南方軍防疫給水部
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南方軍防疫給水部(なんぽうぐんぼうえききゅうすいぶ)は、日本軍によって、占領下のシンガポールに設立された防疫給水部隊。キング・エドワード7世医科大学に置かれていた、発光生物の軍用開発を行なっていた、各地に支部があり、東南アジア全域の日本軍にワクチンを供給していた、などの証言により、活動内容が断片的に伝えられている。[1]
組織
- 1939-1941年にかけて、「防疫給水部」の名を冠した対生物戦部隊が、石井四郎とその部下によって、北京・南京・広東・シンガポール(昭南)に設立された[2]。このうち、昭南に設立された部隊が南方軍防疫給水部だった[2]。
- 南方軍防疫給水部は、キング・エドワード7世医科大学に置かれ[3]、各地にいくつかの支部を持っていた[2]。
発光生物の開発研究
- 昭南博物館に勤務していた発光生物の研究者・羽根田弥太は、1944年から、防疫給水部隊長羽山良夫軍医少尉からの依頼を受けて防疫給水部に通い、長期間(1週間ほど)にわたって光り続ける発光バクテリアの開発研究に従事した[3]。1945年6月に開発に成功し、ブキテマの森で、深夜、200人の兵士が25万個の発光バクテリアを利用した交信の演習を行なったが、実用化には至らないまま、敗戦を迎えたという[3]。
事故死した給水部隊長
- 徳川義親の日記には、1943年5月21日の出来事として、ジャワから来た飛行機が墜落し、「大佐、中佐位の人々、北川大佐、給水部隊長も死す」との記事があり、「給水部隊長」は防疫給水部の隊長だったとみられている[4]。
帝銀事件との関連
- 1987年5月に共同通信が配信し、地方紙に掲載された「帝銀事件のナゾ」によると、インドネシアの旧パスツール研究所の関係者が、「南方防疫給水部」はシンガポールを拠点として、東南アジア全域の日本軍に感染症のワクチンを補給しており、731部隊(関東軍防疫給水部本部)とも人的交流があったと証言している[5]。
- 帝銀事件で犯人とされた平沢貞通が逮捕されるきっかけとなった類似事件の犯人が渡した名刺にあった「厚生技官 医学博士 松井蔚」の松井蔚は、1942年12月に第25軍軍政監部の衛生部医務課長、1944年6月にインドネシア・バンドンの防疫研究所(旧パスツール研究所)の総務部長兼研究部長となっていた人物で、帝銀事件の犯人は南方軍防疫給水部と関係のあった人物である可能性が指摘されている[5]。
脚注
参考文献
- 小田部(1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192