新協劇団
新協劇団は、かって存在した日本の劇団である。。1934年に結成された。戦争期間中の2大劇団であった。現在の東京芸術座に連なる系譜をもつ。
経緯
日本プロレタリア演劇同盟に加盟していた左翼劇場(プロット解散後は中央劇場)を母体とし、 村山知義の「新劇大同団結の提唱」にもとづいて1934年に 結成された[1]。 長田秀雄、秋田雨雀、村山知義からなる幹事会と滝沢修らの総務課(0940年6月改組) を中心として組織されていた。 主に社会派の戯曲を上演していた。 三七年の「事変」以後の主要な公演としては、トルストイ「アンナ・カレニナ」(杉本良吉演出)、 久板栄二郎「北東の風」(村山知義演出)、島崎藤村「夜明け前」第一・二部(久保栄演出)、 張赫宙「春香伝」(村山演出)、久保栄「火山灰地」前・後篇(久保演出)、 キングスレー「デッド・エンド」(村山演出)、オニール「初恋」(同上)、 久板栄二郎「千万人と雖も我行かん」(同上)、ゲーテ「ファウスト」第一部(久保演出)、 久板栄二郎「神聖家族」(村山演出)、本庄陸男「石狩川」(同上)、長田秀雄「大仏開眼」(伊藤道郎演出)、 ヴェデキント「出発前半時間」、(松尾哲次演出)、真船豊「遁走譜」(千田是也演出)などがあつた。 戦争下において、わが国新劇の代表的二大劇団に「新協劇団」と「新築地劇団」とがあった。 1940年8月、大規模な弾圧がおこなわれ、即刻解散することを強要されるとともに、 劇団員・後援会員が全国的に検挙された[1]。 検挙されたのは、東京では、新協劇団関係の村山知義・久保栄・滝沢修ら26名であった。 逮捕は地方支援組織に及び、大阪で関西後援会4名、広島後援会の9名、島根で山陰後援会の10名他が 逮捕された、 当時の新聞には、「自発的解散をしょうようしたところ両氏とも快諾しそれぞれ劇団員にはかった 結果、新協劇団は二二日、新築地劇団は二三日いずれも解散を決議」という虚偽の報道が掲載 された。
戦後の1946年1月18日、村山知義を中心に松竹が後援して新協劇団(第2次)が 再建された[2]。 劇団員は演出部に村山知義と八田元夫、俳優は井上正夫、山田巳之助、加藤嘉、 三島雅夫、松本克平、大森義夫、下条正巳、織田政雄、原泉、 細川ちか子、小峰千代子、土方つま子、清州すみ子などで、他に客員として 土方与志が客員となった。経営部の皆川滉ら5名を加えて31人であった。 新協劇団の戦後の第一回公演は、2月19日から28日まで、邦楽座で 開催された[3] 『幸福の家』(原作はニーナ。フョードロフ)であった。 1946年9月に新協劇団と東京芸術劇場合同による「どん底」を帝劇で上演した。 1959年1月15日、薄田研二らの劇団中芸(中央芸術劇場を改称)との統合により、 東京芸術座として再出発することになり、「新協劇団」は解散した。