南京であったとされるいわゆる虐殺事件

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南京大虐殺なんきんだいぎゃくさつ)という名で知られる事件は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年昭和12年)に日本軍中華民国の首都 南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜敗残兵便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件である。

中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。

なお、この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている(南京大虐殺論争を参照)。

事件の概要

南京攻略戦

1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍に対し追及を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。日本軍は、中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日、南京は陥落した。

残虐行為について

日本軍は、南京への進撃中から諸種の残虐行為を行ったと言われている。その為、南京周辺の町村において、被害の報告が挙げられている。また、1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)。

市民への虐殺
市民への虐殺については、そのことを直接指示する命令書は確認できないが、当時、戦闘に参加した日本軍将兵の多くが、女性、子供を含めた市民を無差別に殺害するよう指示を受けたことの記録や証言を残している。
被害者側である中国人の証言からも、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたことが多く確認できる。
当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた警察官全員や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録に書き残している。
捕虜・投降兵の虐殺
第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、捕虜を取らず、殺害する方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、多くの捕虜や投降兵が殺害されたのではないかと見られている。
南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が捕虜約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は、この処置は上部組織からの命令であったことを日記に書いている。
南京北部の下関では、捕虜が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。
第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報では、旅団命令によって捕虜を殺害したことが記録されている。

報道

この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官の間で伝わっており(前者の代表的な例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表的な例としては外務省欧亜局長 石井猪太郎の日記が、夫々挙げられる)、日本の民衆の間でも流言蜚語として広まっていた(流言の伝わるルートとしては軍人が戦地から内地に宛てた手紙が挙げられる)。また、日本の外へ目を向けてみると、欧米では『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨークタイムズ』、中国では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として報道されていた。

南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、事件初期における日本軍による殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行なわれた略奪や大量殺害を船舶の無線を使って報道した。

被害者数について

被害者数については数千人とする説から、数十万人にのぼるとするものまで様々であり、虐殺事件の存在自体を否定する説もある。日本の研究者らは数万人程度(うち保守主義者では数百人 - 1万数千人規模説、一部に否定説)と考える人が多く、海外では数十万と捉える研究者が多い。論争については、南京大虐殺論争を参照のこと。

事件の背景について

事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海蘇州無錫嘉興杭州紹興常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、日本軍兵士・将校の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。否定説では「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」などと虐殺の責任を中国側に転嫁する主張がみられる()。同様に、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に何も与えない為に行った空室清野戦術によると見る向きもある。

戦争裁判

この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判南京軍事法廷で審判された。

極東国際軍事裁判では、事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根(当時、陸軍大将)が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。

南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫(当時、陸軍中将)が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅(当時、陸軍少尉)と向井敏明(当時、陸軍少尉)、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。

一方、上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦(当時、陸軍中将)については訴追されなかった。これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。

南京陥落までの状況

日本側

1937年11月、第2次上海事件に投入された上海派遣軍第10軍は、上海で中国軍を撃ち破った勢いに乗り、軍中央の不拡大方針を無視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針無視を追認する形で、中支那方面軍(上海派遣軍と第10軍)に対し南京攻略命令を下達する。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官の陸軍大将 松井石根は、中国軍に対し開城(降伏)を勧告する。

中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は攻撃を開始し、12月13日に南京城を陥落させた。

中国(中華民国)側

1937年11月5日、上海防衛に当たっていた中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却する。11月15日 - 11月18日、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まる。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命する。同時に、重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始める。11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破される。南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れる。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令する。一方、唐生智は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出す。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、南京城壁は突破され、中国軍は総崩れとなる。

中支那方面軍の編成

中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。

  • 中支那方面軍 - 司令官:陸軍大将 松井石根

南京大虐殺を描いた作品

関連項目

外部リンク

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