ローラーゲーム東京ボンバーズ

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(ろーらーげーむ とうきょう ぼんばーず  Roller Games Tokyo Bombers)

概要

走る肉弾戦ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1周40m-70mの距離を持ち0度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上で得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで1968年(昭和43年)4月から東京12チャンネル(現テレビ東京)がロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードの試合をメインに箱番組として日本で初めて紹介した。

放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンに視聴者は驚きテレビの前に釘づけにしていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年(昭和45年)9月に放送が打切られた。しかし、放送当初の高視聴率を維持していた頃、日本人チーム結成が計画されていて資金面などから計画は頓挫していたが諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル グリフィス、東京12チャンネル運動部長 白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ 森文雄らの思惑が一致して1972年(昭和47年)6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保し日本チーム東京ボンバーズを誕生させニューヨークチーフス、シカゴホークス、デトロイトデビルスなどと対戦する様子を26試合収録した。

ハワイで収録した東京ボンバーズの試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングテクニシャン、ミキ角田らの活躍で15%を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年(昭和50年)9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、その間に日本における女性の格闘技が少しづつ受け入れられるようになり極端にマイナーであった女子プロレスにマッハ文朱やビューティペアなどのスターレスラーが登場するなどして光が当たるようになった。


ローラーゲームの歴史概略

ローラーゲームはローラーダービーから分派したスポーツで発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年(大正11年)頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年(大正3年)にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代(昭和5年以降)で1961年(昭和36年)にビル グリフィスとジェリー ヒルの2人がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを設立させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成っていた。