福田赳夫

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{{日本の内閣総理大臣 |[[福田赳夫内閣|67]] |福田 赳夫<br />(ふくだ たけお)<br />[[Image:Takeo Fukuda 1977.jpg]] |[[1905年]][[1月14日]] |[[群馬県]][[群馬郡]][[金古町]] |[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]] |[[正二位]]<br />[[大勲位菊花大綬章]]<br />[[群馬県]]名誉県民<br />[[囲碁]]八段<br />[[将棋]]七段 |[[大蔵省]][[主計局]]長 |無 |[[1976年]][[12月24日]]|[[1978年]][[12月7日]] |衆[[群馬県第3区 (中選挙区)|群馬県第3区]] |衆14回 |[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |{{死亡年月日と没年齢|1905|1|14|1995|7|5}} }} '''福田 赳夫'''(ふくだ  たけお、[[1905年]]([[明治]]38年)[[1月14日]] - [[1995年]]([[平成]]7年)[[7月5日]])は、[[日本]]の[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[政治家]]。第67代[[内閣総理大臣]]。[[位階]][[勲等]]は[[正二位]][[大勲位]]。[[群馬県]][[名誉市民|名誉県民]]。 政治家で第91代内閣総理大臣となった[[福田康夫]]は長男、元[[国会議員#参議院議員|参議院議員]]の[[福田宏一]]は実弟である。 ==来歴・人物== ===生い立ち=== [[群馬県]][[群馬郡]][[金古町]]足門(現在の[[高崎市]]足門町)に父・[[福田善治]](元金古町長)の二男として生まれた<ref>祖父、兄もまた、[[金古町]]長をつとめている</ref>。[[日露戦争]]において日本軍が旅順入城をした翌日に生まれたため、『赳夫』と命名された。<br />福田家は[[江戸時代]]には名主([[庄屋]])を務めた地元の[[名門]]であった。小学校の頃から[[神童]]の誉れ高く、旧制高崎中学(現在の[[群馬県立高崎高等学校]])を首席で卒業し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]から[[東京大学|東京帝国大学]]法学部へ進学。高等文官試験に一番の成績で合格し、[[大蔵省]]に入省した<ref>同期に[[前尾繁三郎]]、[[長沼弘毅]]、[[西原直廉]]([[財務官 (日本)|財務官参事官]]など)らがいる</ref>。大蔵省入省から1年を経ずに、[[財務官 (日本)|財務官]]付の役職で[[ロンドン]]の在英日本[[大使館]]に派遣された。当時の上司にあたる財務官は[[津島寿一]]である。3年半の[[イギリス]]での勤務の後、帰国。その後は大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めた。しかし、[[1948年]]の政府関係者に対する贈収賄が問題になった[[昭和電工事件|昭電疑獄]]の際に、大蔵省主計局長だった福田は[[収賄罪]]容疑で逮捕される。結果として無罪にはなったものの、これを機に大蔵省を退官した。 ===国会議員へ=== [[1952年]]([[昭和]]27年)の[[第25回衆議院議員総選挙]]で[[群馬県第3区 (中選挙区)|群馬三区]]から[[無所属]]で立候補し当選、[[岸信介]]に仕えた。[[野田卯一]]、[[池田勇人]]と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。当時は大蔵省出身の国会議員が衆参あわせて24人いた。無所属の福田を除く23人は全て吉田・池田の自由党所属だったが、福田は自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ。[[1958年]](昭和33年)にはわずか当選4回で[[自由民主党]][[政策部会|政調会長]]就任。 [[1959年]](昭和34年)1月から[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]を、6月からは[[農林水産大臣|農林大臣]]を務める。 [[1960年]](昭和35年) 12月、大蔵省の先輩である[[池田勇人]]の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で[[坊秀男]]、[[田中龍夫]]、[[一万田尚登]]、[[倉石忠雄]]ら福田シンパを糾合し、「'''党風刷新連盟'''」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。これが後に福田派([[清和政策研究会]])に発展する。続く[[佐藤栄作]]政権下では[[大蔵大臣]]、党幹事長、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]と厚遇され、佐藤の後継者として大いにアピールしたが、この時から“ポスト佐藤”をめぐる[[田中角栄]]との熾烈な闘争('''[[角福戦争]]''')が始まる。 [[日本列島改造論]]を掲げ、[[積極財政]]による[[高度経済成長]]路線の拡大を訴える田中に対して、福田は[[均衡財政]]志向の安定経済成長論を唱える。また[[中華人民共和国]]との日中国交回復を急ぐ田中に対して[[台湾]]との関係を重視した慎重路線を打ち出す。これらの「'''外交タカ派'''」のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である[[町村派]]の[[森喜朗]]や[[小泉純一郎]]、[[安倍晋三]]らに引き継がれている。 [[1972年]](昭和47年)7月、「'''われ日本の柱とならん'''」を掛け声に佐藤後継の本命として[[保利茂]]、[[松野頼三]]、[[園田直]]、[[藤尾正行]]ら他派の親福田議員を結集して[[自由民主党総裁選挙|総裁選]]に出馬するも、決選投票(田中282票、福田190票)で角栄に敗れる。しかし、「やがては日本が福田赳夫を必要とする時が来る」と強気の発言を残した。当然、発足した田中内閣においては下野する形になったが、[[第33回衆議院議員総選挙|同年12月の総選挙]]で自民党が改選前議席を割り込むと田中が挙党一致を求める形で[[第2次田中角栄内閣]]に[[行政管理庁長官]]として入閣。翌[[1973年]](昭和48年)11月の内閣改造では、田中の[[日本列島改造論|列島改造論]]と[[オイルショック]]による経済の混乱の収束を求められ、急逝した[[愛知揆一]]の後任として大蔵大臣に就任し、総需要抑制などのインフレ抑制策を発動した(1974年7月の参議院選挙後に辞職)。[[1974年]](昭和49年)12月に発足した[[三木内閣]]でも[[副総理]]・[[経済企画庁長官]]として入閣し、引き続き経済政策の陣頭に立った。しかし、[[ロッキード事件]]への対応を巡って党内で[[三木おろし]]が決定的になった1976年11月に閣僚を辞職している。 ===総理大臣=== [[Image:G7 leaders 1977.jpg|200px|thumb|[[第3回先進国首脳会議]]参加首脳とともに(右から1番目)]] [[Image:G7 leaders 1978.jpg|200px|thumb|[[第4回先進国首脳会議]]参加首脳とともに(左から2番目)]] {{See also|福田赳夫内閣|福田赳夫内閣改造内閣}} [[1976年]](昭和51年)、総裁戦で他の立候補者がなかったため、[[両院議員総会]]での話し合いにより総裁に選出され、過半数をわずかに一票上回る得票で[[内閣総理大臣指名選挙|首班指名]]され、[[三木武夫]]の後任として念願の政権([[福田赳夫内閣|福田内閣]])を樹立。71歳という高齢を心配する周囲からの声に対し、自らの生年に因み「'''明治三十八歳'''」と言って若さをアピールした。また、外交問題の解決をはじめ、実務型の内閣であったことから、内閣を「働こう内閣」と表現。また、前内閣で政治改革は進む一方で外交や経済の案件が遅れており、総理大臣をもじって「掃除大臣」と自称した。 就任当初は党内抗争(「[[三木おろし]]」)において、大平正芳との間に「2年で政権を譲る」と[[大福密約]]によって、総理の座を得たということや、新鮮味に欠けるなどの理由、また自民党内でも[[右派]]の立場であったため[[左派]]層に支持を広げにくいなどの理由から支持率は低かった。福田は[[大平正芳]]を幹事長に据えて大平派との連携により政局の安定を図る。 [[1977年]](昭和52年)、[[第11回参議院議員通常選挙]]で自民党は改選議席を上回る議席を確保。同年夏、新たに[[党友]]組織[[自由国民会議]]創設に当たり党国民運動本部長[[中川一郎]]通じて保守派の論客として知られる[[作曲家]][[黛敏郎]]に初代代表就任要請し受諾得る。同年に起きた[[ダッカ日航機ハイジャック事件]]では「'''人命は地球より重い'''」として犯人側の[[人質]]解放の条件を飲み、[[身代金]]の支払いおよび、[[超法規的措置]]として[[囚人]]の引き渡しを行ったことで、[[テロリスト]]の脅迫に屈したと国際的な批判を浴びることとなった。この後北朝鮮による拉致が急増した。しかし在任中を通じて福田内閣の支持率は徐々に持ち直し、[[日中平和友好条約]]の締結や積極的な東南アジア外交の展開を行う。その姿勢は[[フィリピン]]の[[マニラ]]で発表された[[福田ドクトリン]]へと結実することとなった。 [[1978年]](昭和53年)[[10月23日]]、[[鄧小平]]副総理を日本に迎え、「[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]」に調印。 [[派閥]]解消を目指して党員・党友投票による自民党総裁予備選挙を導入したが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する一方で、福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢の結果に油断し、動きが鈍く、当初の下馬評が覆され、福田は大平に大差で敗北した。福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため、本選挙出馬断念に追い込まれることになる。自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。記者会見で「民の声は天の声というが、'''天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね'''まあいいでしょう!きょうは敗軍の将、兵を『語る』でいきますから。へい、へい、へい」([[1993年]][[12月31日]]放送TBSテレビ「自民党戦国史」の映像より)の言を残して総理総裁を退く。 {{See also|角福戦争#第二次角福戦争 (第一次大福戦争)}} ===総理退任後=== [[1979年]](昭和54年)、大平政権下では反主流と化して[[40日抗争]]、[[ハプニング解散]]で再び田中・大平主流派と対立した。その後も度々総裁候補として浮上し、自民党の実力者であり続けた。また、世界の大統領・首相経験者らが世界の諸問題の解決へ向けた提言を行う場として「[[OBサミット]]」設立(1982年)するなど、「世直し改革」を訴え「'''昭和の[[水戸黄門|黄門]]'''」を自認した。また造語・警句の名手として知られ、「'''狂乱物価'''」「'''昭和元禄'''」「'''視界ゼロ'''」「'''日々是反省'''」「福田内閣は'''さあ働こう内閣'''だ」など福田語録を残している。後に総理大臣になる[[森喜朗]]や[[小泉純一郎]]は彼の教えを受けた<ref>小泉や[[佐藤静雄_(衆議院議員)|佐藤静雄]]の政治人生は、福田の秘書となり、かばん持ちをすることから始まった</ref>。[[1984年]](昭和59年)に[[二階堂擁立構想]]をきっかけに発言力が低下し、福田の教え子であった森や小泉らからも世代交代を主張する声が出たため[[1986年]](昭和61年)に派閥を[[安倍晋太郎]]に譲った。この件が元で中選挙区で安倍のライバルであった[[田中龍夫]]が引退を決意したとされている。 [[リクルート事件]]によって[[竹下内閣]]が崩壊した際には福田を後継の総理・総裁に推す動きが、また安倍が死去した際には森らが福田を再度派閥の長にしようとする動きを起こしたが、何れも福田は「私は高齢だから相応しくない」として辞退している。 [[1990年]](平成2年)、[[第39回衆議院議員総選挙]]を機に政界引退。長男[[福田康夫|康夫]]が後継者となるが、次男の征夫が病気に倒れるまでは「'''康夫は面の皮が薄すぎて政治家に向かない'''」と周囲に語っていた。引退するまで連続14回当選。同じ選挙区である旧群馬3区では「[[上州戦争]]」と呼ばれるほど[[中曽根康弘]]と激しいトップ当選争いを繰り広げたが、毎回福田が圧勝。中曽根が首相在任時でも、福田の得票数の方が勝っていた(通算成績・福田の11勝3敗)。1995年(平成7年)7月5日、肺気腫で死去。{{没年齢|1905|1|14|1995|7|5}}。 [[Image:福田と鄧小平.jpg|thumb||300px|1978年10月23日夜、福田赳夫首相と三枝夫人は首相官邸で晩餐会を開き、[[鄧小平]]副総理一行を歓迎。この席で、鄧小平副総理は「中日平和友好条約では、中日両国は覇権を求めず、同時に、いかなるその他の国家または国家集団がこのような覇権を確立しようとする努力にも反対する、と規定されている。これは国際条約ではひとつの創意に富んだ偉大な試みである」と述べた]] ==年譜== *旧制高崎中学校(現・[[群馬県立高崎高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]]入学 *[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]卒業後、[[大蔵省]]に入省 *[[1945年]]9月 - 官房長<ref>『回顧九十年』 65頁 - 官房長兼秘書課長兼大臣秘書官、それに[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]と折衝する終戦連絡部長をも兼ねた</ref> *[[1946年]]7月 - 銀行局長 *[[1947年]]9月 - 主計局長 *[[1948年]]9月 - [[昭電疑獄]]との関連を疑われて[[逮捕]]される<ref>『回顧九十年』 84-85頁に福田は「贈賄側で逮捕された[[昭和電工]]の当時の社長[[日野原節三]]氏が私の一高、東大の先輩で懇意だったことから、昭和電工への融資に特別の便宜を図ったという理由で私もこの事件に巻き込まれた。ただしこれは[[検察]]の全くのデッチ上げであり、判決では“[[検事]]の所論はまさにかの[[サギ|鷺]]を[[カラス]]と言いくるめる論法に似たものと評すべきであろうか”として私自身の潔白は明快に証明された。」と記している</ref> *[[1950年]]11月 - 退官 *[[1952年]]10月 - 無所属で立候補し衆議院議員に初当選 *[[1958年]]6月 - 党政調会長 11月 - [[昭和電工事件|昭電事件]]につき東京高裁が無罪判決(確定) *[[1959年]]1月 - 党幹事長 6月 - [[農林大臣]]に就任 *[[1960年]]12月 - 党政調会長 *[[1965年]]6月 - 大蔵大臣に就任 *[[1967年]]2月 - 党幹事長(二度目) *[[1968年]]11月 - 大蔵大臣に就任 *[[1971年]]7月 - 外務大臣に就任 *[[1972年]]7月 - 自民党総裁選挙で[[田中角栄]]に破れる *[[1973年]]11月 - 大蔵大臣に就任 *[[1974年]]12月 - [[副総理]]・[[経済企画庁|経済企画庁長官]]に就任 *[[1976年]]12月 - 第67代[[内閣総理大臣]]に就任 *[[1978年]]12月 - 内閣総理大臣を辞任 *[[1979年]]1月 - 新派閥[[清和会]]旗揚げし[[赤坂プリンスホテル]]に事務局を置く *[[1986年]]7月 - 派閥を[[安倍晋太郎]]に譲り、福田派会長を辞任 *[[1990年]]2月 - 政界を引退 *[[1995年]][[7月5日]] - 慢性[[肺気腫]]のため死去 {{没年齢|1905|1|14|1995|7|5}}。 ==政見・政策== ===政治理念=== *「協調と連帯」 *「政治は最高の道徳」 [[岸信介]]の流れを汲み、「[[タカ派]]」と評されることが多い。 ===経済=== *均衡財政志向の安定経済成長論を主張。 *国際的に、黒字過剰問題の解決のために、内需主導型の経済運営による輸入を拡大など、市場の開放に努めるべきとした<ref name="k19780121">[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/084/0001/08401210001003c.html 第084回国会 本会議 第3号] 昭和53年([[1978年]])1月21日 </ref>。 *[[1965年]]、大蔵大臣として、不況による税収不足への解決策として、日本において初めて[[日本国債|国債]]([[赤字国債]]、当時で2千億円)を発行する。 ===外交=== *外交理念として「全方位平和外交」を提唱。 *アジア諸国との連帯を目指し「福田ドクトリン」を提唱。 *[[中華人民共和国]]との関係について、「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」という旨の見解を述べた<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/085/0110/08510160110003c.html 第085回国会 外務委員会 第3号] 昭和53年([[1978年]])10月16日</ref><ref name="k19781018">[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/085/1110/08510181110005c.html 第085回国会 外務委員会 第5号] 昭和53年([[1978年]])10月18日</ref>。 *日韓両国に隣接する大陸棚の北部の境界の画定や大陸棚の南部の共同開発を定めた「[[日韓大陸棚協定]]」を批准。 ===歴史認識=== * 1978年の[[終戦の日|終戦記念日]]に[[靖国神社]]を参拝。「内閣総理大臣」と記帳し、「私的参拝」であるとした<ref>『[[朝日新聞]]』(1977年4月21日付)</ref>。以降1978年まで4回参拝。 ==関係する人物や団体== *統一教会・[[国際勝共連合]] :大蔵大臣在任中だった[[1974年]][[5月7日]]に、東京の[[帝国ホテル]]で開かれた、統一教会(統一協会)([[世界基督教統一神霊協会]])の教祖、[[文鮮明]]の講演会「『希望の日』晩餐会」(名誉実行委員長は[[岸信介]]元総理)に同僚議員の誘いで参加し、「アジアの偉大な指導者」と[[文鮮明]]を賛美し([[世界基督教統一神霊協会|統一協会]]のサイト[http://www.chojin.com/person/jp.htm]、韓国式の抱擁を交わした([http://www.chojin.com/history/fukudat.htm 当時の写真])。様々な社会問題で批判のあった統一教会に賛同を示すことに問題はないのかなど、国会でも度々追及を受けたが、福田は「文鮮明の思想はよく知らないが、自分の日頃主張する“協調と連帯”という考えを述べていたのでよかったと感想を言っただけ」、「パーティーや宴会ではちょっと輪をかけて話すんです。そのような環境のもとにおいて話したことで、そんなものを一々取り上げてそれを御質問されても、お答えすることはできない。」という旨の弁明をした<ref name="k19770512">[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/084/0410/08405120410011c.html 第084回国会 衆議院 決算委員会11号] 昭和53([[1977年]])5月12日</ref>そして、福田は発言の内容について、「当時の記録がございますからよくごらんください」と述べていたが、衆議院の法務委員会で[[日本社会党]]の西宮弘が資料を要求したら、上村委員長からあいさつだから、原稿なしでやったのだから、記録があるはずがないという趣旨の報告がなされた<ref name="k19770406">[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/080/0080/08004060080008c.html 第80回 衆議院 法務委員会-8号] 昭和52(1977年)年4月6日</ref>。 :勝共連合については国会で「勝共連合が反共を旗印にしておる、そういう点に着目いたしまして自由民主党と勝共連合が協力的側面を持っておったということは、これは御理解願えると思う」、「余り勝共連合の中身につきましては承知しませんけれども、共産主義反対というたてまえについて共感を覚えている」と述べ、勝共連合の外国為替法違反や詐欺に該当するような資金獲得活動などの反社会的な問題を指摘された際は「そう悪いことを一般的にしておるというような認識でございませんので、一般的に調査するということは考えません。」と答弁。関係を断ったらどうかとの問いには「勝共連合についていままで持っておる認識に立つと、手を切るというような問題は起こり得ざることである。」旨の見解を述べた<ref name="k19780403">第084回国会 予算委員会 第23号 昭和53年([[1978年]])4月3日</ref>。 *[[児玉誉士夫]]らと並ぶ「戦後最大級の[[フィクサー]]」と称された[[大谷貴義]]との親交が深く、「福田の影に大谷あり」と言われた。政財界とアンダーグラウンドの世界に隠然たる力をもち、[[裏千家]]とも姻戚関係にあった大谷は、福田を首相にすべく、毎年[[代々木上原]]の千坪の豪邸に政財界の要人を招き、茶会を催していた。大谷の長女享子が、裏千家14世千宗室の子息・巳津彦と結婚した際には、作家の[[吉川英治]]夫妻と共に、福田夫妻が媒酌人を務めた。また、1991年5月に大谷が逝去した際には、葬儀委員長も務めている。 *WWF(現[[WWE]])格闘技世界ヘビー級チャンピオン[[アントニオ猪木]]を公私に渡り可愛がり、自身が媒酌人を務めた[[堤義明]]が経営する[[プロ野球]]球団、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の初代名誉会長にも就任し1979年4月[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]]初の公式戦で始球式を担当するなどプロスポーツ界との縁も深かった。 *[[1987年]]に、外務大臣秘書官だった[[安倍晋三]]と[[電通]]社員の[[安倍昭恵|松崎昭恵]]の媒酌人を務めた。 *[[1989年]]に、元[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中将]]の[[鈴木貞一]]が亡くなった際の葬儀委員長を務めた。 == 栄典 == *平成7年7月5日:[[正二位]]、[[大勲位菊花大綬章]] == 家族・親族 == *父 福田善治(政治家・元金古町長) *兄 平四郎(政治家・元金古町長) *弟 [[福田宏一|宏一]](政治家) *妻 三枝(群馬県,新井文夫三女、元[[大審院]]判事[[新井善教]]の孫娘)<ref>『回顧九十年』 31-32頁によると、妻三枝は群馬県原町(現[[東吾妻町]])出身の新井文夫([[足尾銅山]]の技師)の三女で、三枝の兄が福田と高崎中学の同窓で仲がよく、福田が東京の学校へ通うようになった頃から、三枝との付き合いが始まったという</ref> *長男 [[福田康夫|康夫]](会社員、政治家・[[内閣総理大臣|首相]]) *長女 和子(官僚、政治家[[越智通雄]]に嫁する) *次男 征夫(群馬県,[[伊香保温泉]]横手館へ養子入り)<ref>[http://www.yokotekan.com ようこそ伊香保温泉横手館へ]</ref> *孫 [[越智隆雄]](銀行員、政治家) [[福田達夫]](総理大臣政務秘書官) など *その他の親戚 [[櫻内幸雄]](実業家、政治家) [[櫻内乾雄]](実業家・元[[中国電力]]会長) [[櫻内義雄]](政治家・元衆議院議長)など 親子二代の首相就任は、史上初めての例となった。 == 系譜 == * [[福田氏]] <pre>  太田清蔵━━━太田清之助           ┣━━━太田誠一       ┏━━俊子       ┃       ┣櫻内乾雄 ┏櫻内幸雄━┫ ┃     ┣櫻内義雄 ┗櫻内辰郎 ┃        斎藤明       ┗━━淑子     ┃           ┃   ┏富佐子           ┃   ┃         嶺駒夫━━━┻貴代子                 ┃              ┏福田康夫              ┃       ┏福田平四郎 ┣和子       ┃      ┃ ┃  福田善治━╋福田赳夫━━┫越智通雄       ┃      ┃       ┗福田宏一  ┣横手征夫━横手信一              ┃      ┃              ┗玲子   千野志麻               ┃              松谷明彦 </pre> == 参考文献 == *福田赳夫 『回顧九十年』 岩波書店 1995年 *神一行 『閨閥 改定新版 {{Small|特権階級の盛衰の系譜}}』 角川文庫 2002年 108-123頁 ==関連項目== *[[群馬県出身の人物一覧]] *[[福田氏]] *[[伊藤昌哉]] *[[福田赳夫内閣改造内閣]] *[[角福戦争]] *[[国民栄誉賞]](福田内閣時に創設) *[[インター・アクション・カウンシル]] *[[アホロートル|ウーパールーパー]]<ref>1980年代のブームの際、福田が飼育していることを知ったマスコミが度々取材に訪れた</ref> *[[上州戦争]] *[[三角大福]] *[[自由民主党総裁]] *[[自由民主党幹事長]] *[[モンペルラン・ソサイエティー]]<ref>かつて福田が所属した[[新自由主義]]者の集まり</ref> == 脚註 == <div style="font-size: 90%;"><references /></div> ==外部リンク== *[http://www.seiwaken.jp/ 清和政策研究会・公式サイト] *[http://ehistory.korea.kr/pop/movie_pop.jsp?srcgbn=KV&mediaid=10210&mediadtl=21285&gbn=DH&quality=W 福田赳夫元首相訪韓(1979年)] {{Start box}} {{S-off}} {{Succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]] | before = [[三木武夫]] | years = 第67代:1976年 - 1978年 | after = [[大平正芳]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[国務大臣]]([[副総理]]) | before = [[三木武夫]] | years = 1974年 - 1976年 | after = [[伊東正義]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[経済企画庁長官]] | before = [[倉成正]] | years = 第26代:1974年 - 1976年 | after = [[野田卯一]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[行政管理庁長官]] | before = [[浜野清吾]] | years = 第36代:1972年 - 1973年 | after = [[保利茂]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] | before = [[愛知揆一]] | years = 第99代:1971年 - 1972年 | after = [[大平正芳]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[大蔵大臣]] | before = [[田中角栄]]<br />[[水田三喜男]]<br />[[田中角栄]] | years = 第68代:1965年 - 1966年<br />第70代:1968年 - 1971年<br />第75代:1973年 - 1974年 | after = [[水田三喜男]]<br />[[水田三喜男]]<br />[[大平正芳]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|日本}} [[農林大臣]] | before = [[三浦一雄]] | years = 第27代:1959年 - 1960年 | after = [[南条徳男]] }} {{S-ppo}} {{Succession box | title = [[自由民主党総裁]] | before = [[三木武夫]] | years 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