SKK昭和組工作所

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2020年6月15日 (月) 18:36時点における由亜辺出夫 (トーク | 投稿記録)による版 (造船所建設)

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SKK昭和組工作所(えすけいけいしょうわぐみこうさくじょ)は、日本占領下の西ボルネオで活動していた日本の造船会社。1943年1月から、工場の建設とともに造船を開始し、1年間で海務院型機帆船(100トン型)3隻を建造。1944年に工場の規模を拡大し、200トン船の建造も行ったが、1944年9月頃、連合軍の空襲を受けて艤装中の船が炎上・沈没。1945年4月下旬以降の空襲でも主要な標的となり、艤装中の船3隻のうち2隻が焼失・沈没、同年6月30日に工場の責任者が機銃掃射で殺害された。

造船所建設

1943年1月頃から、ポンティアナク市に工場を建設するとともに造船を開始し、5ヵ月後に海務院型機帆船(100トン型)・興海丸を興南海運に引き渡すなど、1年間で3隻を建造した[1]

1944年には船台の数を増設して8ヵ所とし、バトゥアンパルにも工場が建設され、設備が整い、人員も増員されて、200トン船の建造も行われた[2]

1944年9月頃に連合軍の空襲があり、バトゥアンパルで造船後、ポンティアナクで艤装中だった200トン船に積まれていた重油の入ったドラム缶30本ほどが機銃掃射を受けて炎上、船は沈没した[3]

その後はしばらく空襲は途絶えたが[2]、1945年4月29日の天長節以降、終戦まで定期的に空襲が行われ[3]、空襲ではいつも、昭和組の造船工場を機銃掃射して焼夷弾を落とした後、日南造船を空襲し、戻ってきて再び焼夷弾を落とし、終わると帰っていった[2]

昭和組には艤装中だった機帆船が3隻あり、カムフラージュして河岸に繋留してあったが、うち2隻は空襲によって焼失・沈没した[4]。同年6月30日の空襲では警報が鳴らず、機銃掃射を受けたSKK昭和組工作所の責任者・井上光夫が即死した[5]

翌7月1日には社員が現地召集を受けて、歩哨に立たされるようになった[6]

付録

脚注

参考文献

  • 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073