シャウル・モファズ
シャウル・モファズ(Shaul Mofaz、 1948年5月6日 - )は、イスラエル国会外交問題・国防委員会委員長のイスラエルの政治家である[1]。
彼は、第16代イスラエル国防軍参謀総長、国防相、副首相、運輸道路安全相の要職を歴任、現在はカディマ党の党首である。
来歴
生い立ちと軍歴
彼は、イランの首都テヘランでイラン・イスファハン生まれの両親のもとにて生まれ、1957年に両親とともにイスラエルに移住した。高校卒業後、 1966年にイスラエル国防軍に入隊し、落下傘旅団において軍務に就いた。 彼はエリート特殊部隊であるサイェレット・マトカルと空挺部隊の隊員として第三次中東戦争、 第四次中東戦争、1982年のレバノン戦争、エンテベ空港奇襲作戦に参加した。 1982年のレバノン戦争で歩兵旅団司令官に任命された。その後、ヴァージニア州クオンティコ海兵隊基地にあるアメリカ海兵隊指揮幕僚大学に入学した。
1986年に落下傘旅団の司令官として現役に復帰する前の少しの期間、士官学校の指揮官に任命された。
モファズは1988年に准将のランクに昇進して、一連の上級軍事ポストで貢献した。1993年にヨルダン川西岸で展開するイスラエル国防軍の司令官に任命された。 1994年に、南部軍団を指揮し、少将に昇進した。さらに急激な上昇を続け、1997年に参謀次長、1998年には参謀総長に任命された。
参謀総長の任期中は、イスラエル軍における財政構造改革によって非常に有名であったが、しかし、2000年9月、彼の任期中で最も重要な出来事である第2次インティファーダが勃発した。 シャウル・モファズによって試みられたそのタフな戦術は、国際社会から広範囲にわたる懸念を引き出したが、広くイスラエルの国民によって支持された。論争は ヨルダン川西岸北部の都市ジェニンにおける激しい攻勢、ガザ地区における断続的な襲撃、 ヤセル・アラファトの継続的な隔離を介してそれは巻き起った。
モファズは、1999年の早くから来たる暴力の波を予感し、領域での激しいゲリラ戦のためにイスラエル国防軍を用意した。彼はガザ地区での兵士の持ち場を強化、 進歩した市街戦の戦術、また、理知的なブルドーザーの利用により どうにかイスラエル国防軍の死傷者を低く維持した。しかし、 彼が試みた(家屋破壊など)方法のために左翼グループから強い批判を浴びた。
政治キャリア
2002年の政府危機に続いて、モファズは論争がある中でアリエル・シャロンによって国防長官に任命された。
彼は、パレスチナ人との合意を支持したが、ハマス、イスラム聖戦、Tanzim、アルアクサ殉教者旅団などの武装組織との戦いでは一切の妥協をしなかった。
2002年、彼は、イスラエル国防軍参謀総長を辞任した。それと並行してシャウル・モファズはシャロンのリクードに参加していた。2003年に行われた第16回議会総選挙ではリクードのリストに彼の名は無く出馬を断念したが、新政府を発足したアリエル・シャロンは国防長官として彼を再任した。
2005年11月21日、モファズはアリエル・シャロンによる新しい党であるカディマ党に参加する誘いを拒絶、彼はリクードで指導者の地位を得るため出馬を表明した。 しかし、2005年12月11日、カディマに参加するため、党首選とリクードの両方から身を引いた。
2006年3月28日に行われた第17回議会総選挙に初当選、選挙に続いて、2006年5月4日、モファズは新しく発足した内閣で国防相の地位から運輸道路安全相に任命された。