吉備真備

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吉備真備(きびのまきび,695年 - 775年10月)は奈良時代の学者、官僚、政治家である。奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り、中国で19年間政治、経済、法律、天文、数学、暦、兵学、音楽、儒学、歴史を学んんだ。帰国してから朝廷に出仕し、右大臣にまでなった。近世以前に学者で右大臣になったのは吉備真備が最初の例である。出生時の名前は「下道朝臣真備」であった。「吉備真吉備」とも記される。

概要

修業時代

695年(持統9年)下級武官の下道朝臣圀勝の子として生まれた。父親のルーツは備中国下道(現在の岡山県)であるが、中央政府の下級官僚であったため、真備の出生は畿内の可能性があるとされる。下道は『和名抄』に「之毛津美知(しもつみち)」と読み、上道が京畿に上る方向で、下道が筑紫に下る方向であった。当時、国名は京畿に近いほうが「上」とし、遠い方に「下」としたためである。『古事記』では、若日子建吉備津日子命の後裔氏族であるとされる。『日本書紀』によれば、応神天皇によって下道臣の祖・稲速別が吉備国川嶋県に封ぜられたとされる。 真備の出生時は「下道朝臣真備」と称し、吉備地方の臣姓国造であり。族長的土豪の出身であった。天武朝13年に朝臣姓を与えられた[1]。 真備は15歳前後で情願して大学寮に入り、6,7年の課程を経て、省試を受けて従八位下を授けられた。

遣唐留学生

716年(霊亀2年)に真備は22歳で遣唐留学生に選ばれ、23歳で入唐した。19年間の留学生生活を終え、735年(天平2年)に帰国した。 遣唐使は過去最大人数の717年(養老元年)3月に難波を発した。押使は従四位下多治比真人縣守。大使は従五位上安倍朝臣安麻呂(従五位下大伴宿禰山守に交代)、副使は正六位下(従五位下に昇叙)藤原朝臣馬養であった。716年(霊亀2年)8月20日に任命され、717年(霊亀3年)3月9日、多治比縣守に節刀を賜り出発した。船は4艘、557人の大使節団であった。717年(開元5年)10月1日に唐の長安に到達した[2]。10月1日に原稿皇帝の勅を賜り、16日に中書省で宴集を受け、19日には孔子廟堂に謁し、寺院・道観の礼拝を許された。 『新唐書』巻220、東夷列伝第145日本の条に記載されている。

開元の初め、粟田復た朝す。諸儒に従って経を授けられんことを請う。四門助教趙玄黙に詔して鴻臚寺に即いて師と為す。大福布を献じて贄と為す。
賞物を悉して、書を貿ひて以て帰る。(『新唐書』巻220)

粟田は多治比縣守を粟田真人と混同したものである。真備は趙玄黙から『礼記』『漢書』を学んだと思われる。開幅布(大福布)を束脩として差し出して入門したのは真備と考えられる。その布に「白亀元年調布」と書かれていた。白亀は神亀ではなく、「養老」前年の「霊亀」の誤りと見られる。霊亀元年(715年)に朝廷から賜った調布と見られる。

帰朝

真備は733年(天平5年)の遣唐使の帰国時に同行し、第1船の多治比広成は11月に種子島に帰着し(吉備真備・玄昉帰国。羽栗吉麻呂・翼・翔親子も帰国)、735年(天平7年)3月に帰国した。帰朝後、従八位下から正六位下に昇叙し、大学助となった[3]。真備は道芸を恢弘し、学生400名に「五経、三史、明法、算術、音韻、籀篆等の六道」を学ばしめた[4]

翌736年(天平8年)正月の定期叙位で正六位下から外従五位下を授けられた。42歳の時である。『続日本紀』天平七年四月26日に「入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百三十巻、大衍歴経一巻、立成十二巻、測影鉄尺1枚、銅律管一部、鉄如方響、写律管声十二条、楽書要録十巻、絃纏漆角弓一張、馬上飲水漆角弓一張、露面漆四節角弓一張、射甲漆箭廿隻、平射箭十隻」と書かれている。 唐礼130巻、則天武后勅撰の音楽理論書『楽書要録』10巻や律呂(音階)調律用の「銅律管」など、礼・楽に関するものを招来した。唐礼一百三十巻とは高宗の『永徽礼』とされている[5]。『楽書要録』は中国には残存せず、日本に巻第五・巻第六・巻第七の3巻と残りの7巻の逸文が伝存する。 翌737年(天平9年)11月には従五位下に叙せられ、入内した。入唐留学と学業の優秀性が認められたものであろう。12月27日には玄昉の宮子皇太后看病平癒の功を賞して、大量の贈り物があり、同時に真備は従五位上に叙せられた。真備の昇進はかなり早いと見られる。

藤原広嗣の乱

大宰少藤原広嗣は、吉備真備と僧玄昉が朝廷で重用されるのをねたみ、740年、2人を討つという名目により北九州で挙兵し、乱を起こした。乱の原因として藤原氏の地位の相対的な低下が挙げられている。 737年聖武天皇の時代から疫病が流行した。遣唐使のメンバーが唐から持ち帰った天然痘が原因と言われている。疫病のため737年1月から8月にかけて藤原不比等の四子である藤原武智麻呂( 従二位・右大臣)・藤原房前(正三位、参議民部卿)・藤原宇合( 正三位・参議)・藤原麻呂(従三位・参議)の4兄弟をはじめ、政府高官が次々と亡くなり朝廷は機能不全に陥った。聖武天皇は、危機を乗り越えるため生き残り政権幹部の橘諸兄を、738年に正三位 右大臣とし危機を乗り越えようとした[6]橘諸兄は部下として遣唐留学生であった吉備真備、玄昉を抜擢した。当時は人材不足のため、それを解消するための措置であった。

ところが藤原宇合の息子である藤原広嗣(当時従五位下、式部少輔)は大きな不満を公言した。藤原広嗣は大宰府へ左遷されたため、上奏文を送り付けたが、右大臣の橘諸兄はこれを謀反と考えた。 『続日本紀』天平12年秋八月癸未(740年8月29日)に

「太宰少貳従五位下藤原朝臣広嗣、上表して時政の得失を指し天地の災異を陳ぶ、因りて僧正玄昉・右衛士督従五位上下道朝臣を除くを以て言となす」)『続日本紀』天平12年)

『松浦廟宮先祖次第并本縁起』[7]は信頼できない記述も多いが、藤原広嗣が上表した文を掲載しており、採用できる部分もある。中に

「僧正玄昉・・・伝聞すらく、大唐の相師、当に天子となるべしと曰うと。竊に此言を負い、独り宝位を窺ふ。」
「従五位上守右衛士督兼中宮亮近江守下道朝臣真備は辺鄙の伝氏、斗筲の小人なり。海外に遊学して、尤も表短(ママ)を習う。智あり勇あり権あり。
口に山甫の遺風を論じて意に趙高の権謀を慕ふ。所謂、有為祼姦雄の客、利口覆国の人なり。亦玄昉の左翼となりて陛下の明徳を蔽う。」
「若し早く除かんば恐らくは噬臍の憂を胎さん」「両翼去らずんば将に斧柯を用ゐんとす。」(『松浦廟宮先祖次第并本縁起』)

と書かれている。玄昉が帝位を狙い、真備はそれを助けて天皇の判断を妨げているという讒言である。それを除くために武力を使うと脅している。玄昉と真備を追い落とそうとする急先鋒となった。 上表は740年8月29日に送付され、9月3日には兵を起こし、管轄下の1万余の兵を動員して東上を開始した。隼人を引き入れたとも伝わる。政府軍は大野東人を大将軍とする追討軍であり北九州各地で激戦する。政府軍は関門海峡をわたり、九月二十日から二十一日ごろ三鎮を陥落させた。敗れた広嗣は値嘉島(五島列島)からさらに西方へ脱出しようとして捕縛された。11月1日には松浦郡で切られた。反乱は約2ヵ月間であった。

二度目の入唐

751年(天平勝宝3年)遣唐副使となり翌年入唐し、754年に帰国する。(未完)

大宰府

(未完)

名称表記について

「真備」「真吉備」の2通りの表記がある。

  • 真備:『続日本紀』巻三十三・光仁天皇宝亀六年(775年)十月
  • 真吉備:『日本紀略』『正倉院文書』『類聚国史』、『続日本紀』慶雲元年・宝亀元年・延暦十年

本居宣長は「真吉備」が正しい名であるが、唐で「吉」を省略し。帰朝後もそのまま使ったとする[8]。杉本直治郎(1940)は唐風の記載に「真備」が使われ、和風の記載には「真吉備」が使われたとする[9]

吉備朝臣への改姓

吉備朝臣の名を賜ったのは746年(天平18年)である[10]。これ以降一族は吉備朝臣を称した。真備は「吉備真備」(または「吉備真吉備」)を名乗った。

生年の検討

生年を直接的に記載した文献は存在しないので、文献の他の記載から類推することになる。 『続日本紀』宝亀元年(775年)十月丙申条「上啓して骸骨を乞ふ文」に「去る天平宝字八年(764年)正月、真備生年数えて七十に満つ」と書かれており、これからすれば695年(持統天皇九年)生まれとなる。 入唐したときの年齢は20歳[11]、23歳[12]と文献による差異がある。入唐時(霊亀2年)に20歳なら697年生まれとなる。

結論としては本人の書いた上啓文が最も信頼性が高いと考えられるので、695年(持統天皇九年)生まれが正しい生年と理解される。

吉備真備の記念碑等

中国西安市吉備真備碑

真備が長安で学んだ国士監(大学)の跡地(環城公園内)に「吉備真備記念碑園」が建設され、除幕式が1986年(昭和61年)5月8日に西安市で行われた。碑面の「遣唐留学生 吉備真備記念碑」の刻字の下書きは、岡崎嘉平太の揮毫による[13]

岡山県真備町記念館

岡山県真備町のまきび公園に吉備真備の記念碑、まきび記念館が作られている。

吉備真備公園

「日本の歴史公園100 選」(日本公園緑地協会)選定、吉備真備銅像あり。

  1. 宮田俊彦(1961)『吉備真備』吉川弘文館
  2. 『冊府元亀』巻971朝貢、玄宗開元五年十月「日本国、使を遣わして朝貢す。通事舎人に命じ鴻臚(寺)に就いて宣慰せしむ」
  3. 『続日本紀』宝亀六年十月壬戌薨伝
  4. 三善清行(914)『三善清行意見封事』
  5. 内藤湖南(1930)『日本文化史研究』弘文堂
  6. 橘諸兄は藤原不比等の娘を妻としており、藤原氏との関係が深い
  7. 塙保己一 編, 続群書類従完成会校(1952)『羣書類従 第2輯』 (神祇部 第2(巻第16-28))
  8. 本居宣長『玉かつま』6巻
  9. 杉本直治郎(1940)『阿倍仲麻呂伝研究』育芳社
  10. 『続日本紀』天平十八年十月丁卯条「従四位下下道朝臣真備に姓吉備朝臣を賜ふ」
  11. 『扶桑略記』
  12. 『公卿補任』
  13. 岡崎嘉平太伝刊行会編(1992)『岡崎嘉平太伝』ぎょうせい