天理教
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天理教(てんりきょう)は、日本の新興宗教の一つである。教祖中山みき(但し中山みきが天理教を始めたわけではない)・親神天理王命・御霊様を崇拝対象とする。江戸時代末期に開かれた。天啓宗教。創唱宗教。
狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)及びその傘下の被包括宗教法人等(教会本部及び一般教会)からなる宗教集団を指す。広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す。本稿では、狭義の天理教について述べる。 広義には、天理教を信仰する全ての宗教団体が含まれる。宗教法人天理教の他、「ほんみち」・「ほんぶしん」・「天理教豊文教会」・「おうかんみち」・「神一条教」・「うち分け場所」・「茨木一派」などがあげられる。また財団法人としてモラロジー研究所などがある。これらはそれぞれの項で述べる。
「おさづけ」という儀式(息や手踊り)で、どんな病気でも治すことが出来るとしている。
街頭で、黒いハッピを着て鳴り物を鳴らし、歌を歌いながら踊っている集団が天理教である。
目次
概要
崇拝対象
親神
天理王命、南無天理王命のこと。人類創世の神。輪廻転生を司る。親神が親様の身体に憑依した。
歴史
1838年(天保9年)10月26日に阿弥陀信仰深く、慈悲深い生活をしていた奈良県の農民中山みきが、病気の息子を治すために、山伏に祈祷を依頼した。それでも治らなかったため、自ら修験者の霊媒となった際に、三島神社にて「親神(おやがみ)」天理王命(てんりおうのみこと)が天降り、憑依したと主張している。中山みきは、超能力を得て、安産の祈願や、人々の病気を治すなどの奇跡を起こしていたらしい。そして、近隣の農民や職人の尊敬を集めた。しかし、地域の寺社からは疎まれ、官憲からは弾圧を受け、中山みきは幾度となく、逮捕・拘留された。
中山みきの側近達はおやがみを祭る新宗教を作ろうとしたが、中山みきはそれを禁じた。また、りっぱな建物を造ることも禁じた。簡素な仮の社でいいとした。なぜなら、中山みき自身が神が宿る社なので、おやがみを祭る建物は必要ないからだ。
中山みきの没後、側近達は新宗教を立ち上げようと活動を開始するが、当時において教えがきわめて特異的だったため認められなかった。その後政府の指導に従い、神道の一派として天理教を立ち上げた。1885年(明治18年)5月23日神道本局傘下の六等教会「神道天理教会」としての認可された。故に天理教で教祖とされる中山みきが天理教を興したのではない。あくまで彼女の思想が天理教の教理の元となり、彼女が天理教によって「親様(おやさま)」として祭られているだけである。1900年(明治33年)8月から明治政府の意向に配慮した「明治教典」等の編纂を行うなど各方面で努力をした結果、1908年(明治41年)に別派として独立することが出来た。(天理教ではこの一連の活動を「一派独立運動」と呼称している)。しかしこれは、本来の教祖の教え(おふでさきに書かれていることなど)に反することでもあった。元々教祖(=親神)は明治以前より始まっていた教団の認可活動を快く思っておらず、幾度と無く反対の意思を示しており(前述の明治維新に伴う吉田神祇管領の廃止=認可の無効も預言していたとされる)、明治に入り教祖が現身を隠した後、飯降伊蔵を通して神意を示す様になってからもこの姿勢を崩す事は無かった。
なお、戦前は帝国政府の弾圧を避けるため、教派神道(神道十三派の一つ)を名乗る必要があった。そして、天皇崇拝、戦争賛成の立場をとった。これにより天理教は弾圧から逃れることが出来た。しかし一方でこれは天理教の教えに反することでもあった。しかし、政府にはむかった宗教が弾圧されて消滅していくなか、これによって信者を政府の弾圧から守ることが出来た。一方、天皇崇拝に反対し、本来の教えを貫いた信者達は「ほんみち」という別の天理教団体を作った。現在天理教よりも信者数が多く、栄えている。1970年(昭和45年)に政府からの弾圧から解放され、天理教自身が教派神道ではないと宣言し、新宗教諸派に分類されたが、現在でも神道色が濃い。
人物
中山みき
中山みきは生前、病気を治す能力を「おさづけ」として、適切な人物に能力を分け与えていたといわれている。これが現在の「おさづけ」と呼ばれる宗教儀式の原型となっている。
真柱
統括者は真柱(しんばしら)と呼ばれ、現在は教祖の系譜の六代目の中山善司が四代真柱を務める。真柱は世襲制で、「教祖」中山みきの子孫である。しかし、跡継ぎとなる次代の真柱がいないため、問題になっている。なぜなら子供は出来ないのは、夫婦の悪い因縁が原因であると天理教では説かれているからである。
教理
神髄は、たすけ一条で、神の道具衆として、真実の意味において人を救う心を起こせば、親神の御心と導通を起こし、それによって霊的心身一如の成熟を得るので、真実の意味において自らもたすけられるというものであり、「だめの教え」といわれる。(だめ、とは駄目押しのだめであり、「最後の教え」との意味である。)
原典
教義の基礎とされる原典は、1711首の和歌体で書かれた「おふでさき」、つとめの地歌としての「みかぐらうた」、そして折々の伺いに対して下された「おさしづ」の3種類の啓示書。「三原典」と呼ばれて天理教教義の基礎となっている。一方これ以外の書物は、親神・親様以外の人間の考えが混じったものとされ、原典とは区別される。原典以外の書物が、原典の解釈の違いを生み、様々な派閥が出来る原因のひとつとなった。
「三原典」については、
- 「おふでさき」は教祖直筆で、現存する。親神の教えを和歌の形で記してある。
- 「みかぐらうた」も教祖によって書かれたものであるが、未だに原本が見つかっていない。「陽気暮らし」を目指す天理教の教えを誰でもわかりやすく記したもの。
- 「おさしづ」は教祖、または飯降伊蔵(本席と呼ばれ、教祖の高弟の一人)の口を通して、神の指図を側にいた書取人が速記したもの(その為、同音異義語の問題がある)。困ったことがあったときの心構えや解決方法を記したもの。
陽気ぐらし
親神によって実現されるべき救済の理想は、神が人間創造にかけた目的の成就ともいうべき陽気ぐらしと説き、それはすべての人間が神一条、救け一条で、相たずさえて喜びの日々を生きることによって成るとする。自らは神によっていかされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、病気のない平和で豊かな世界を目指すことである。
また、月日・親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、陽気ぐらしを享受することができると考え、そのことに感謝を捧げ、報恩の行いとして人間は、親神の恵みである天然自然を活かし、親神からの借り物であるそれぞれの身体を、陽気ぐらしのために惜しまず使っていくことが大切とされている。また、すべての人間関係は、夫婦関係を基本として培う事が理想であるとされている。
ぢば
奈良県天理市にある「ぢば」(かんろだい)において人類が創造されたと主張しており、ぢば(地場)と呼ばれる。人類は泥の中の9億匹のどじょうの中から生まれたとしている。 その中心地は元々中山家の敷地内であった。現在この周辺地一帯に教会本部が置かれている。隣接する場所には、三島神社という地域の鎮守社があったが、天理教によって近接地へ強制移転させられたという経緯[1]がある。また今でもここで教祖(おやさま)は存命で、日々お働きになっていると天理教は主張している。既に、中山みきは亡くなっている。しかし、天理教は、生霊、死霊の類は否定している。そして、前世・来世を肯定している。前世の因縁を持って、人は現世に生まれてくると考えている。死んだおやさまが存命であるという矛盾を天理教は含んでいる。
8つのほこり
天理教には、8つのほこり(をしい・欲しい・憎い・かわい・恨み・腹立ち・欲・高慢の事)という教えがある。悪いほこりを積むとよくないと説いている。また、身体は親神からの借り物であり、謙虚に生きることを説いている。
しかし、現在の天理教には、高慢で欲の深い教会長が増えていて、信者の信頼を失っている。これにより信者は教会から離れていくようになった。
いんねん
天理教でよく使われる概念として、「因縁」というものがある。意味は言葉どおりである。悪い「因縁」を良い「因縁」に変えることが、信者の目標である。「因縁」は生きている間にも増える。これを「埃がつもる」という。一方で生まれつき悪い「因縁」を持っている人もいるらしい。しかし、その根拠は謎である。宗教法人天理教では、悪い「因縁」を良い「因縁」に変えるために、天理教にひのきしんし、お供えをたくさんして欲を落とす。
障害者を、前世に身体に無理をしたり、悪いことをして、悪い「因縁」を抱えて、現世で障害者として生まれてきたのだと主張している。
理の親
唯一おやさまのことを指す。一部の系統では、教会長を理の親としているところがあるがこれは間違いである。中には教会長を神と崇めている教会さえある。
存命の理
教祖中山みきがまだ生きていると言うこと(但し死亡は確認されている)。
宗教活動
教会の外での活動も活発である。活動内容は、数名が組を作って町を練り歩くこと。「天理王命」と書かれた黒い旗を持つ人。拍子木を鳴らす人。太鼓を鳴らす人(合わせて「鳴り物」と呼ぶ)。時には、歌を歌い、踊りを踊る。また、時には、天理教信者でない一般民家の中に入り、その家の人達のために、囃し立てたり、踊ったりする。これは天理教信者以外の家にまで入って行われる。このような光景は天理市街では特によくみかける。
ひのきしん
「ひのきしん」は親神の守護に感謝し、その報恩の行いすべてをいう。簡単に言えば、親神・親様への感謝を表す天理教に対する奉仕活動である。「つとめ」(てんりおうのつとめ)という祈りを通して、親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを願う。
祭典
祭典日は26日。天理教信者が天理に集まる。この日は、JR、近鉄とも、天理駅発着の臨時列車が運転される。団参で、天理へは通常より安い運賃で来ることが出来る。このほかにも、正月などに行事がある。
機関誌
機関誌は、「天理時報」。発行部数15万部[2]。かつて、天理時報に部落差別をする記事が数回掲載されたことがあり問題となった[3]。
教勢
天理教信者数は、正確に把握されていない。天理教には「全ての人間は神の子であり分け隔て無く助ける」との教えがあり、結果信者という定義が無く、かつては信者数の公表などは行っていなかったからである。現在は、信者数は激減傾向にある。理由として少子高齢化、若年層の行事不参加、不況や家計の変化に伴って従来どおりお供えが出来なくなったことなどがあげられる。また、所属する教会の腐敗や教会からの高額なお供えの要求に嫌気をさして、天理教をやめる信者も増えているからである。
公称200万人前後としているが、実質は20~30万人であると言われている。公称人数には、脱会した信者や死亡した信者がそのまま含まれている。
このほか、天理教会本部とは別組織で天理教を信仰している団体がある。信者数は合わせて約30万人以上。天理教本部は、「天理教」は天理教本部の商標であり、天理教豊文分教会に「天理教」の名称使用を差し止める民事裁判を起こした。しかし、天理教本部側が敗訴した。これにより、天理教の教えに沿って信仰する団体は、いずれも「天理教」の名を用いることが出来ると認められた。天理教豊文分教会は「天理教豊文教会」と名をあたらめ、教祖の教えにそった宗教活動を行っている。
天理市
天理市は日本では唯一、宗教名が市名になっている宗教都市である。それだけ、天理市が天理教の聖地であることの表れだが、一方では、天理市との癒着ともとることが出来る。天理教は天理市へ毎年約15億5000万円[4]もの多額の寄付を行っている。しかも、天理市はそれを見込んで予算を編成している。それは、信者のお供えから支出している。寄付金は天理教祭典日の混雑緩和のための道路整備などに使われている。
また、天理市は天理教信者でない住人の方が多い。「天理市民=天理教信者」と誤解されるのを嫌う天理市民もいる。市の名前を変えるため、天理市民で構成された市民団体が活動を開始した。 天理教は天理市三島町の市の土地を不法占拠しているが、地代を天理市に支払っていない。市と教会が癒着しているため地代を請求していないと、市民オンブズマンは指摘している[5]。奈良県市民オンブズマン