鏡川正光
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鏡川正光(かがみがわ まさみつ、明治12年(1879年)11月1日‐昭和16年(1941年)4月20日)は、明治・大正時代の大相撲力士。高知県吾川郡出身。本名は大野定吉(のちに正光と改名)。友綱部屋所属で、相弟子に横綱太刀山峯右エ門・大関太刀光電右エ門・大関國見山悦吉らがいる。身長173㎝・体重90㎏。最高位は前頭2枚目。
高知県吾川郡吾川村峠ノ越に生まれる。板垣退助の勧めによって同郷の友綱(元幕内・海山)[1]のもとに入門した。四股名の鏡川も板垣の命名による。一時期、八幡山と四股名を改めたこともあった。
初土俵は明治34年(1901年)5月場所。明治40年(1907年)1月場所で十両昇進。入幕は明治41年(1908年)5月場所。幕内在位は12場所だった。
稽古熱心で知られた関脇玉椿をして「お前ほど稽古したらとても体がもたんだろう」と言わしめたほどの稽古熱心で、猛稽古により前髪が常に擦り切れていたという。突っ張り・押しを中心とした正攻法を得意とし、キビキビとした土俵態度だった。生真面目で酒も飲まず、温厚な人柄だったため人望があったという。
大正3年(1914年)1月場所を最後に引退し、年寄鳴戸を襲名した。昭和2年(1927年)5月に年寄を廃業、その後は東京日本横浜町で待合茶屋(待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業)を経営した。昭和16年(1941年)4月20日没。享年61歳。
主な成績
- 幕内成績:25勝51敗3分5預36休(12場所)
- 勝率:0.329
脚注
- ↑ 同郷の板垣退助とは幼少時から親しく、角界においても板垣の助力もあり横綱・太刀山ら多くの弟子を育成した。
参考文献
- 「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。
- 日本相撲協会監修『相撲大事典』現代書館、2011年。