政の逼迫などの幕府破綻要素を作ったとされており、稀代の悪女という評価が伝えられる。
生涯
姉小路は、文化元年(1804年)に将軍家継嗣・徳川家慶の御簾中として輿入れした楽宮喬子女王付の小上臈として西ノ丸大奥に入った。家斉の娘・和姫が毛利斉広に輿入れする際に、姉小路は大上臈として和姫に従い毛利家江戸屋敷に入るが、天保元年(1830年)に和姫が死去したため、再び大奥に戻り、天保7年(1836年)に上臈御年寄となる。
妹で水戸藩老女の花野井とともに美女として有名で、一説によれば家慶と閨を共にしたとも言われている。
幕末期の大奥が水戸徳川家を嫌い始めたのは、姉小路が嫌い始めたためではないかといわれている。それはまた、大奥の経費が高すぎると斉昭が批判したのが原因と言われている。しかし、姉小路は一橋派の諸大名と親しく、水戸家とも連携を取っていたことも留意される。
これは斉昭が謹慎処分となった折にも影響した。当時、斉昭は奥女中三保野と通じて大奥工作をし、その処分の許しを請おうと図ったが、姉小路がこれを聞きとがめて三保野は暇を出されてしまったという。
天保12年(1842年)に姉小路が食していた天ぷらが原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事は、奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。姉小路は広大院付の上臈御年寄・梅渓に罪をなすり付けた。梅渓のその後は知られていない。
家慶の死去後に落飾、勝光院と号して上臈御年寄を退き、大奥から毛利家江戸屋敷に居を移した。引退したとはいえ、政治的発言力は保っていた。
公武合体の一貫として14代将軍・徳川家茂の御台所に兄・実久の孫娘・和宮を迎える政策で、姉小路は和宮の降嫁を橋本家や姪の観行院(和宮の母)に何度も要求したという。姉小路自ら京都に赴き、降嫁を要求したこともあった。
江戸幕府の崩壊後は京都の実家に戻った。
明治13年(1880年)に70歳で死去したという。
その他
姉小路(あねこうじ / あねがこうじ / あねのこうじ)は、大奥の上臈御年寄の名としてしばしば用いられた。上記人物の他にも、4代将軍徳川家綱時代の上臈御年寄が知られている。この人物は、飛鳥井局とともに御台所となる伏見宮貞清親王の息女浅宮顕子に随行して江戸へ下った人物である。
脚注
- ↑ 将軍付ではあったが、筆頭上臈御年寄ではなかった