カルマ

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カルマ(karmat、和訳:業)とは、仏教の基本的概念で、サンスクリットकर्मन् (karman) を意味する。

サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。業そのものは、に応じて果報を生じ、によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。

今日、一般的にこの語を使う場合は、例えば「業が深い」というような(因縁因果による)行為で生じる罪悪を意味したり、不合理だと知りつつも行ってしまう人間的な、宿命的な行為という意味で使われたりする。オウム真理教麻原彰晃は、信徒らに「カルマ落とし」と称しさまざまな修行を課すことで、グルへの絶対服従を命じ心を支配しようとした。

釈迦以前の業

釈迦が成道する以前から、従来のバラモン教に所属しない、多くの自由思想家らがいたた。かれらは高度な瞑想技術を持っており、瞑想によって得られた体験から、様々な思想哲学を生み出し、業、輪廻宿命解脱認識論などの思想が体系化されていった。この中に業の思想も含まれていた。

バラモン教の業

業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化した。

善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし
善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる

『百道梵書』 (Zatapathaa-braahmana)

このような倫理的な力として理解されてきた業がやがて何か業というものとして実体視されるようになる。

あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある

『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』

インドでは業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。

ある人は、霊魂肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。

なおバラモン教における輪廻思想の発生を、従来考えられているよりも後の時代であるとする見解もある。例えば上座仏教では、釈迦在世時に存在したバラモン経典を、三つのヴェーダまでしか認めておらず[1]、釈迦以前のバラモン教に輪廻思想は存在しなかったとする。もちろん、当時の自由思想家たちが輪廻思想を説いていたことは明白であるが、彼らはバラモン教徒ではなかったことに注意すべきである。

ジャイナ教における業

詳細は ジャイナ教のカルマ を参照

仏教における業

釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去ないし未来ないし現在の応供等正覚者は、業論者、業果論者、精進論者であった」と言ったといわれるように、カルマ(業)論の主張者であった。しかし、業を物質的なものであると考えたニガンタ・ナータプッタとは異なり、心のエネルギーとして、物質的形態をとらないものとして考えた。

比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。

(Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi)[2]

『増支部経典』 (Aṅguttara-Nikāya) Nibbedhika suttaṃ


思業と思已業

仏教では心を造作せしめる働きとして、思考する行為が先に来ると考え、これをまず思業と名づけ、後に起こる身口の所作を思已業と名づける。

三業

  • 身業(しんごう、kāya-kamma) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。悪業では偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)など。
  • 口業(くごう、vacī-kamma) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ=二枚舌・あっく・きご=飾った言葉)など。
  • 意業(いごう、mano-kamma) - 意識・心のはたらきで起こすこと。悪業では貪欲・瞋恚・邪見(とんよく・しんい・じゃけん)など。

業は意志・形成作用(行、サンカーラ)とも同一視され、良き意志・良き行為を持つことが勧められる。そして、より究極的には、煩悩を滅し、善悪を乗り越えることで、一切の業を作らないことが理想とされる。

三時業

業によって果報(むくい)を受ける時期に異なりがある。

  • 順現法受業(じゅんげんぽうじゅごう、dRSTa-dharma-vedaniiyaM karma) - 現世において受くべき業。
  • 順次生受業(じゅんじしょうじゅごう、upapadya-vedaniiyaM karma) - 次の生で受くべき業。
  • 順後次受業(じゅんごじじゅごう、aparaparyaaya-vedaniiyaM karma) - 三回目以降の生において受くべき業。

これらは報いを受ける時期が定まっているので定業という。また、報いを受ける時期が定まっていないものを順不定業(じゅんふじょうごう、aniyataavedaniiyaM karma)といい、この不定業を加えて四業という。

北伝部派仏教における業思想

五業

意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業と語業は具体的な表現となって現われる。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kaaya-vijJapti-karman)といい、語業を語表業(vaag-vijJapti-karman)という。

このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業(しんむひょうごう、kaaya-avijJapti-karman)・語無表業(vaag-avijJapti-karman)という。このようにして、初めの意業と身語二業の表無表の四業とで五業説を形成する。

いま、これらの業の分類を通して、仏教の業説の意図するところを考える時、そこには仏教の基本的な考えかたが示されている。すなわち人間の生活が厳然たる因果応報という姿に営まれること、したがって人間の行為は現在刹那に終結してしまうものでなく、常に因縁果と相続してゆくものであり、すべてが全く自己責任の中に果たされねばならないことである。釈迦が、

人間は生まれによって尊いのでも賤しいのでもない。その人の行為によって尊くも賤しくもなる

というのも、この業説のうえに立っていわれたのである。さらに、このような人間の行為についての因果論的立場は、単に現実の身体的行動や言語活動の上にいわれるものでなく、その根本を人間の精神に位置づけるのが仏教であり、道徳的には結果論でなく、動機論の立場をとるものであることを示している。

ところで、この厳格な因果関係について、仏教は三時業ということを説いて、因果の連鎖を三世、あるいはそれ以上の世代にまで及ぼし、業の永遠性を説いている点に注意しなければならない。このことは因が結果となることは必ず条件(縁)によるものであることを示すとともに、因であること自体、実は結果である現実に立ってこそ因といわれることを示している。より具体的には果となった時、因が因として働きを完了するのであるから、果とならなければ因とはいえないはずである。たとえば、たとえ種子を大地におろしたとしても、条件次第で種子は敗種となってしまう。この点、因果応報は明らかであっても、その応報は因の働きをなさしめる条件次第であるといわねばならない。仏教はこのように縁を強調することによって、人間の現実を生きる姿勢を正すべきことを教えるものである。良因・良縁のととのった時に良果がえられるので、良因のみで良縁がないならば、良因もその働きを完了することができなく、ついに敗種となる。といっても悪因はたとい条件がよくても、良果とはならないのはいうまでもないが、悪因も良因とともに条件次第で、それを敗種たらしめることが可能であることは注意すべきである。

業道

業とは心の造作であるから、その造作が具体的に働いてゆくところを業道という。すなわち、思という心の造作は貪欲とか瞋恚(しんい)とかいうものによって、具体的に働くから、このような思を具体的に働かしめるものを業の道、業道というのである。その業道について十不善業道、十善業道を説いている。この中、十不善業道(daZaakuZalakarma-pathaa)とは殺生・偸盗・邪淫の身体的なもの、妄語・綺語・悪口・両舌の言語的なもの、貪欲・瞋恚・邪見の心的なものの十種の不善をいうのである。思はこのような十種の不善を業道として働くわけである。十善業道については、十不善業道から反顕してしるべきである。

物質としての業

善悪等の人間の行為と苦や楽の果報とに関して、業が問題となる。業の善・悪・無記の三性のように道徳的な立場で問題とされ、善因楽果・悪因苦果と人間の生活の中での因果応報との結びつきが説かれる。業因業果と業の働きの相続を説く場合、その業力はどうして相続するか。この点が明らかにならねばならないので、業力を何らか把握しうるものとして考えようとするものがでた。

説一切有部では、その業の体性(ものがら)を、業が具体的には身体の動作や言語のための口や舌の働きによるものであるから、何か物質的なものと考えた。すなわち堅湿煙動などの性格を示す地水火風のような要素の結合による物質的な何ものか(色法)と考えた。その点で表業も無表業も実体と考えていた。経量部は、大乗仏教と同じように思の心所の働く姿について身業語業意業などの区別を立てたので、実体的なものがないとして、その思に審慮思(しんりょし)・決定思(けつじょうし)・動発勝思(どうはっしょうし)の三種を立てて説明している。

  • 審慮思 - 身語の二業を起そうとするとき、審慮するもの
  • 決定思 - 決定心をおこして、まさになさんとする
  • 動発勝思 - 身語の二業において動作する

このような思の三種からして、意業は審慮と決定をその自体とし、身語の表業は動発する善不善の思を自体とし、無表業は思の種子のうえにある不善あるいは善を防ぐ功能(はたらき、可能性)を自体とすると説かれる。

引業・満業

このように業論は仏教において非常に重要な思想であり、人間生活におけるすべての現象の説明がこの業説に集約されて考えられる。

人間の現実生活において、人間としての果報を生ずる力を引業(いんごう、aakSepa karma)といい、その人間の果報上にある種々の要件すなわち支体・諸根・形量等の差異を結果せしめるものを満業(まんごう、paripuurak karma)という。

共業

集団に共通するような、ある結果を生み出す力を共業(ぐうごう)といい、自己のみ特別にして他に共通しない状態の果報をひきおこす力を不共業とよぶ。これは物質世界(器世間)に影響を与えるものであって、個人(衆生世間)に影響を与えるものは「個別的(不共)」であるので、共業とは呼ばない。無着「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁(adhipati-pratyaya)と考え、直接的な結果、すなわち異熟(vipāka)とは考えない。[3]

密教における業

なお密教においては、身密・口密・意密の三密により仏の微妙(みみょう)なる働きを思惟し修行する。

注記

  1. 原始仏典である阿含経典(二カーヤ)において、ウパニシャッドは言及すらされておらず、まったく存在していなかったと考えるからである。登場するヴェーダも三つまでである。
  2. AN III_utf8 PTS Page 415
  3. 干潟龍祥「業(ごう)の社会性-共業(ぐうごう)-について」

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