酒井忠徳
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酒井 忠徳(さかい ただあり)は、出羽庄内藩の第7代藩主。左衛門尉酒井家9代当主。6代藩主・酒井忠温の長男。母は黒田継高の娘・為姫。正室は徳川宗武の娘・修姫。官位は従四位下、左衛門尉、侍従。
宝暦5年(1755年)10月2日生まれ。明和3年(1766年)12月に従五位下に叙任する。明和4年(1767年)、父の死去により後を継ぐ。しかし藩財政窮乏により、江戸から本国に帰国するとき、その経費すら調達できず、涙したというエピソードが残っている。このため、藩財政再建を目指して豪商・本間光丘を登用して財政改革である「安永御地盤組立」を行なった。この改革は節約などを主としたものであり、9万両の借金全てを返還し、逆に1480両の蓄えを築くに至ったのである。
安永2年(1773年)12月に従四位に叙任する。天明3年(1783年)の天明の大飢饉では餓死者を出さなかった。しかし寛政期頃から藩財政が悪化し始め、10万両の借金を築くに至った。このため、再度の藩政改革を行なって農村復興や文武の奨励に尽力し、文化2年(1805年)には藩校・致道館を創設した。文化2年(1805年)9月25日、長男・忠器に家督を譲って隠居し、文化9年(1812年)9月18日に58歳で死去した。
政治家としてだけではなく、和歌や刀剣鑑定などにも優れていたといわれている。
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