松田恒尚
松田 恒尚(まつだ つねひさ)は、日本の歴史学者、慶應義塾志木高等学校教諭。本土における琉球史の研究者として知られる。社会科、家庭科教員。また、語学講座では琉球語も担当する。愛称は「親方」「エクスカリバー」など。足立文治、石島慎一郎とは古い友人
略歴
- 1982年3月 慶應義塾中等部卒業
- 1985年3月 慶應義塾高等学校卒業
- 1989年3月 慶應義塾大学経済学部卒業
- 1992年3月 慶應義塾大学修士課程文学研究科修了
- 1996年3月 慶應義塾大学博士課程文学単位取得退学
- 1997年4月〜 慶應義塾志木高等学校教諭[1]
人物
上記略歴の通り、一般の中学校にあたる慶應義塾中等部から慶應義塾付属校の高校・大学を経て、慶應義塾志木高等学校教諭となっているため、13歳~現在に至るまで30年以上、慶應義塾に在籍していることになる。しかし、これは慶應義塾の教員としては珍しいことではない。
「親方」の愛称で親しまれている。この愛称は生徒間で悪口のように広まっているものではなく、同僚の教職員も本人を表す際に用いている。また、部長を務める軟式野球部では、監督もしているにも関わらず部員から「監督」と呼ばれることは一切なく、常に「親方」と呼ばれている。 「親方」という愛称の由来としては諸説あるが、その脹よかな体つきが日本国国技選手の様であるためというのが一般的な説となっている。また、脹よかな体型で、尚且つ、黒縁でレンズ部分が四角いメガネをしていることから、ピン芸人の「芋洗坂係長」と瓜二つであり、初めて見る新入生の間では「芋洗坂」と呼ばれることもしばしばある。しかし、現在では脹よかな体型となっているが本人の授業中の談話によると、高校時代は、高校野球の名門として有名な慶應義塾高等学校野球部において1番センターをやっていたといい、このポジションは俊足の選手が担うのが一般的であるため昔は痩せていたとわかり、また本人もかつては痩せていたと語っている。このことについて、本人は「痩せようと思えば、いつでも痩せられる。」というように発言している。[2]
名言・迷言を多く残すことがありその例として、
- 「1軒の店で満腹になるなら、はしごした方がいい。」
- 「(生徒・部員に対して)お前らみたいな奴らが日本をダメにするんだ。」
- 「ゲロ萎え。」
- 「ばっかじゃなかろかるんば」
- 「んほっ//んほっっ///むほほほほほほほほほほほほ」
- 「ジャストおおおおおおおおお」
- 「(デブサミット招集に対して)保健室のおばさんも太っている。」
- 「お前らは俺の話を聞かないくせにマイナが9人もいやがる」
- 「(生徒に対して)ホームルームで弁当食ってるやつとしか思ってなかったわ。」
- 「この服誰のー?って聞いて誰も答えなかったじゃねぇか。だから捨てた。」
などが挙げられる。
監督
日本高等学校野球連盟の軟式野球の大会において、慶應義塾志木高等学校軟式野球部を部長兼監督として率い、多く優秀な成績へ導いている。
主な成績
- 平成18年 第51回全国高等学校軟式野球選手権埼玉大会準優勝
- 平成19年 埼玉県高等学校軟式野球春季大会優勝
- 平成19年 第52回全国高等学校軟式野球選手権埼玉大会Aブロック優勝[3]
- 平成20年 第53回全国高等学校軟式野球選手権埼玉大会優勝
- 平成21年 第54回全国高等学校軟式野球選手権埼玉大会準優勝
生態
教員室ではペヤングの超大盛り焼きそばを食す姿が目撃されている。また、カップラーメンを片手に道を歩く姿も目撃されている。秋になると植物が枯れてゆくのとは逆に髭が茂り始める。マスクからはみでる髭はジャック・スパロウ顔負けのものである。 教室から教員室へ帰る際には『家族』という題名の本を持っている姿が目撃されており、家庭科に対しての熱意が感じられる。ただ、戸籍上は親方1人となっている。
授業
慶應義塾志木高等学校教諭・山崎勇(通称 パイナ)と同じく催眠授業の使い手。しかし、きちんとまとめ上げられたノートがテスト前に出回るため、山崎勇をはじめとした植田泰生教諭、鈴木平教諭ら慶應義塾志木高等学校に多く在籍する催眠授業の使い手の中では下位に位置すると考えられている。いずれの催眠授業の使い手の催眠を打ち破るための方法として、ゲーム機器の使用、マンガ本等の読書、レポート類の著述、等が有効な手段とされており、多くの在校生・卒業生がこれらの方法を用いてきた。ただ、これらの方法には欠点があり、「授業の内容が頭に入りにくい」という点が挙げられる。
社会科
社会科の授業は主に史料集中心に行われる。 2年生の世界史を担当する際には、上記のように自身の愛称が「親方」であるため、13世紀に各都市で成立した同職ギルド(ツンフト)の身分制度の頂点に立つ「親方」を授業で扱うと滅多に起きることのない笑いが起こるため、鉄板ネタになっているようである。[4]
家庭科
元々、社会科の教員であったが、親友とされている小池陽教諭が授業で語った話によると、慶應義塾志木高等学校が教育委員会に家庭科の授業を行うよう指導を受けた(それ以前は男子校であるため行われていなかった)際に、何事にも器用で真面目であると周囲から推薦され、社会科の通常授業を行いながら大学へ通い家庭科教員免許を取得したということである。尚、この授業は別名「催眠術」と呼ばれており、大半の生徒は話を聞かずに寝ているか携帯をいじるかのどちらかである。
授業では、外見によらず器用な裁縫技術を披露する。
著作
- 『唐宋変革期における宗族の変容について』