麻布中学校・高等学校

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麻布中学校・高等学校(あざぶちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都港区元麻布二丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校高等学校。高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校である。開校以来、多くの著名な卒業生を輩出し、自由な校風で知られる。

概要

設置者は学校法人麻布学園。所在地は東京都港区元麻布で、東京メトロ日比谷線広尾駅徒歩10分。

1895年江原素六により麻布尋常中学校として創立。1900年麻布中学校と改称し、現在の校地に移転する。1947年の新制中学校発足、1948年の新制高等学校発足を経て、現在に至る。

戦後の新学制が始まって以降、一度も東京大学合格者数で上位10傑から漏れたことがない全国で唯一の学校である。しかも、受験競争に偏しない学術的で高度な授業内容・自由闊達な校風を旨とし、政財界から芸能の世界に至るまで幅広く人材・異才を送り出してきた。このためマスメディアに取り上げられることも多い。

標準服と称した制服があるが着用する機会は少なく、校則が全くない校風が特徴である。

交通アクセス

沿革

全て月日が付属しない年表示は年度である。1995年までは『麻布学園の一〇〇年』による。

戦前

  • 1895年 - 江原素六により東洋英和学校内に東洋英和学校内尋常中学部を創立し、同年私立麻布尋常中学校と改称。
  • 1899年 - 麻布中学校と改称。
  • 1900年 - 現在の立地に新校舎が落成し、移転。
  • 1901年 - 集成館を創立。旧制中学第一学年を主に収容し進学時に麻布中学校に編入させ、麻布中学校の定員超過を名目上解消することを目的とした。
  • 1903年 - 債権整理のため組織を麻布中学校財団法人として財団法人化する。
  • 1912年 - 人数超過の解消と法の改正に伴い集成館を廃止。
  • 1922年 - 江原素六死去。2代校長に清水由松が就任。
  • 1924年 - 麻布中等夜間学校開校。
  • 1926年 - 山中湖畔の土地を学校用地として買収。翌年洗心寮建設。
  • 1930年から1931年頃 - 校歌制定。現在のものと併せて3番まで。
  • 1931年 - 現在の普通教室が入っている"ロ"の字型の校舎のうち、学園のホームページに掲載されている絵に写る塔を中心とした2辺が完成。
  • 1932年 - 麻布中等夜間学校麻布夜間中学へ変更。5か年制。
  • 1935年 - 創立40周年を記念してプール落成。
    • 現在の多摩川運動場に農場と運動場を開設。
  • 1937年 - 校舎増築。現在のロの字校舎の中学1年1組がある辺が増築。現在の講堂がある場所に江原先生記念成毛講堂が落成。
  • 1941年 - 校友会を改編して麻布中学校報国団結団。
  • 1942年 - 清水由松が名誉校長になり、細川潤一郎が校長に就任。
  • 1944年 - 学級名をアルファベットから数字へ変更。

戦後 - 1960年代

  • 1945年 - 校友会組織。第1回運動会開催。
  • 1946年 - 自治委員会組織。
  • 1947年
    • 新学制によって麻布中学校発足。
    • 5月23日から5月25日 - 第1回文化祭。
  • 1948年 -
    • 麻布高等学校が発足し旧制中学4・5年を切り離す。麻布夜間中学麻布定時制高等学校として発足。
    • 麻布民主化同盟が檄文を教室に貼り付ける事件が発生。
  • 1949年
    • 1月 - 日本共産党麻布学園細胞が結成宣言。『民主学園』を発行するといった活動を行った。
    • 法改正に伴い麻布中学校財団法人学校法人麻布学園に変更。
  • 1950年
    • 清水名誉校長死去。清水由松の誕生日の5月16日を創立記念日とする。江原記念日を5月20日とする。
    • 校友会・自治会(自治委員会)を改編して生徒協議会結成。
    • 職員の反対を生徒協議会の要望が覆して文化祭開催。しかし、以後3年開催せず。
  • 1951年 - 生徒協議会と教師との折衝の後9月に文化祭開催。しかし、以後2年間は開催せず。
  • 1954年
  • 1956年 - 現在の100周年記念棟の場所に新館と呼ばれる校舎が建設。
  • 1957年 - 定時制廃止。
  • 1961年
    • 多摩川農園を廃止。
    • 体育館の改築に伴い国立競技場で運動会開催。
  • 1962年
    • 現在の柔剣道場付き体育館が落成。
    • 多摩川農園を多摩川運動場として整備。
    • 麻布学園同窓会設立。
  • 1965年 - 国立競技場にて創立70周年記念大運動会。
  • 1966年 - 70周年記念新校舎落成。現在の芸術棟。新館が増築により生徒会館と呼ばれる。
  • 1967年 - 細川校長辞任、藤瀬五郎が新校長に就任。
  • 1968年 - この年度の卒業式より校歌3番廃止。
  • 1969年9月26日 - 無届の反戦集会が中庭で行われたことに対して、学園紛争が始まったと解釈せざるを得ないとする。1968年度終了までを第一次学園紛争と呼ぶ。

1970年代

  • 1970年
    • 1月10日 - 乱入者多数にて始業式中止。
    • 2月10日 - ニ・一一闘争統一実行委員会が中庭使用届けを出すが校長が拒否。話し合いの場で校長を拘束。
    • 2月20日 - 統実委が釈明を行わない校長に対して校長室を占拠。統実委校長室占拠事件
    • 3月9日から3月12日 - 生徒会・職員・統実委と生徒による全校集会で和解案が採択される。
    • 3月18日から - 授業改革全校集会にて改革案を作成し、採択。
    • 藤瀬校長辞任、山内一郎が校長代行として赴任。山内代行は教職員経験がなかったため校長になれず、校長代行となった。第一次学園紛争での藤瀬校長と生徒間の和解案を全て破棄。この後の一連の紛争を第二次学園紛争と呼ぶ。
    • 理事会が山中湖畔の校地売却を承認。
    • 文化祭において討論会が山内代行によって中止される。それに対する暴動により文化祭切り上げ。
    • 成毛講堂・相模湖遭難記念館取り壊し。
  • 1971年
    • 文化祭は取り壊し工事を避けるため秋に開催。
    • 10月3日 - 文化祭2日目に武装突撃隊が第一次学園紛争時の和解案の復帰を求めて突入。山内代行の導入した警備員が応酬。後に山内代行の決断で機動隊が導入され、生徒と突撃隊が学外へ排除される。
    • 10月5日 - 討論会。代行の退去勧告に対し座り込みを行った生徒に対し再度機動隊導入。
    • 10月6日 - 山内打倒共闘会議結成。
    • 10月7日 - 山内代行がロックアウト開始。義務教育である中学校も含めたロックアウトは全国初。
    • 11月13日 - ロックアウト解除。全校集会1日目。
    • 11月15日 - 全校集会2日目運動場で雨中にも関わらず開催。生徒1名の逮捕に激発した生徒に囲まれて、16時58分に代行は退陣を表明し、17時32分に署名。
  • 1972年
    • 海野昌平が校長に就任。
    • 山内前代行が逮捕、起訴される。
  • 1973年
    • 2月14日 - 全校集会にて海野理事長は授業料・入学金・施設費の値上げの白紙撤回を確認。
    • 3月1日 - 全校集会にて山内前代行の残した負債を理事会が補填する事を認めるまで生徒がストライキに入ることを決議。
    • 3月2日 - 教員も同様の要求を採択。
    • 3月5日 - 理事会が要求を認める。
    • 3月16日 - ストライキ解除。
  • 1973年
    • 7月8日 - 学費値上げ撤回を求めて高校生が校長室を占拠、バリケード封鎖。
    • 7月13日 - 校長室の封鎖解除。
    • PTA発足。
    • サークル連合発足。
    • 現講堂と教員棟が完成。現在の"ロ"の字校舎の全面が完成。
    • 学園が山内前代行を民事で提訴。
  • 1974年 - 理事会の理事長と校長の分離決議に従い大賀毅が校長に就任。
  • 1975年
    • 文化祭公金横領事件。広告収入を禁止。
    • 6年ぶりに運動会開催。
  • 1976年 - 予算委員会設立。
  • 1978年 - 全国高校野球選手権大会の東東京予選で、対戦相手の東京都立小山台高等学校に対し、学園側応援席から「落ちこぼれ」「バーカ」「悔しかったら東大へこい」の野次が飛ぶ事件が発生し、学園への非難がマスメディアを賑わす。これに対して『麻布学園新聞』10月号は 「 『ひどい』、『下品だ』というような評があったが、それはそのとおりである。しかし、『あんたらの気持ちはお見とおしだよ』という感じで決めつけられるとは非常に心外である。『野次』は『野次』であって、それ以上の何物でもなく、その内容をうんぬんする種類のものではない。マスコミは自らが作った虚像が何か事を起こすと、『われ先に』と取り上げ紙上をにぎわすのが得意である」と論評。これに対してさらに『朝日新聞』を中心とする学園批判キャンペーンが起きた。

1980年代以降

  • 1981年
    • 山内一郎前代行の上告が棄却。懲役5年が確定。
    • 校内飲酒事件に対して調査委員会設立が全校投票によって承認。
    • 山内事件に対して民事判決が下る。両者控訴せず、学園側の要求がほぼ通り確定。
  • 1983年
    • 予算委員会がサークル連合解散要求宣言を全会一致で採択。サークル連合解散。
    • 全校投票にて「広告収入に関する新規約」を承認するが、実際には広告は取らず。
  • 1984年 - 新サークル連合発足。
  • 1986年 - 全校投票により年度末をもって新聞会が自治団体からサークルへ格下げ。
  • 1989年 - 全校投票により「生徒活動費値上げ案」を承認。
  • 1992年 - 大賀校長退任、根岸隆尾が校長に就任。
  • 1993年 - 生徒会館を取り壊す。
  • 1995年
    • 生徒会館の跡地に100周年記念会館が竣工。『麻布学園の一〇〇年』が刊行。
    • 地下鉄サリン事件は終業式日であり、目撃者多数も死者はなし。
  • 1998年 - 一部生徒の悪質な行為により、生徒に開放されていた屋上が閉鎖される。
  • 2000年
    • 日比谷線脱線事故で高2(当時)の生徒が登校中に巻き込まれ死亡。
    • 屋上が昼休みに限り開放される。
  • 2004年 - 根岸校長退任、氷上信廣が校長に就任。
  • 2006年 - 地下食堂が改築拡張、家庭科室が新設された。
  • 2007年 - 一部生徒の飲酒により、運動会が中止となる。
  • 2013年
    • 氷上校長退任、平秀明が校長に就任。
    • 一部生徒の度重なる不祥事により、運動会が中止となる。
  • 2015年春 - 新体育館が完成する予定。

校風

校風は自由闊達

特徴としては、高校からの募集をしない完全中高一貫教育であること、男子校であること、校則がないこと、自主・自立の校風の下で学園生活の大部分が生徒達の裁量に委ねられていることなどが挙げられる。そのため、服装だけでなく頭髪や装飾品に関しても全て生徒自身に判断が委ねられている。 1学年約300名・7学級[1]。学園関係者は、中学1・2・3年生を英語で中学を意味する middle school より M1・2・3、高校1・2・3年生を high school より H1・2・3 と呼ぶこともある。

学習内容

授業は中高一貫教育の利点を生かして高校1年生の段階で高校2年生までの単元をすべて消化し、その後それぞれの志望大学に向けて選択授業制となる。

麻布の教育では、入試から卒業まで一貫して文章などを「書く」ことに力を入れている。定期試験や実力試験では記述問題が目立ち、論文を要求される科目も多い。たとえば、現代文の授業では物語文の要約、中学卒業時には卒業論文、高校1年次には個人で修了論文の提出が要求される。

中学校の社会科教育においては、第1学年に「世界」という系統分野横断科目が設置されている。「世界」の授業内容は「世界地理・世界史および政治・経済」にまたがっている。

高校2年の段階から理科と社会が選択制になり、理科は化学・物理・生物・地学のうち2科目、社会科は日本史・地理のうち1科目、世界史・倫理・政経のうちの1科目での合計2科目を選択する。そのため理系文系混合学級では移動が激しくなる。

通常高校3年は芸術科目は設置されないが、芸術志望の生徒の希望により7・8時間目に芸術の科目が設置される。

週休2日制は導入されたことがなく、現在も土曜日は午前中のみの高校生は4時間授業、中学生は3時間授業となっている。2004年度からの学習計画改訂を機に、中学3年から高校2年までを対象とした「特別授業」が3・4時間目に設置された。様々な授業群の中から、自分が関心を持つ題材の授業を前期・後期1つずつ選択して学習する。2007年度からは対象を高校1・2年とし「教養総合」とした。講師は学園教員に限らず、最先端の研究者が訪れることもしばしばある。開設される講座は毎年度変わるが、ラテン語入門、量子化学入門、相対性理論入門などといった大学教養レベル以上のものや運動に専念するもの、社会情勢を考えるもの、日本文化を考えるものなど様々である。土曜日の午後は多くがサークルの活動時間となる。

また、中学3年では小説に対応した「卒業論文」を3人から5人で執筆する。対象作品は森鴎外ドストエフスキー太宰治安部公房村上春樹サリンジャーのように様々である。

そして高校1年で「社会科基礎課程修了論文」と称し、社会科の学習をすべて修了したという意味で社会科に関する事柄を論じる。

論集

論集は生徒が書いた様々な文章を掲載する冊子であり、年に1度発行される。レポートで集めた文章から良質な文章を掲載するもの、生徒自身が論集に投稿するものがある。別冊が付随することもあるが、おおよそ300頁から500頁ほどの冊子である。

年間行事

  • 5月:文化祭(2011年は6月、2012年と2013年は4月)・江原素六墓前祭
  • 10月:学年行事
    • 中学1年:江原素六初代校長の墓参
    • 中学2年:日帰り旅行
    • 中学3年:2泊3日で、一般的な修学旅行で訪れる数箇所に旅行する。
    • 高校1年:社会見学として観劇・マスコミ見学や都内ポイントハンティングなどが行われる。
    • 高校2年:3泊4日修学旅行として国外と国内から数か所に分かれて旅行する。
    • 高校3年:観劇や魚釣り・スポーツなどを行う。
  • 10月:運動会
  • 2月:入学試験

生徒活動

  • 委員長などの代表者が生徒の間接選挙で選ばれる組織
    • 予算委員会:学級ごとの予算委員による間接選挙
    • 選挙管理委員会(選管):学級ごとの選挙管理委員による間接選挙
    • サークル連合(サー連):サークルごとの代表者による間接選挙
  • 実行委員長および会計局長が生徒の直接選挙で選ばれる組織
    • 文化祭実行委員会(文実)
    • 運動会実行委員会(運実)
  • 有志の生徒によって行われている組織
    • 図書委員会

麻布には一般の学校で言う生徒会というものがなく、複数の自治機関が並列に存在している。なお、予算委員会は生徒会設立への過渡的な組織として発足したが、現在は三権分立を基軸とした自治改革が行われている。主な自治機関は、予算委員会・選挙管理委員会・サークル連合・文化祭実行委員会・運動会実行委員会の5つであり、それぞれに代表者がいる。なお、前者3機関の代表者は間接選挙、後者2機関は直接選挙で生徒に信任される。前者3機関は、各機関の規約に基づき毎年度組織され、運営される。後者2機関には規約は存在しなかったが、2013年5月に恒久的な規約が制定された。

また、運営される全ての組織は教師の監査や干渉がほとんどない。教師側は生徒委員会を作っており、その主任が最低限の監査と生徒からの相談を受け付けている。教員側の決定と生徒側の決定が衝突することはあっても、生徒側の意思決定過程に教員が直接介入することはない。

文化祭

かつては毎年5月に、生徒主導で行われ、毎年3日間で3万人近い入場者数を記録した、学園の一大行事である。文実によって企画・運営される。前年度10月の運動会が終わった頃に委員長・会計局長を選出する選挙が行われ、決定するとそのペアが各部門の部門長を面接して文実を結成することが多い。これは委員長と会計局長の方針に手決まる。立候補者は高校1年生(新高2年生)がほとんどである。予算は700万~900万円規模に上り、生徒の手で管理される。

文化祭でのそれぞれの出し物を展示と呼ぶ。展示は、主に研究展示と娯楽展示に分かれる。研究展示は文化部に多く、それぞれのサークルの活動を報告したり、文化祭に向けて作成してきた作業を発表する展示が多い。娯楽展示は、来校者を楽しませるべく飲食・お化け屋敷などのの企画を実施する展示が多い。

とくに研究展示で顕著であるが、来校者の投票による「展示大賞」の獲得を目標とする展示が多い。その他、種類は年によって左右するが、研究展示賞・娯楽展示賞・有志展示賞・校長賞などが存在する。来校者のうちの多数を占める小学生とその保護者が楽しみやすい展示が展示大賞を取ることが多い。麻布パーソナルコンピュータ研究会・物理部無線班・生物部・化学部などが過去に賞を受賞している。

各部活が展示を出す他、有志団体による展示も手厚く支援され、友達同士で飲食・娯楽・研究展示を出す生徒も多い。学級による展示はない。近年は主にコアな趣味の部類の研究展示などで、一教室は借り切れないが展示はしたいという人を支援するために作られたフロンティア部門が常設になり、体育館でそれらの展示が行われる。また、2010年からは半教室制が導入され、教室の半分を使った小規模な展示も行うようになった。これらは主催で分けると部活展示・有志展示に、目的で分けると飲食展示・研究展示に分けることができる。

2005年の文化祭では飲食展示で食中毒事件を起こし、教員の指示の元で急遽全ての食べ物の販売を停止した。また、この影響でこの年の運動会では、接待部門(現・飲食部門)はその場で調理をする食事の提供が禁止され、業者の調理パンを事前の学内の購入希望者に対し定数販売するのみで来校者への販売は無しという方式を採った。

2006年の文化祭では飲食部門の調理は復活したものの、展示団体のいわゆる飲食展示はほとんど行われなかった。

文実の各部門は以下の通り。

  • 総務局 - 全体の包括的な仕事を行う。
  • 会計局 - 文化祭における予算の配分を行う。
  • 運営部門 - ごみの回収分別、受付や本部インフォメーションの管理など、来場者向けの業務を行う。
  • 統制部門 - 警備をするほか、中庭に設置されたステージでの企画部門のイベントに一部参加する。
  • 飲食部門 - 飲食物の調理、販売を行う。又、飲食展示の衛生管理とサポート、統括を担当。
  • フロンティア部門 - 2000年 に創設され、体育館における小規模な展示の受付と支援を行う。
  • 美術部門 - 文化祭に使われる巨大な絵画を製作する。正門の絵画群や中庭舞台をすべて製作する。
  • 行事部門 - 中庭、講堂でのイベントの企画、実行をする。
  • 展示部門 - 教室、実験室等を用いた中~大規模展示の受付と支援を行う。

また、過去には「相談部門」があった。 2004年に文実と一般生徒との確執が強まった結果、溝を埋めるために作られた。しかし、抽象的な活動を行うため、規模を縮小するよう総務局に指示され、廃止された。

運動会

文化祭に比べて校外からの来場者数は少ない。運実によって企画、運営される。文化祭が終わるとすぐに委員長・会計局長を選出する選挙を行い、文実と同じ手順で運実を結成する。普通高校2年生のペアが立候補するが、しばしば高校1年生や高校3年生の候補も現れる。

過去には校庭改修工事により夢の島競技場を借りて運動会を実施したことがあった。また、2014年の運動会も学園外で行われる。2007年は運動会を行わなかった。さらに、2013年9月18日に、度重なる不祥事のため運動会を中止することが決定され、同年の運動会は中止となった。

特色の一つとして、周辺の公道の使用許可を取り事前に希望した生徒が数kmを走る、ロードレースという競技がある。ただ、2008年は教員主導で運動会を行ったためにロードレースはやらず、2009年は中止になり、教員からの差し止めや生徒自身で行わないことを決めるなどして2012年まで校内マラソンという形になっている。また、徒競走はない。学級対抗の縦割りによる応援団が結成されエール交換を行う。

運実の各部門は以下の通り。文実の項に無いものを挙げる。

  • 企画部門 - 過去の競技の改良や新競技の発案を行う。相次ぐ不祥事のため2013年に廃止された。
  • 審判部門 - 企画部門の作成した競技に応じてルールを制定し、当日の競技の審判を担当する。
  • 保健部門 - 怪我をした生徒や来校者の治療をする。

また、正確には部門ではないがそれに準ずるものとして応援団がある。

  • 応援団 - 学級ごとに縦割りで組織され、競技直前に掛け声をかけて士気を上げ、競技の作戦を決めたりエール交換でダンスをする。

なお、2013年に発生した一部生徒の不祥事による運動会中止を受け、2014年運動会より運実に代わる実行母体として運動会執行委員会(以後執行委員会)が設置された。 執行委員会は、各クラスより選出された執行委員によって構成され、運動会に関する会議・実務などを行う。各執行委員は局に属し、各局において実務を行う。

執行委員会の各局は以下の通り。前述の文実・運実と名称や実務内容が同じものも挙げる。

  • 事務局 - 執行委員会全体の包括的な仕事を行う。また、広報も行う。
  • 会計局 - 予算の配分や運動会グッズの販売などを行う。
  • 会場局 - 運動会会場の整備・警備などを行う。前述の企画部門が行っていた実務も行う。
  • 運営局 - 美術品の制作や、保健業務などを行う。
  • 審判局 - 運動会競技における安全の確保を行う。
  • 競技作成局 - 運動会競技の作成を行う。

予算委員会

全校生徒から集められる1300万円の生徒活動費を、管理・分配する委員会。中1から高2までの各学級から正副の2名が選ばれる。内部には議長団と事務局という機関があり、毎年度最初に行われる本会議で議長団の構成員として議長・副議長・書記2名が、事務局の構成員として事務局長・副事務局長・事務局員が予算委員の中から選出される。

また、一定の条件を満たせば誰でも予算委員会に書類を提出し、本会議および学級決議での過半数以上賛成の認可を受けて「予算委員会予算被配分特別団体」として、予算委員会を経て生徒活動費から予算を得て活動することができる。この制度を利用して有志文集を作るという活動が行われたり、「麻布自治を考える会」が何度かビラを配り、会合を行ったりした。ここから自治連盟発足の流れが生まれた。

選挙管理委員会

少なくとも年2回行われる選挙を管轄する団体。選挙団体は選挙管理委員会から支給される選挙費用を使って学園にポスターが貼られる。学校側が選挙のために時間を割くのは投票時だけであり、しばしば討論会が開かれるが、これも昼休みや放課後に行われる。

選挙管理委員会規約には、一定数の生徒の署名に応じて、あらゆる規約に対して上位決定権を持つ「全校投票」を行わなくてはいけないという項目がある。この制度を利用して、文実・運実の文集の予算削減を求める「文集選挙」が行われた。これには、以下のような理由があった。

  • 予算案に対し全面賛成か全面否定しかできないという欠点のため、文実運実予算内の高額な文集予算の削減を予算委員会経由では主張できない。
  • サークル連合から各サークルへの予算分配率(サークルの請求に対してサークル連合が払う額の割合)が年々低下しており、文実・運実の予算を削減して各サークルに回すべき。

サークル連合

加盟する各サークルのサークル連合担当等から構成される団体。サークル活動による予算申請は全てサークル連合を通して行われる。議決権はサークル単位で存在する。3学年以上にわたる7人以上の生徒と最低1人の顧問がおり、部員定数を揃えた活動はサークルとして認定される。顧問就任を要請する段階で教員による「活動が学内公認活動に値するか」というチェックはされるものの、それが満たされれば、予算配分などはサークル連合を主体とした生徒に任されているため、教員はあまりかかわらない。

サークル

いくつかのサークルを挙げる。

  • アーチェリー部:練習は月曜日から土曜日まで放課後行われているが、部員は週に1度出席するというノルマのもとに練習している。平日は校内の数メートルの射場、土曜日は校外の遠距離が打てるアーチェリー場へ行くことが多い。試合も数多くある。
  • 麻布パーソナルコンピュータ同好会 (APCC・パー研):プログラムの開発を中心に活動する部活。先輩が講座を開き後輩に伝達する手法を取っており、BASICやC言語といった基本的な言語の習得と、Windowsや3Dライブラリ、Webプログラムのような API の習得をバランスよく行う。東京工業大学主催のスーパーコンピューティングコンテストによく出場し、何度か優勝経験も持つ。特に大会で初めてアジアからチームを招いて開催した2004年度は選抜チームを送り込んできた中国に残り3秒で僅差の逆転優勝を達成し、各メディアに大きく取り上げられた。
  • オセロ部:オセロの部活。顧問は元オセロ世界チャンピオンの英語教員の村上健九段。
  • オリエンテーリング部:中学や高校でオリエンテーリング部が存在する学校は少ない。これまで3度ジュニア世界選手権の日本代表を輩出した。
  • 将棋部:全国屈指の強豪部である。2000年にオール学生選手権団体戦で優勝。なお、この大会における高校チームの優勝はこの1度だけである。また、2000年にキリンビバレッジ主催キリンビバレッジ杯団体戦も優勝を果たしている。2001年には高校竜王戦優勝者を輩出。高校将棋選手権団体では11回優勝している(この優勝回数は過去最高である)。
  • 囲碁部:全国高校囲碁選手権大会灘高校と並び最多の優勝回数を誇る。プロ棋士石倉昇も輩出した。
  • チェス部:中学・高校でチェス部のある部は非常に少ないが、それゆえに一般棋戦に参加することが多く、好成績を上げている。卒業生で FIDE Master小島慎也は麻布在籍時に最年少日本チャンピオンとなり、現在も国内アクティブレーティング1位である。総じて部員のレベルは高く、名実共に日本トップクラスである。2006年アジア競技大会の選手として、チェス部の高校生2名が選ばれた。
  • バックギャモン部:中学・高校では全国唯一のバックギャモン専門のサークルである。2007年の BackgammonFestival における日本選手権Beginnersで優勝を果たし、2009年も準優勝と3位に入賞している。なお当サークルの在籍者ではなかったが、2009年のバックギャモン世界選手権で日本人として初めて優勝した望月正行(在学時はまだ部として存在しなかった。将棋部在籍)も同校の出身であり、たびたび指導に来ている。
  • 地歴部:1939年に「地理研究会」の名で発足して以来、70年以上の歴史を持つ。卒業後に地理歴史の分野で活躍する人もいる(中島義一、小島毅近藤成一、早乙女雅博、寺阪昭信、松澤裕作ほか)。卒業生は「よもぎ会」という会を作って活動しており、年1回開かれる総会などで現役部員と交流するときは“爺孫が共に楽しむ”雰囲気がある。
  • タッチフラッグフットボール

卒業生寄稿

「麻布とは単に『自由な学校』なのではない。『人生を自由に生きる術を伝承する学校』なのだ」ということを、拙著『中学受験 注目校の素顔 麻布中学校・高等学校』(ダイヤモンド社)の最後に書いた。

この場を借りて、その続き的なものを書こうと思う。あまりに独断と偏見に過ぎるため、市販の書籍には書くことがはばかられた麻布論である。

「自由」とは、何事も他人のせいにはできないということ。それが大変心地いい。常に自由でいると、人生における瞬間瞬間に、「今、自分はほかの誰でもない自分の人生を生きている」という緊張感と満足感を味わうことができる。だから人生が何倍にも濃密で刺激的なものとなる。麻布とはそういう自律的な人生を送るための術を授ける学校なのだと私は思う。そして私自身が、今、めいっぱいその恩恵にあずかって生きていることを感じている。ただし、「自由」とは「諸刃の剣」のようなものである。「自由」とは魅力的かつ大変危険なものなのだ。そのことは麻布関係者なら、みな承知だろう。

人類は、「魅力的だが危険なもの」を使いこなしてきた。たとえば「火」。最近では「インターネット」や「原発」というのも、「魅力的だが危険なもの」といっていいだろう。そして、人類がこれまで手にしたものの中でも最も「魅力的だが危険なもの」が「自由」であると私は思う。「動物は自由だ」という人がいるが、私は違うと思う。動物は与えられた環境の中でしか生きられない。自分で生き方を選ぶ自由をもっていない。

だがしかし、人類は、原発同様、「自由」の取り扱い方をいまだ体得していない。世界中で「自由」に基づく「権利」がぶつかり合い、諍いが絶えないことがその証拠だ。そして麻布とは、大胆にも、人類がいまだ使いこなせていない「自由」を使いこなせる人間を育てようとしている学校だと私は思う。

江原素六は、自らが乱世の中で身につけた「人生を自由に生きる術」を青年たちに伝えていくことで、100年経っても200年経ってもいいから、みんなが自由に生きられる理想の社会を実現したいと思って、麻布を開いたに違いない。麻布とは、「人類は『自由』を使いこなせるのだろうか」という壮大なテーマに挑む実験室なのだと私は思う。麻布の教育はいわば「危険な実験」なのだ。

麻布では人類史上もっとも「魅力的だが危険なもの」である「自由」を、まず生徒たちに触らせる。初めて包丁を握った子どもを傍らで見ている親のハラハラ・ドキドキ感を想像すれば、それがどれだけ心臓に悪いことであるかがわかるのではないかと思う。そして当然ケガもする。麻布においてときどき起こるトラブルは、自由の取り扱い方を間違えたための事故であるといえるだろう。

麻布のすごいところはそこからだ。すぐに手をさしのべるのではなく、自力で立ち上がるのを待つ。これがどれだけ忍耐のいることか、自らも親となり、不惑の年を迎えた今ならわかる。このことを思うと、卒業して20年以上が経って、いまさらながら、先生たちに感謝したくなるのである。といって、私は特に不良だったわけでもない。友人のYくんや、先輩のOさんの代わりにお礼を言うのである。

ただし、麻布がそれだけおおらかに「危険な実験」を行えているのには前提がある。このことは先生たちの口からは言いづらいだろうから代わりに言う。

誰からも文句の言われることのない大学進学実績があればこそ、「危険な実験」をしていても、誰からも文句を言われないのだ。この前提がなくなれば、麻布も今のような教育を続けることは困難になるのではないかと思う。

麻布生には「大学受験なんて……」と、受験勉強をバカにすることで格好つけてみる風習があると思う。私もそのたちである。

大学進学実績や偏差値のみで学校の価値を測る雑誌への執筆はお断りしている。しかし同時に、麻布以外のいろいろな学校を取材した経験から、大学進学実績が、私学経営のアキレス腱になることもよくわかっている。どんなに高尚な理念を掲げていても、過去の栄光があったとしても、大学進学実績が低迷すると、教育の足下が揺らぎかねない。たかが大学受験、されど大学受験なのである。

「大学受験なんて……」と格好つけるのはいいが、先輩たちが残してくれた伝統の上にあぐらをかき、自分たちだけ自由を謳歌しながら、次世代に何も残せてやれないとしたら、格好が悪いだろう。それは麻布という伝統を食いつぶすことに等しい。

「放蕩息子」と呼ばれても仕方がない。「いい大学」に行くことが麻布に入学した目的ではないし、人生のゴールでもないことは言うまでもないが、麻布が麻布であり続けるために、先輩たちから受けた恩を、後輩たちに継承することは、麻布の伝統を受け継ぐ者として、最低限やらなければならない責任だろう。

その点、高2の終わりくらいまでは好き勝手なことをやっていながら、最後はちゃんと帳尻を合わせて、最低限の結果を残すことが格好いいという感覚が麻布生にはあると思う。「自由」と「勝手」は違うのだということを6年かけて学び、それを証明して卒業する。それが麻布生のスタイルである。

その結果が「戦後の新学制施行以降、一度も東大合格者数トップ10から外れたことのない唯一の学校」という実績であろう。60年以上トップ10以内にいるのに、一度も1位にはなったことがないというツメの甘さも、私には麻布らしく感じられて好きだ。

卒業20周年を記念して、地下食で開催された同窓会で、M先生と会話を交わした。友人たちが「今になって麻布がいい学校だったとつくづく思います」と口をそろえる。するとM先生は、「麻布がいい学校だってことは、君たちを見てれば一目瞭然なんだよ。君たちがそれを証明しているんだよ」と、20年前と変わらぬ、飄々とした語り口で、言ってくれた。

お約束のセリフだとわかっていてもうれしかった。そして、麻布で身につけた「人生を自由に生きる術」を駆使し、たくましく生きる仲間たちを見ていると、本当にそう思う。そして自分も彼らとともに育った仲間だと思うと、それだけで、自分に対しても自信がもてる。

「オレは、麻布で育ったんだ」

そう思うだけで、勇気が湧いてくる。まるで魔法の呪文。これが私が麻布で得た、いちばんの宝物。そしてその宝物は、時を経るごとに、私の中で、ますます輝きを増している。

大きな価値があるものは、その全体像を捉えられるだけの大きな視野をもった人にしかわからないという矛盾が、常にある。たとえば親の価値。親にいちばん世話になっているとき、その価値はわからない。子どもがある程度成長して、親という存在の全体像を捉えられるようになってはじめてその価値に気付く。ここに、大きな価値をもつものほど、その価値を明らかにするまでに時間がかかるという法則が成り立つ。教育もその類のもの。教育を受けているときにはその本当の価値はわからない。

私は麻布のたった6年間で、とてつもなく大きなものを得たのだと、やっとこのごろなってわかってきた。やっと麻布というとてつもない大きなものの全体像がおぼろげながら見えてきたのかと思う。

麻布生として、私が創造したものというのはいくら考えても思いつかない。しかし、継承したものは、両手に抱えきれないほどに大きい。

仕事柄、麻布がどんな学校だったかを聞かれることがある。そんなとき、いつも話すことがある。K先生の思い出だ。

K先生は、私の学年の持ち上がりの、柔道の先生だった。ウガンダというタレントに似ていたため、私の学年では「ウガ」というあだ名がつけられていた。屈強な肉体といかつい顔つきとは裏腹に、いつもほがらかで、やさしい先生だった。

中2の時、私と同じサッカー部のY君が、ふざけて私の頭にチューイングガムを押し付けた。髪の毛に絡まり取れなくなり、ウガがはさみで髪を切ってくれた。翌日、私はY君の頭に、弁当に入っていたイチゴを乗せ、押し付けてつぶしてやった。Y君の額をイチゴの汁が伝う。Y君も納得したように笑った。

Y君と僕は親友になった。しかし、中3の時、Y君は万引きを常習するようになった。集団で、派手に万引きし、戦果を転売し、現金化した。

たぶん「やめとけよ」くらいのことは言ったと思う。でも、「オマエもやろうぜ」という誘いを断るのが、そのときの私にできた精一杯だった。

当然いつかは捕まる。とうとうその日がやってきた。「ほら、言わんこっちゃない」。私は思った。相当の人数の友達が、捕まった。もちろんそれなりの問題にはなった。でも、停学者もなく、それぞれに反省をするということで、事態は収束していった。私も一安心した。

そのときに、どんなドラマがあったのかを知ったのは、2010年春、ウガの通夜の後だった。

焼香を済ませた後、私たち92年卒は、寺の近くの焼肉屋で食事した。ウガの死に、あまりに現実味が感じられず、普通の飲み会のようなムードで飲み交わした。場所を居酒屋に移し、続けて飲んだ。そのとき、いつもはやかましいY君が、ほろりと涙を流し、告白を始めた。

オレが万引で捕まったとき。両親が呼び出されて、面談をしたんだよ。オレはもう退学になる覚悟だった。のっけから、両親はただ、ご迷惑おかけしましたって、平謝り。うちの子が……申し訳ございません。これから厳しくしますので、どうか……。という感じ。

でも、そのときウガが言ったんだ。

「お父さん、お母さん。さきほどから、Y君のことばかりを責めますが、ちょっと待ってください。Y君が、なぜこういうことをしてしまったのか。そのことを考えましたか」

両親は、何を言われているのかまったく理解していない様子だった。

「お父さん、お母さん。Y君が、なぜこのようなことをするしかなかったのか、胸に手を当てて、よく考えてみてください」

ウガはそう言ったんだ。

「な、Y。オマエはほんとはとってもいいやつだよな。オレはよくわかってる。だから、お父さん、お母さん。もうY君を責めるのはやめてください。そして私に任せてください。Y君なら絶対に大丈夫ですから」

ウガはそう言って、その面談を終えたんだ。

今だからいえるけど、当時、オレは、「もっと勉強しなさい。○○君はもっといい成績なのに情けない」と親から叱られてばかりいた。それでストレスを抱えていたんだ。ウガはそれを見抜いたんだ。

それからウガの更正プログラムが始まった。といっても、1週間に1回、決められた時間に体育教官室に来いというだけ。そこで何をされるのかとオレは身構えていたんだけど……。

「よし、これから毎日、腕立て伏せを10回やりなさい。それをこれに記録しなさい」

ウガはそう言って、オレにノートを渡しただけだった。

オレは言われたとおりに毎日10回腕立て伏せをして、それを記録して、また1週間後、体育教官室に行った。

「よし、今週は毎日20回!」

毎回回数が増えていくけど、それだけ。そしてそれが数カ月続いた。数カ月後、いつものように体育教官室に行くと、ウガが「お、ちょっとたくましくなってきたんじゃないか」って笑うんだ。オレはそれがうれしくて、うれしくて。それだけで、本当に自信がついた。

そしたら「もう、来週から来なくていいよ」って。「もう大丈夫だろ」って。ウガのおかげで、オレは立ち直れたんだ。そうじゃなかったら、今ここにいないと思うよ。

その場には卒業後も頻繁に顔を合わせる仲のいいやつらが、8人いた。当然野郎ばかり。でも、Y君の話を聞きながら、全員が、無言で、泣いていた。あのとき、そこまでのドラマがあったということを、Y君の親友を自称する私でも知らなかったけれど、ウガなら、そういうことをしただろうということには、誰もがうなずけた。ただし、ウガが特別だったわけではない。今思えば、麻布の先生たちは僕らを本当におおらかな目で見守ってくれていた。

ウガの笑顔がもう見られないことはさみしかったし、悔しかったけれど、でもそれ以上に、みんな、感謝の気持ちに満たされていた。居酒屋の座敷席で、私たち野郎8人は、そのまま数分間、肩を震わせて泣いた。そして、恩師を思い、ともに涙を流せる仲間がいることが、私には誇らしくてしょうがなかった。

麻布らしいエピソードとして、僕はいつも、このことを話す。そして、いつも涙をこらえられなくなる。今も。

入学試験

唯一、教員のみによって行われる対外的な行事である。2月1日に入学試験を実施、2月3日に合格発表を行う。入学試験は国語・算数・社会・理科の4教科で算数と社会の間に昼食を挟んで行われる。国語・算数は試験時間60分で60点満点、社会・理科は試験時間50分40点満点である。

かつては、入試前に身体をほぐすため、受験生にラジオ体操をさせていた。今は昼休みの時間に校庭を開放しており、校庭で友達と遊び、息抜きをする受験生もいる。また、2月1日に大雪が降り交通機関が麻痺したこともあったが、受験生を可能な限り受け入れるため受験時間を大幅にずらして入試を実施した。また、以前は2月1日と2月2日の2日間で入学試験を行っていた。

中学校・高校関係者一覧

麻布中学校・高等学校の人物一覧参照

提携校

  • 保護者の転勤に伴う相互の転校生の受け入れを行う。

関連書籍

独自に麻布文庫と称して学校に関係する事柄や教師の著作物を書籍化している。「文庫」と称しているが、判型としては新書に近い。事務室で販売されている。

  • 加藤史朗 - 『江原素六の生涯』
  • 斎藤嶢 - 『銅版画家 長谷川潔』
  • 都司嘉宣 - 『地震・津波の話』
  • 松元宏 - 『メキシコ・中米一人旅』
  • 山賀進 - 『君たちの地球はどうなっているのか そして、どうなっていくのか -かけがえのない地球-』
  • 麻布学園国際交流委員会編 - 『ぼくたちは冒険する・麻布生の異文化体験記』
  • 原口宏 - 『まんぼう君 海に潜る』
  • 金昇俊 - 『ナショナリズム イデオロギー 宗教』
  • 田邊肇 - 『いきあたり ばったり -僕と「麻布の自由」の物語-』
  • 菅野正則 - 『諸葛孔明』
  • 國吉一臣 - 『異文化が消えるとき』
  • 山岡幹郎 - 『パレスチナ・グラフィティ』
  • 龍谷博 - 『英語の考え方-英語の苦手な君に-』
  • 松元宏 - 『アジアを旅する-フィリピンからインドまで-』
  • 氷上信廣 - 『汝の馬車を星に繋げ-麻布学園とともに-上・下』

関連項目

外部リンク

  • 1970年度以前は中学校は5学級で、高校は若干名を募集して6学級としていた。1971年度入学者から中学校も6学級化され、さらに2000年度に学級定数減を目的に全学年で一斉に7クラス化されて現在に至る。