法難
法難(ほうなん, religious persecution of Buddhism)は仏教を弾圧することである。明治の廃仏毀釈の先駆けである。
概要
飛鳥時代
用明2年、飛鳥時代に物部守屋と中臣勝海は「異国の神を信仰したから疫病がはやった」と訴え、敏達天皇は「仏教信仰のせいだ、仏法を断めよ」と仏教信仰の中止を求めた。守屋は寺の塔を倒し仏像と仏殿を焼きはらい、仏像を海に流した。587年4月2日、用明天皇が病気になると、仏法への帰依を伝える[1]。
三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
これらは「排仏崇仏論争」と言われるが、歴史的事実というより、後世の作為的な記事との見解がある。、有働智奘は理由を物部の歴史書である『先代旧事本紀』には仏教排除の記載がないこと、『元興寺縁起』の仏教信仰の反対者には物部や中臣の名はなく、「餘臣」としか書かれていない事、物部の本拠地に初期仏教遺跡の渋川廃寺があることから、裏付けられる。さらに日本と百済の交流に関与した官僚に物部氏が活躍していることから、仏教信仰に反対したとは考えにくいことも傍証とした[2][3]。
島津家による法難
島津斉彬は廃仏思想があったようで、「殿様は寺の鐘までも取り上げなされたから、その祟りで御病気になって亡くなられたと言いはやされた」[4]と書かれた。寺院は焼き払われて、金属が取られ、一部は偽造通貨の生産に充てられたという[5]。
水戸光圀による法難
水戸光圀は寺社の統廃合を目指した。領内の寺の実体を調査し、『開基帳』を取りまとめた。光圀36歳の時である。寺院の由緒、檀家数、境内地と伽藍の現状、石高などを調べた。調査をもとに1666年(寛文6年)に寺院整理を行う。2377の寺を整理して、破却された寺院は1098寺となり、残った寺は990寺となった。水戸光圀は、仏教は現世の利益を約束する宗教と考えた。水戸藩だけで約半数の寺がなくなった。理由は、無秩序に寺院が増え、僧侶の数が増えて治安上の問題が出た[6][7]。
関連事項
注・参考文献