孫崎享

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孫崎 享(まごさき うける、1943年(昭和18年) 7月19日-)は、日本外交官評論家城西国際大学大学院人文科学研究科講師。東アジア共同体研究所理事・所長。

ハーバード大学国際問題研究所研究員、ウズベキスタン駐箚特命全権大使外務省国際情報局局長イラン駐箚特命全権大使、防衛大学校人文社会科学群学群長筑波大学国際総合学類非常勤講師などを歴任した。

「まござき」の読みは間違い。

【慰安婦合意】孫崎享「韓国の見直しを非難する安倍首相のほうが異常で非常識」(2018年1月)

今日の西側諸国の体制は民主主義である。つまり国民主権である。ここにおいては、主要政策は選挙後変更されることは十分に想定される。特に政権交代があったときはそうである。

例えば米国トランプ大統領を見てみよう。トランプ大統領は政権発足第1日目にTPP(環太平洋経済連携協定)からの離脱を表明した。これに対して、TPP関係国から「これまで米国はTPPにコミットしてきたから、離脱はけしからん」という声はない。1月10日ロイター通信は「複数のカナダ政府関係者の話として、米国が近くNAFTAからの離脱を発表するとの見通しを述べた」と報じた。カナダ側に「離脱は賢明な策ではない」という議論はあっても、「米国は条約に署名したのだ。その条約から離脱するのはけしからん」という議論はない。

同様に英国EUから離脱する方針を国民投票の後、決定した。「英国EUから離脱するのは賢明でない」という議論があっても、EUが「いったん結んだ条約から離脱するのはけしからん」と英国を非難することはない。

こうした民主主義国家間の合意の順守の在り様を見ると、新しい政権の誕生後、国民の関心の高い問題で、新政権が方針を変えることは異常ではなくて、むしろ十分存在するものである。特に日韓合意は条約でもなく、外相間で文書に署名を得たものでもない。新政権がこの合意から離れるのは十分にあり得ることである。

こうした論に対して、韓国の尹外交部長官は2015年の合意発表の際に「この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と述べたではないかとの論があろう。「この問題が最終的かつ不可逆的に解決される」と実現不可能なことを述べた尹外交部長官の責任はある。

しかし、そのことは新方針を出す新政権を咎める口実にはならない。「この問題が最終的かつ不可逆的に解決される」というできないことを、あたかもできるふりをした両国政府の責任である。ちなみに韓国の新方針を各国の外務大臣や外交関係者、国際法関係者、国際関係学者に見せて、「韓国って異常ですよね」と聞いて回ったとして、「その通り」と同意する人はほとんどいない。

逆に、「合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、まったく受け入れることはできない」と息巻く安倍首相が異常なのである。そしてさらに、この異常さを指摘する声がほとんど聞かれない日本という社会も、相当深刻な異常段階に入っていることを認識すべきだ。

来歴

生い立ち

1943年(昭和18年)、満州国奉天省鞍山市にて生まれた。

日本特殊会社たる南満州鉄道が設立した鞍山製鉄所(のちの昭和製鋼所)に父が勤務していたため、満州国にて暮らす。

第二次世界大戦終結にともない、父の故郷である石川県小松市に引き揚げた。小松市立松陽中学校を経て、金沢大学教育学部附属高等学校を卒業した。中学校の恩師に宮田恭子がいた。

東京大学法学部在学中に外務公務員上級職甲種試験外交官採用試験)に合格したため、大学を中途退学し外務省に入省した。

外交官として

1966年(昭和41年)に外務省に入省し、同期には野上義二浦部和好斎藤正樹大塚清一郎らがいた。イギリス陸軍学校、ロンドン大学モスクワ大学での研修、在ソビエト連邦大使館を経て、外務省の大臣官房総務課企画官となる。

上司の坂本重太郎総務課長らと情報調査局(のちの国際情報局)の設立に動き、情報調査局発足後は同局分析課の課長となった。

1985年から在アメリカ合衆国大使館参事官ハーバード大学国際問題研究所の研究員を務めた。1986年に在イラク大使館の参事官、1989年に在カナダ大使館の公使に就任した。また、1991年から1993年まで総合研究開発機構へ出向した。

その後、ウズベキスタン駐箚特命全権大使、外務省国際情報局局長、イラン駐箚特命全権大使など要職を歴任した。イラン駐箚特命全権大使としては、大統領モハンマド・ハータミーの日本訪問を実現させた。また、1993年に上梓した『日本外交 現場からの証言――握手と微笑とイエスでいいか』で山本七平賞を受賞した。

ハーバード大学国際問題研究所研究員として

1985年 - 1986年ハーバード大学研究員として、論文"The Changing Strategic Importance of the Far East: The New Role for Japan."(極東軍事戦略の重要性の変遷:日本の新しい役割)を発表。

抜粋

If Japan possesses nuclear deterrence forces, the Russians would never misinterpret Japan’s nuclear retaliation. SLBM could work as a deterrence force. Financially this is well within possible expenditure.

和訳

日本が核抑止力を持っている場合、ロシア人は日本から核の報復があることを決して見誤ることはない。潜水艦発射弾道ミサイルは抑止力として機能する。財政的にもこれは十分歳出可能な範囲である。

防衛大学校教授として

2002年から防衛大学校教授となり、公共政策学科の学科長、人文社会科学群の学群長を歴任した。2009年3月に退官した。

退官後