大久保清
大久保 清(おおくぼ きよし、1935年1月17日 - 1976年1月22日)は、日本の連続殺人犯。1971年に画家を装い、若い女性に近づき言葉巧みに愛車に乗せ、人気のない場所で殺害し遺体は山中に埋めた。この手口で同年に8人を殺害し逮捕。1973年に死刑判決を受け1976年1月22日、死刑執行。
生い立ち
群馬県碓氷郡八幡村(現高崎市)に8人兄弟の三男に生まれる。大久保はロシア人の血を引く母親に溺愛され、成人してからも「ボクちゃん」と呼ばれ子ども扱いされていた。その一方で直ぐ上の兄とは仲が悪く、後々まで尾を引くことになった。学校での成績は余り良くなく、1946年に小学校6年生だった大久保は、幼女を麦畑に連れ込んで性器に石を詰め込むイタズラをする。
中学時代から闇屋を手伝い、一時は定時制高校に通うも除籍。東京都板橋区の電器店に住み込みで勤めるが、1952年4月に銭湯の女風呂を覗き現行犯逮捕されて店を解雇。これが大久保の最初の犯歴となった。電器店を解雇されると実家に戻り、ラジオ修理販売店「清光電器商会」を開業する。だが顧客とのトラブルがよく起きて業績が振るわなかったばかりか、1953年4月には同業者から部品を万引きして逮捕される。この時は大久保の父が損害を弁償して示談となり、不起訴処分となった。
最初の強姦事件
1955年7月12日、大久保は大学生に成りすまして伊勢崎市の17歳の女子高生を強姦。この時は初犯であった事から懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決で済んだものの、同年12月26日に再び強姦事件を起こす(ただし被害者の抵抗で未遂に終わる)。この事件で、3年6ヶ月の実刑判決を受け、刑務所に入る。
だが刑務所での大久保は模範囚であり、1959年12月15日に刑期を6ヶ月残し出所。それから半年も経たない1960年4月16日に大久保は全学連の活動家に扮し、前橋市の20歳の女子大生を自宅に連れ込んで襲い掛かったが、被害者が大声をあげて両親に見つかったため未遂に終わる。この時も示談となり不起訴処分となった。
結婚と恐喝・強姦
1962年5月に大久保は結婚、犯歴があることを妻には黙っていた。翌年には長男が生まれ、更に谷川伊凡のペンネームで詩集『頌歌』を自費出版している。その後牛乳屋を始めるが、1965年6月3日に牛乳ビン2本を盗もうとした少年の兄に押しかけ無理矢理示談書を書かせたことから、恐喝および恐喝未遂罪で逮捕された。この事件で、懲役1年・執行猶予3年の刑を受けたばかりか、自らの犯歴が妻に知られることになり牛乳屋も不振に陥る。なお、この年に長女が誕生していた。
牛乳屋が振るわなくなると大久保は新車のいすゞ・ベレットを購入し、車内にはベレー帽に原稿用紙・詩集などを置いて作家を装いながら通りすがりの女性に声をかけて強姦事件を起こすことになる。1966年12月23日に高崎市の16歳の女子高生を自動車に乗せ、車内で強姦。翌1967年2月24日にも前橋市の20歳の女子短大生を自動車に乗せ、車内で強姦。この一件から大久保は強姦致傷で逮捕され、大久保自身は合意の上での和姦を主張するも、懲役3年6ヶ月の判決を受ける。加えて恐喝事件の執行猶予も取り消され、懲役4年6ヶ月の刑となる。
連続殺人
服役していた府中刑務所でも大久保は模範囚として振る舞い、1971年3月2日に出所。一時は妻と復縁して更正を考えていたが、妻に対し兄が復縁に反対したことで断念。その後、室内装飾品の販売を始めたいので必要だからと、当時の最新型スポーツカーだった「マツダ・ファミリアロータリークーペ」を親に買って貰う。
3月31日に群馬県多野郡で最初の殺人を犯したのを手始めに、逮捕されるまでの1ヵ月半の間、ベレー帽を被ってルパシカを着て[1]スポーツカーに乗りながら、画家を自称し「絵のモデルになってくれませんか?」と約1000人以上の女性に声を掛けていた。ロシア人の血を引く甘いマスクと巧みな話術・物腰柔らかな態度から、150人ほどの女性が車に乗り込みうち10数人と肉体関係を持った。しかし、肉体関係を強く拒否した8名を容赦なく殺害、死体を造成地等に埋めて遺棄した。
被害者 | 年齢 | 被害者の職業 | 事件発生日 | 事件発生地点 |
---|---|---|---|---|
津田美也子さん | 17歳 | 女子高生 | 3月31日 | 群馬県多野郡 |
老川美枝子さん | 17歳 | ウェイトレス | 4月 | 6日群馬県高崎市 |
井田千恵子さん | 19歳 | 県庁臨時職員 | 4月17日 | 群馬県前橋市 |
川端成子さん | 17歳 | 女子高生 | 4月18日 | 群馬県伊勢崎市 |
佐藤明美さん | 16歳 | 女子高生 | 4月27日 | 群馬県前橋市 |
川保和代さん | 18歳 | 電電公社職員 | 5月 | 3日群馬県伊勢崎市 |
竹村礼子さん | 21歳 | 会社事務員 | 5月 | 9日群馬県藤岡市 |
鷹嘴直子さん | 21歳 | 家事手伝い | 5月10日 | 群馬県前橋市 |
被害届けを出さなかった女性も数知れず、その被害実態は未だに明らかでない。
逮捕とその後
大久保は、1971年5月14日に群馬県警藤岡警察署で逮捕された。逮捕後しばらくは暴れ馬のように興奮して、取調室で茶碗を投げつけるなどしていたが、芸術論を披露したりして刑事に誉められていくうちに、「死刑になってもかまわないからすべて自供する」と自供。「裁判でも自供は変えない」と断言した[2]。このため東京医科歯科大学の中田修教授によって精神鑑定が行われた[3]ものの、「責任能力あり」とは診断されたが性的異常とは見なされず、殺害の真の動機を解明するには至らなかった。
1973年2月22日に前橋地裁で死刑判決。大久保は控訴せず判決が確定し、1976年1月22日に東京拘置所で大久保の死刑が執行された。死刑執行に対し恐れおののく姿が関連の書籍によって克明に紹介された。執行前からマスコミが拘置所に押しかけ、窓際にたたずむ大久保清をカメラで撮影したり、死刑執行情報をキャッチしたりして、茶の間にいち早く大久保の状況を報道していた。
人物
逮捕後に大久保は、獄中手記として『訣別の章』(KKロングセラーズ)を出版したが、下川耿史は、著書『殺人評論』において「(ニーチェやショーペンハウアーを引くなど)難しい言葉を多用して、(アナキズムに共感するなどして)国家権力への反発を述べているが、言葉が難しい割には浅薄で、他にひどくセンチメンタルな詩を長々と書き連ねており、これが36歳の男が書くものかと思うほどに実に少年っぽい」と批評している。
映画・ドラマ
- 1976年6月19日、大久保の事件のほか、西口彰事件などを再現したオムニバス映画『戦後猟奇犯罪史』(製作:東映)が公開された。大久保を演じたのは川谷拓三。
- 1983年8月29日、この事件をモチーフにテレビドラマ『昭和四十六年 大久保清の犯罪』(製作:TBS)が放送された。大久保を演じたのはビートたけし。
脚注
- ↑ このため逮捕当時、「ルパシカを着た色魔」とマスコミで表現された。
- ↑ 別冊宝島333 隣りの殺人者たち-彼や彼女はなぜ、人を殺したのか(1997年発行)P.172より
- ↑ この時の鑑定には、小田晋・福島章・稲村博の三氏が助手として加わっている。
関連文献
- 筑波昭 『連続殺人鬼大久保清の犯罪』(2002年、新潮社)