JR福知山線脱線事故

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脱線した207系電車伊丹駅側から)
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停止した北近畿3号(尼崎駅側から)
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JR神戸線・福知山線の宝塚・尼崎付近路線図

JR福知山線脱線事故(-ふくちやませんだっせんじこ)は、2005年4月25日午前9時18分頃、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線(JR宝塚線)塚口尼崎駅間で発生、乗客106名・運転士1名の死者を出した列車脱線事故である。

事故列車は、塚口~尼崎駅間の曲線で脱線して先頭の2両が線路脇のマンションに激突した(事故詳細の節で詳述)。また、この列車は始発駅の宝塚駅における送り込み回送の際にATS(自動列車停止装置)が作動して緊急停止していたほかに、事故現場直前の停車駅である伊丹駅においてもオーバーランによる停車位置通過を起こしていたことから、他の路線鉄道事業者において事故後に発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされた。さらに、JR西日本が事故当日に行った発表の中で線路上への置き石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置き石や自転車などの障害物を置くといった悪質ないたずらも相次いで起こった。それ以外にも、事故に便乗した犯罪が発生している。

報道では事故を起こした路線名の表記が分かれた。朝日新聞神戸新聞サンテレビは「JR宝塚線」の愛称を使用しているが、それ以外のマスメディアでは正式名称の「福知山線」を使用している。このことや発生した現場の地名により「JR宝塚線脱線事故」・「尼崎事故」・「尼崎脱線事故」と呼称されている場合もある。

事故詳細

事故は、9時18分(事故調調べ)頃、兵庫県尼崎市のJR福知山線の半径300mの右カーブ区間([1]塚口駅の南約1km・尼崎駅の手前約1.4km地点)で発生した。

事故列車は、宝塚片町線(学研都市線)同志社前行の上り快速電車(7両編成)で列車の前5両が脱線する。先頭の2両においては線路脇の9階建てマンションに激突して原形を留めない形で大破した。列車には事故発生時に周辺の列車に対して非常事態を知らせるための列車防護無線装置が搭載されていたものの脱線によって電力の供給が絶たれた事によって当該列車車掌の操作した防護無線は動作しなかった。そのような事態に備えていたはずの予備電源への切り替えも手動による操作が必要であることを乗務員に周知を徹底されていなかったので、結局、事故列車からの防護無線は発報されずに終わっている。その頃、並行する下り線には新大阪城崎温泉行きの特急が接近中であったが、事故を目撃した近隣住民の機転により近くの踏切の非常ボタンが押されて特殊信号発光機が点灯したために運転士が異常を察知し、およそ、100m手前で停車して防護無線を発報したために二重事故という最悪の事態は回避される。この非常ボタンの押下のためか事故発生からしばらくのあいだJR西日本は駅構内などにおいて「踏切事故」との案内を繰り返していた。電車が衝突した地点の架線柱も走行していた線路とは逆側での片持ち式であったために架線柱自体の倒壊が回避されている。

なお、現場のカーブは、上り線に関してはもともと直線区間だったが(マンションの前の道路が線路だった)、JR東西線開業に合わせて下り線と同じ経路に変更された。

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事故を起こした207系と同型の電車

事故当時、列車は前部の4両編成と、途中の片町線(学研都市線)京田辺駅で切離す予定であった3両編成を連結した7両編成で運転していた。前から1・4・5・7両目に、逐一に列車の運行状態を記録(非常ブレーキ作動の前後5秒間)する「モニター制御装置」の装備があり、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目(後部3両編成の先頭車両)と7両目に108km/hの記録が表示されていた。ただし、これが直ちに脱線時の速度を示しているとは限らない。

先頭車両が、脱線による急減速した影響で車列が折れて、容易に編成組み換えに対応できるようにボルトとナットを繋ぐだけの構造でできていた連結器部分において折り畳まれるような形になったために、玉突き状態となり被害が拡大したものとみられる。当時、事故車両の1両目は片輪走行で左に傾きながら架線柱に接触してそのまま直進、マンション脇の立体駐車場と同スペースの乗用車を巻き込みながら1階の駐車場部分へと突入して壁にも激突する。続く2両目も1両目と同じ片輪走行でマンションに車体側面から叩きつけられる状態に加えて3両目に追突されたことによって建物の角に巻きつくような形で大破した。3両目は2両目と4両目に引きずられる形になって上り方向(尼崎方面)を前後が逆になった状態で斜めに遮る様に停止する。4両目も3両目を挟むようにして下り方向(福知山方面)の線路と西側側道の半分を斜めに遮る状態でそれぞれ停止した。

事故発生当初は、事故車両の2両目部分が1両目部分であると誤認されていて1両目は発見されていなかった。後に、本来存在しているべき車両数と目視で確認できる車両数が一致しない、1両目の存在が確認できていなかったので運転台が無いと言われたことから捜索されて発見されるにいたる。車両のうち、前部Z16編成の4両は事故当日に廃車手続きがとられている。救助作業は、駐車場周辺においてガソリン漏れが確認されたため、引火を避ける目的や被害者の安全のためにバーナーや電動カッターを用いることができずに難航した。また、3両目から順に車両を解体する作業を伴い、昼夜を問わず24時間続けられて3日後の4月28日に終了した。正確な乗客数も都市圏と都市近郊を結ぶ通勤列車であったことから確定できずにいる。

現場の半径300mの曲線区間の制限速度も事故後に70km/hから60km/hに、曲線区間にさしかかる手前の直線区間での制限速度は120km/hから95km/hにそれぞれ変更されている。

被害

住民への二次的被害はなかったものの、直接的な事故の犠牲者は、死者107名(運転士含む)、負傷者562名を出す未曾有の大惨事となった。なお、犠牲者の多くは1両目と2両目で発生している。運転士は圧死、乗客の死因の4割が頭部損傷によるもので窒息や多発外傷・挫滅症候群(クラッシュ症候群)も確認されている。死亡者の数において、JR発足後としては1991年信楽高原鐵道列車衝突事故(死者42名)を抜いて過去最大となり、また鉄道事故全般からみても、戦後に発生したものでは桜木町事故の106人を上回って八高線脱線転覆事故(184名)・鶴見事故(161名)・三河島事故(160名)に次いで4番目。戦前・戦中を含めても史上7番目(関東大震災の時の根府川駅被災(112名)を含む)の甚大な被害を出した。

後に、事故では負傷しなかった同列車の乗客やマンション住人、救助作業に参加した周辺住民なども心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症するなど大きな影響を及ぼした。

マンションには47世帯が居住していたが、倒壊の可能性を考慮してJR西日本の用意したホテルなどへ避難した。その後も2世帯が残っていたが、同年8月上旬までに順次マンションを離れている。

対応

阪神・淡路大震災兵庫県南部地震)の経験が生かされて迅速な対応が行われた。事故発生当時、いち早く現場へ駆けつけて救助にあたったのは近隣の住民や企業であり、駆けつけた企業の中には、工場の操業を一時停止して参加した所もあった。負傷者の半数近くは近隣の人々や企業が医療機関に搬送しており、震災当時にみられたボランティアの精神が生かされている。後に、救助・救援活動の功績を讃えて、2005年7月に76企業・団体と1個人に対して国から感謝状が、8月には48企業・団体と34個人に対して兵庫県警から感謝状が、9月には32企業・団体と30個人に対して尼崎市から感謝状がそれぞれ授与された。また、11月には自社の業務を全て停止させ、救助活動・敷地内を活動拠点の1つとして救助に当たった企業と二次災害回避のため線路内に入って対向列車に異常を知らせた1個人に対して紅綬褒章が授与された。

また、救急医療関係者が事故現場周辺に展開して大量の負傷者が発生した場合のトリアージを実施している。事故から約2時間後には、尼崎市により事故現場の至近にある中学校が開放され避難所として利用されたほか、緊急車両の待機場や消防防災ヘリコプターの臨時ヘリポートとして活用された。兵庫県は緊急消防援助隊の応援要請、広域緊急援助隊の出動要請、現場に近い伊丹に駐屯する陸上自衛隊第3師団への災害派遣要請をそれぞれ行った。

救急搬送

広域消防相互応援協定により、複数自治体から応援があった一方で、負傷者の搬送先はそのほとんどが兵庫県下の病院となった。尼崎市と隣接する大阪府への搬送は転院が中心であり、直接の搬送は数件にとどまった。

航空・鉄道事故調査委員会による原因の特定

航空・鉄道事故調査委員会は、2006年12月20日、事故の原因は「運転士が無線の会話に気を取られ、ブレーキ操作が遅れて70km/h制限の右カーブに116km/hで進入したため」とする事実調査報告提案書を公表した。事実関係の記述だけで300ページ超と日航機墜落事故報告書を上回り、加えてJR西日本の社内体質の問題にも踏み込んでおり、日本の事故調査報告書としては過去最大の分量となった。

事故調は、JR西日本側の反論などを聞く公聴会を開いたあと、再度、事故調査報告書案を提出して受理されたうえで2007年2月に最終報告書をまとめた。

脱線の原因

伊丹駅を午前9時16分ごろに出発したのち、70km/h制限の現場右カーブ(半径304m)に116km/hで進入した。この際、運転士はカーブ進入直後に常用ブレーキ1段目、さらに3~4段目を約0.2秒、5段目を約0.8秒、6段目を約0.2秒、7段目を約2.4秒使用して105km/hに減速した段階で最大の8段目を使用している。しかし、このときにはすでに右側車輪が遠心力で宙に浮いた状態になり、9時18分54秒ごろ1両目が左へ転倒するように脱線。続いて2~5両目が脱線した。

事故後の状態において、レバーが非常ブレーキの位置に入っていたが走行中において非常ブレーキを操作した形跡がなかったために、これは事故の衝撃によりブレーキレバーが動いたものとみられる。

現場カーブの転覆限界速度について、JR西日本は当初133km/hとの数字を公表するもののこれも空車の状態で横揺れを考慮しないものであった。事故調は、現場と同じ半径304mの右曲線で当時と同じ1両目93人、2両目133人乗車としてシミュレーションを重ねた結果、列車の横揺れも考慮した場合、転覆限界速度は106km/hであったと判定。事故は単純な速度超過による横転脱線と結論づけた。

運転士の行動

事故調は、当初から運転士の心理が大きく影響した可能性に注目している。報告書でも、運転士と車掌の当日の行動について詳細に記述している。

運転士は前日の勤務を終えた後、放出派出所(東大阪市)で宿泊し、2005年4月25日午前6時8分に点呼を受けて乗務を開始。8時31分、事故車となる尼崎発宝塚行き回送電車に乗務した。

  1. 8時54分、宝塚駅構内の分岐器(40km/h制限)に65km/hで進入して、ATS(自動列車停止装置)による非常ブレーキでホーム手前に停車する。番線を勘違いした可能性もある。再出発後に再びATSで停車する。
  2. 進行方向転換のため速やかに反対側の運転席に移動すべきところを、平均の3倍近い2分50秒も車内にとどまる。交代のために来た車掌は外で待たされていたが、運転士は何をするわけでもなく憮然としていた。
  3. ようやく外に出てきた運転士に車掌が「P(ATS-P)で止まったん?」と聞くが、無視する。
  4. 電車の再起動の際、試験無線ボタンを特殊操作(車掌と総合司令所の会話を聞けるようになる裏技として運転士の間で知られていた)宝塚駅構内でのATS作動は報告義務があるため、車掌が総合司令所に報告する内容を聞こうとした可能性がある。
  5. 同志社前行き快速列車として15秒遅れの9時4分00秒に宝塚駅を出発。
  6. 伊丹駅の停車位置の643m手前を113km/hで走行中、ATSの停車ボイス機能「停車です・停車です」が発動するがそのまま走行。468m手前では2度目の警告音声「停車・停車」が発動し、ブレーキ操作をするものの所定の位置を通過する。72mオーバーラン。
  7. 伊丹駅を1分20秒遅れの9時16分10秒に発車。124~125km/hまで加速したのち惰性運転。
  8. 車掌が「次は尼崎」とアナウンスを始めた際、車内電話で「まけてくれへんか」と依頼。それに対して、車掌が「大分と行っとるで?」と返答しかけたとき乗客が窓を叩いてオーバーランのお詫び放送を要求したために会話が中断する。
  9. お詫び放送の後、9時18分、車掌が総合司令所を列車無線で呼び出し、オーバーランの報告を始める。このとき2段目ブレーキがわずかに使用される。
  10. 車掌「えー、行き過ぎですけれども、およそ8m行きすぎて…」この言葉の間にブレーキ開始の目安となる名神高速道路の高架橋下を通過するがブレーキ操作はなし。
  11. 車掌と総合司令所との会話が事故現場のカーブまで続く。
  12. 総合司令所が「それでは替わりまして、(事故列車の)運転士応答できますか」と呼びかける。
  13. 同時刻、列車が事故現場のカーブに116km/hで侵入。初めてブレーキ操作を始めるが脱線する。

運転士は、遺体発見当時、右の手袋を外してビニールケースにも書ける特殊な赤鉛筆を取り出していた。また、運転士は特殊な無線操作をして車掌の会話を「盗み聞き」しており、無線通話が始まってから事故現場のカーブにさしかかるまでの約40秒間、一切の運転操作が行われていなかった。

これらのことから、事故調は運転士が車掌の報告と矛盾しないように通話内容をメモしようとしていたと推定。このため、本来ブレーキをかけるべき地点の名神高速高架橋にさしかかってもブレーキ操作を全く行わなかったと結論づけた。さらに、「運転士は電車が傾いた後も慌てることなく普段の運転時よりも少し傾いてるように見えた」という乗客の証言から運転士は事故の瞬間まで危険を認識していなかったとされる意見もある。

当初疑われた原因

乗用車衝突説

事故発生当初は、現場に大破した乗用車の存在と列車の脱線の事実のみが伝わったことから「踏切内で乗用車と列車が衝突し、列車が脱線した」との憶測が飛び交うなど情報が錯綜した。そして、JR西日本が当初「踏切内での乗用車との衝突事故」と発表したために、報道各社はこのJR西日本の発表を流した。また、この乗用車が線路上に放置されたものとして、所有者を探し出して事故を起こしたことについて責任を問詰めよる記者もいた。しかし、塚口駅から同列車が脱線した地点までの区間に踏切は1つも存在していなく、また、乗用車が近隣の建造物や立体駐車スペースから線路内へと落下した痕跡も確認されなかったことから否定されるにいたる。報道各社は、JRが発表しているとの理由でテロップや配信ニュースでは乗用車との衝突事故との表現が続けられて、乗用車との衝突が否定された後も誤った情報を流しつづけた事をすぐに説明しなかった。

線路置石説

JR西日本は、事故発生から約6時間後の25日15時の記者会見の中で「粉砕痕」の写真を報道機関に見せるなどして「置石」による事故を示唆した。しかし、事故列車の直前に大阪方面へ向かう特急が通過するなど列車の往来が激しい区間であることや、当初、「置石」があった証拠として挙げられたレール上の「粉砕痕」は、航空・鉄道事故調査委員会の調査結果でその成分が現場のバラスト(敷石)と一致して「脱線車両が巻き上げたバラストを、後部車両が踏んで出来たものと考えるのが自然である」との見解が出されたことによってこの説は否定された。また、JR西日本の置石説発表後に国土交通省が置石説を否定する発言を行ったためにJR西日本も置石説を撤回する発言を行う。

なお、この発表による模倣犯も発生している。

粉砕痕そのものへは事故調も関心を寄せており、2006年2月17日に茨城県つくば市日本自動車研究所で再現実験を行なっている。

列車速度超過説

速度の記録から現場の制限速度を大幅に越えた走行をしていたことが判明している。また、事故直前の列車速度が事故現場のカーブにおける転覆限界の105km/h~110km/hを超えていた可能性も存在する。

事故を起こした列車は、直前の停車駅である伊丹駅で約70mオーバーランしたために伊丹駅を1分30秒(異説あり)遅れで発車していた。また、始発の宝塚駅や次の停車駅である川西池田駅に入線する際にも、それぞれ停止位置を間違える等、極めて不自然な運転を繰り返していたことも判明している。運転士がその遅れを取り戻そうとして制限速度を越えた可能性がある。

現場のカーブは前述の通り半径300メートルで制限速度は70km/h。しかし、事故当時、列車は116km/hで進入、脱線したとされる記録では最低108km/h出ている。当該線区に設置されていた自動列車停止装置(ATS-SW) はJR西日本管内では最も古いタイプであった為、これがあたかも事故を防げなかった原因であるかのような報道がされ続けていたが、これは誤報である。「新型ATS」である自動列車停止装置(ATS-P)でなくとも、速度照査用の地上子等を設置すれば速度照査機能の付加はATS-SWでも可能であり「旧型ATS」が直ちに事故原因になったものではない。ATS-SWは、旧式のATS-S型に速度照査機能を加えて大幅に改良したものであり、速度超過を事例に絞れば、“SW型”が非常ブレーキで列車を停止させてしまうに対して“P型”では常用最大ブレーキで減速し設定速度を下回ると自緩するの違いだけである。ATS-SW型は過密線区に向かないものの当該線は過密線区とは言えない。

速度超過から脱線に至る原因は、せり上がり脱線説と横転脱線説の大きく2つの説があったが、初期の調査の結果、レールの傷跡から最大の原因は後者であると断定された。

詳しい事故のメカニズムについては調査が終了している段階で、当時、事故の要因としては上記のものを含めていくつかの説が考えられていた。

非常ブレーキ説

カーブ通過中に運転士が非常ブレーキをかけて車輪が滑走した場合、車輪フランジの機能が低下して脱線に至る可能性が大きいという説があり、当初、非常ブレーキを掛けなければ脱線および横転の可能性は少なかったといわれた。 のちの解析の結果、運転士はカーブ進入後車体が傾きだしていたにもかかわらず常用ブレーキを使用していたことが判明。非常ブレーキは脱線・衝突の衝撃で連結器が破損したことによって作動していた。(走行中に連結器が開放されると非常ブレーキが自動的に作動する構造となっている)

また、それ以前に運転士が数回にわたって非常ブレーキを掛けていた原因は、車両のブレーキの掛かり方の違いによるものであるという見方もある。

せり上がり脱線説

運転士がカーブ手前でそれに気づいて非常ブレーキをかけたために(後に否定される)車輪のフランジとレールとの間で非常に強い摩擦力が起き、「せり上がり脱線」が起こり事故にいたったという見方もある。しかしながら、通常のせり上がり脱線が発生するためには、車輪に非常に高い横圧がかかることが必要で現場の半径300メートルのカーブ程度では通常は考えにくい。

また、現場の枕木に残された走行痕からせり上がり脱線(乗り上がり脱線)も同時に起きていたのではないかと考えられている。転覆に至る過程において車軸が傾いたことによってレールに対する実効フランジ高が減少して比較的低い横圧でもせり上がり、それが副次的要因となって脱線に至ったのではないかというものである。


横転脱線説

速度超過の事実が知られていなかった初期の段階においては、上記に示したとおり「非常ブレーキ」の作動によって列車のバランスが崩れて進行方向(尼崎方面)向かって右側の車輪が浮き上がりそのまま左側に倒れ込んだ「横転脱線」ではないかとする見方があった。しかし、前述のとおり、乗務員が使用したのは「常用ブレーキ」であって「非常ブレーキ」が作動したのは脱線によって連結器が破損した後であると判明している。

その後、非常ブレーキの使用は否定されたが、一方で、かなりの速度超過があったことが確実視されるようになり、カーブによる遠心力そのものによって横転が発生したとされるようになった。

油圧ダンパー(ヨーダンパ)故障説

複数の乗客から「油のような臭いがした」「異常な揺れを感じた」との証言があり、事故発生直前に、車掌からも輸送指令に「(揺れがひどく)列車が脱線しそうだ」と無線連絡していたことから、新幹線などの高速車両にも搭載されている「ヨーダンパ」が故障していたのではないかとの説がある。
ヨーダンパとは、Z軸(地面に垂直な仮想軸)周りのモーメントを抑える方向(地面に水平)に配置されるダンパーのこと。
鉄道車両の場合、台車の自由な回転による蛇行動を防ぐために装備される。構造(減衰の仕組み)は一般的なダンパー(主となるばねの伸び縮みする方向と同じ向きに取り付けられ、ばね運動を減衰させ、車体の不必要な動きを抑える。)と全く同じである。ヨーダンパの目的はあくまで台車蛇行動の抑制であるため、蛇行動のような加速度が大きく周期の短い動きには減衰力を発揮するが、曲線通過や分岐器通過のような加速度の比較的小さい動きには減衰力を抑え、回転運動に対する反力が発生させないような設定がなされている。

異常があったのがヨーダンパではなく枕ばねのダンパであった場合、ロール(X軸 レール方向)とピッチ(Y軸 枕木方向)の押さえが利かずに、車輌の挙動に影響がでて「いつもより揺れが大きい」と感じられることは考えられる。

睡眠時無呼吸症候群による居眠り説

当初より、事故原因の一つとして睡眠時無呼吸症候群(SAS)による運転士の居眠りをあげる意見がある。JR西日本は当該運転士に対して行ったESS検査の結果から、SASの可能性を否定しており、事故調の事実調査報告提案書では取り上げられていない。JR西日本の報告は一般のSASの調査に比べてSAS該当者数が異常に少なく、調査の信頼性に問題がある」旨の報道(毎日新聞2007年1月5日)があり、SASの可能性が完全に払拭されたかどうかは定かではない。

事故の間接的要因

同事故においては多くの問題が指摘された。

JR西日本の経営姿勢が抱える問題

  • 戦前鉄道省時代から、並行する関西私鉄各社との激しい競争に晒されている(全国的に見てもこの地域は競合する区間が特に多い)。その後の国鉄大阪鉄道管理局時代において新快速列車が登場するなど、競合する私鉄各社への対抗意識が強かった、民営化後はJR西日本社員の間でもその意識がさらに加速したといわれる。特に、事故直後は、会社による社員への懲罰的日勤教育の実情が報道され、日常的にストレスに晒されていた運転手が過密な運転スケジュールを解消するために無謀な運転をしていたことが判明している。
  • 私鉄各社との競争に打ち勝つことを意識するあまり、ダイヤ上での余裕を切り詰めてスピードアップによる所要時間短縮や運転本数増加などの旅客に好感を与えるサービスや目の前の利益を優先した。会社が収益を追求するのは当然のことであるが、安全性を引き換えにすることはコンプライアンスの観点から許されない。安全対策については、個人の経験則に頼る方法を押し通して信頼性設計フェイルセーフ・フールプルーフ)への投資を行わなかった点があるとみられる。
  • 同社においては、先述の競争の激しさや長大路線を抱えているという点でダイヤが乱れた時における乗客からの苦情殺到をかなり恐れていたとの指摘もある。(悪天候などによる、鉄道会社の責任の範囲を超えるダイヤの乱れが発生した時でも乗客が駅員に文句を並べ立てる光景は全国各地で見られるが関西では特に厳しい)
  • 同社の安全設備投資に対する動きが鈍かった背景には、先述の私鉄各社とのサービス競争を優先させたほか、阪神・淡路大震災で一部の施設が全壊ないし半壊する等の被害を受けたり山陽新幹線コンクリート崩落問題などで多額の支出を強いられたこと、東日本旅客鉄道(JR東日本)や東海旅客鉄道(JR東海)と比べてドル箱となる路線が少なかったこと、同社の赤字ローカル線において工事に伴う昼間時運休(JR東日本の場合と異なり、運休時の振替輸送や代替バスの手配はない)などが挙げられる。
JR西日本の経営姿勢に関する問題については「民営化自体に問題があるのではなく、誤った方法で利益を上げようとしたJR西日本の体質が問題であって、これを改善していくことが今後の課題である」という見解はごく一部である。

ダイヤ面での問題

  • 事故発生路線のJR福知山線(JR宝塚線)においても、阪急電鉄の主要な複数の路線(宝塚本線神戸本線伊丹線)と競合しており、他の競合する路線対抗策と同様に秒単位での列車の定時運行を目標に掲げていたとされる。
  • もともと、全体的に余裕の無いダイヤであったうえ停車駅が増加したのにも関わらず、秒単位では40秒ほど伸びているものの所要時間はダイヤ改正前と同じとなっていたために、制限速度を超えての運行と遅延が常態的であった。この区間だけではなく、かなり速いスピードで走行して停車駅直前で強くブレーキをかける方法が常態化していた。特に当該列車においては、他の時間の列車よりも速いダイヤ(時刻上、宝塚~尼崎間では福知山線の全ての快速列車の中で最速)で、事故発生区間である塚口~尼崎間でそれが顕著であった。また、事故調査委員会による運行データの分析により、宝塚駅を事故列車(当時宝塚9:03発)に先行して発車する新大阪行きの特急(当時宝塚9:02発)が、平均で約1分恒常的に遅延して運行されていたことが判明している。
  • 基本的に、100km/hで通過していた駅を停車駅に含める場合は+1分30秒ほど加算される。
  • 事故調委が全国のJR・私鉄・公営鉄道事業者のダイヤを調べたところ、余裕時間の無いダイヤを組んでいたのはJR西日本だけであった。

路線の設備での問題

  • 当該事故発生前は運行本数が多く、速度も比較的高い大都市近郊路線であるにもかかわらず、速度照査用の設備が設置されていなかった。ATS-SW形式でも、信号とは独立の速度照査機能を付加して必要箇所に地上子対を設置すれば速度超過に対する緊急停止機能が動作する。(これに関しては速度照査の記事を参照のこと)
  • 過去の線路付け替えで曲線半径が小さくなった。マンション前は軌道敷地内であるが、この場所はもともと下り線のみの区間であって上り線は現場となったマンションを挟んだ東側にあった。その後、JR東西線との直通に対応した尼崎駅の改良に伴って、下り線に併設されていた尼崎市場への貨物線跡地等を利用する形で現在の上り線が敷設された。この時点で、新規開業区間であるJR東西線区間には新型ATSが設置されていたが福知山線においては付け替え区間を含めて設置されなかった。また、このカーブの福知山寄りには、前述のように名神高速の高架橋が存在していて橋桁が軌道を挟んでいるために、用地の問題があって容易に付け替えができなかった。このため線路付け替えが安全性を無視したものであったと批判したメディアがあったが完全な誤報で、半径300m程度のカーブは日本全国に無数に存在しており(元から最高速度が70km/h程度の地下鉄路線などでは速度面では直線同然であるともいえる)、このカーブ半径自体が危険といえるものではない(あくまで脱線は速度超過によるものであり、速度超過をシステム上防げなかったことが問題なのである)。
  • カーブでの高速運転をするためにカントを付けるが、現場は緩和曲線長が短くて上限105mmより少ない97mmなのでその分制限速度が5キロ少ない。半径300メートルでカント105mm(上限値)では制限速度は75キロ。従前の「本則」では60km/h~65km/h。

車両の問題

メカニズム面

  • 207系7両編成の前4両と後ろ3両では、主電動機(モーター)の出力などの性能に微妙な差異がある(前4両は155kW・後ろ3両は200kW)。

車体面

  • 事故を起こした207系車両は、軽量なステンレス鋼製で従来の重い普通鋼製と比べると車体前面からの衝撃には強いが側面からの衝撃に弱いという報道が相次いだ。
  • 一般的に、長尺物はその材質に関わらず側面方向の衝撃が一点にかかるとそこにエネルギーが集中するので破壊が起きやすい。
  • ステンレスは錆が出ないため経年劣化が少ない点でも有利である。また、207系車両は従来の車両に近い構造の車体設計となっていて普通鋼製の車両とほとんど強度は変わらないと推測される。ただ、車両そのものがこれほどまでに脱線転覆してこのような事故が起こることを想定して車両を製作していない。
  • 電車は殆んどの事故の場合、正面から追突することを想定して正面とその周辺は他部位に比べて衝撃に耐えられるよう設計されているが今回の事故は1両目を除いて強度の弱い側面から衝突しており、特に、2両目は普段想定されていない上下から押し潰されていて被害を拡大したとされる。マンション1階の駐車場に突っ込み一部が鉄板を突き破って地階にまで達して大破した1両目も正面は比較的変形せず原型を留めていた。
  • 実際に、同年12月25日に発生したJR羽越本線の特急脱線転覆事故でも、国鉄時代に製造された旧来の普通鋼製車体の車両の一部が『く』の字型に折れ曲がるという結果からも、車体側面強度への批判は殆ど意味をなさないという見解に落ち着きつつある。
  • また、近年の電車系列における高出力の電動車を、少数連結して付随車比率を高めた編成形式が脱線した編成の先頭車が主電動機を積んでいなかったことや先述の軽量ステンレス車体と相まって脱線を容易にさせた。その反省として、事故後に製造された321系においては電動車比率を上げたとの報道も相次いだ。しかし、その321系の設計時点から、電動車比率を上げる代わりに電動車一両あたりの主電動機の数を従来の半分としており、該当事故前に既に製造が開始されていたことや事故を受けてから設計変更を行う時間を考えれば、これらの報道は誤報であると考えられる。

保守面

  • 車輌のメンテナンスが大味であるとの指摘もある。
  • 4年に1度速度計の精度を検査するよう義務付けられている。しかし、当該車両は、車両メーカーからの納入後1度も検査していなかった。
  • 事故車輌と同じ「207系」のブレーキホースを使用期限が過ぎた後も使用し続けていた事が明らかとなった(※ホースはゴム製で、劣化により破断しても非常ブレーキがかかる仕組みになっている)。

事故乗務員の問題

  • 事故を起こした運転士は、運転歴11ヶ月で運転技術や勤務姿勢が未熟であった可能性がある。この背景には、国鉄分割民営化後の人員削減策で、特にJR西日本においては他のJR各社と比べると長期間にわたって職員の新規採用者を絞り、定年退職者がまとまった数になったのを契機に採用者を増やしたため、運転士の年齢構成に偏ったばらつきが出て、運転技術を教える中堅およびベテラン運転士が少なくなったと言われている。
  • 始発である宝塚駅の構内へと進入する際、ATS(自動列車停止装置)が作動して本来の停車位置より手前に停車。修正しようと進行するものの今度は本来の停車位置をオーバーランするなどトラブルを起こしていた。また、同駅で車掌とすれ違った際、車掌が2度のミスについて運転士に理由を尋ねたが無言で立ち去ったと言う。
  • その後、伊丹駅で起こした70mのオーバーランについて、運転士が車掌に対して過走を軽減して欲しいと依頼。このやり取りの最中、車掌側に乗客からクレームがきたために打ち合わせ中に電話が切られた。了承した車掌は当初は8mのオーバーランと過少申告したとされている。運転士は事故を起こす30秒前にオーバーランについての運転指令所と車掌との無線連絡を聞いており、その内容は指令所から「1分以上の遅れについて取り戻すように」と何度も催促するものであった。この指示が運転士への心理的圧力の一つとなったとも指摘される一方、記録によるとカーブ直前であるにも関わらず無線連絡が行なわれていた40秒間に一切の運転操作が行なわれておらず事故直前に指令所が運転士に応答するように求めており、この無線連絡の応答に運転士が気を取られて運転への集中力が削がれたのではないかとする見方もある。運転士が運転中に何かメモしようとしていた可能性があることも分かっている。
  • 尼崎駅でJR神戸線の列車と相互連絡するために自らのミスによる約2分のダイヤの遅れを取り戻そうとしていた事が、速度制限を大幅に超過する運転行為に繋がったとみられている。

日勤教育の問題

  • 目標が守られない場合に、乗務員に対する処分として、日勤教育と称して再教育などの実務に関連したものではない懲罰的な処置を科していた。これが十分な再発防止の教育効果に繋がらずに却って乗務員のプレッシャーを増大させていたとの指摘も受けている。この日勤教育については、事故が起こる半年前の国会において議員より「重大事故を起こしかねない」として追及されており、事故後は「事故の大きな原因の一つである」と、多くのメディアで取り上げられることになった。事故を起こした当該運転士は過去に運転ミスなどで3回日勤教育を受けていたが、事故直前の行動からみて、何らかの注意障害(ADHDアスペルガー症候群など)を抱えていた可能性があるという心理学上の見地による指摘もある。また、当該運転士が事故前年に受けた日勤教育では「回復運転ができなかった」ことを上司に咎められていたという報道もある。
  • 会社側としての適切なフォロー(採用時の社員の適性チェックや業務の適性に合わない者に対する配置換えなど)が欠けていたが為に、また、過去のミスの事例を詳細に分析する事を怠った結果、事故を未然に防げなかったとの見方もあるが、現在に至るまで、JR西日本の日勤教育が事故の因果関係になったとの明確な立証はされていない。しかし、会社側は世論からの批判を受けて「日勤教育を含めた労務管理の在り方について検討を進める」と表明している。

その他の問題

  • JR西日本が絡んだ重大な列車事故として、1991年5月に発生した信楽高原鐵道での同社線内列車とJR西日本からの直通列車との正面衝突事故(信楽高原鐵道列車衝突事故)があり、その事故においてJR西日本には直通運転を行なう信楽高原鐵道に全く連絡しないまま同線に関わる信号システムを改変するなどの行為があったとされたが、刑事訴追はされないままに終わった(民事訴訟でJR西日本の過失が認定されたのは2004年であった)。当該事故と性質は大きく異なるものの、先の事故を起こした体質に対する反省がなされぬまま、再び当該事故を招くことになったとの指摘がある。
  • 同電車にJR西日本の運転士が2人乗車していたが、運転区長の業務優先や大阪支社長の講演会への出席の指示により救助活動を行わなかった。ただし、乗務を控えていた運転士については、そのまま出社しなければ該当線区で列車の運休など(それに伴う会社からの処分や乗客からの苦情)が発生していた可能性がある。 事故遭遇時において二次災害を防ぐための後続列車に対する緊急停止の措置等を即座に実行確認しなかったことは社員としての安全意識に欠けるものとして同措置が周辺住民により行われたことと対比され論議の対象となった。
  • 阪神・淡路大震災以来の待機体制である「第1種A体制」を優先せずに懇親行事を中止しなかったことは後述されている。
  • 事故後の調査でJR西日本管内のATSやカーブなどの制限速度の設定を誤っていた箇所が多数確認された。
  • 同電車の車掌は防護無線を発報させたつもりであったが、装置は正常に作動していなかった。緊急時には常用側から非常側に電源スイッチを切り替えるよう指導は受けていたが、切り替えないと防護無線装置と緊急列車防護装置が働かないことは乗務員に知らされていなかった。

路線の周辺環境

  • 電車が激突したマンションは2002年11月下旬に建てられた。
  • 線路とマンション間の距離は6mに満たなかった。海外メディアは事故当初、この点について強く指摘していたが、都会における土地・住宅など用地の事情から無数に存在している。

運休から運転再開へ

この事故により福知山線の宝塚駅~尼崎駅間で運転が休止された。また、同線を経由する形で運行されている特急列車も一部区間のみの運行となった。 運転再開の最低条件として、国土交通省は、この区間にATS-Pを設置しない限り運転再開を認めない方針を示した。

復旧工事は同年5月31日から開始された。その後、同年6月7日から試運転を開始。2006年3月までの暫定的な運転ダイヤを提出し、同年6月19日の始発列車より、55日ぶりの全線運転再開となった。

振り替え輸送

福知山線の運転休止期間中、福知山線沿線である三田宝塚川西伊丹周辺と、大阪神戸周辺を結ぶ経路において、振り替え輸送が実施された。

また、振り替え輸送を行った路線では、事故以前からの既存利用者にも列車・バスの車内や駅などの混雑という形で影響が及び、ゴールデンウィークが明けた5月9日からは、混雑緩和のため阪神電気鉄道や同線に至る路線などが新たに追加された。


復旧工事

復旧工事は5月30日午前8時から始まる予定であった。しかし、周辺の住民の同意を十分に得ないまま工事が行われようとしたとして一部から抗議が寄せられたため、工事は午前9時頃から中断し、30日の工事は中止になった。その後、住民の同意が得られたとして工事が31日午後から始まり6月3日に終了。そして、住民への戸別訪問による工事終了の説明をして完了した。

試験運転

6月7日以降に行われた。7日には2編成による走行試験、8日には新型の自動列車停止装置の作動試験が行われた。

運転再開

  • 6月19日に宝塚~尼崎間で運転が再開された。しかし、一部からは「まだ原因もはっきりしていないのに運転再開とはどういうことか」等といった反発もあった。
  • ダイヤは事故前から大きく変更されて快速電車の朝ラッシュ時間帯の所要時間はおよそ1分30秒伸ばされ20分になる。
  • 当面の間宝塚~尼崎間の最高速度は120km/hから95km/hに、また、遺族や近隣住民への配慮の点から事故のあったカーブの制限速度は70km/hから60km/hにそれぞれ引き下げられた。
  • 再開翌日の夕方、現場のカーブを通過しようとした特急列車が速度超過により緊急停車した。場所が場所、時期が時期なだけに報道陣の目の前での停車となって、皮肉にも速度照査機能が正常に作動した事を証明した形となる。即日中に国交省より注意を受ける。

その後

  • 2006年3月18日のダイヤ改正で、福知山線を含めた同社の路線全体におけるダイヤの余裕時分を増やし、駅ごとの乗降数に応じて停車時間も10秒~1分ほど延長された。その他、それに伴って乗務員や車両が不足する状況への策として、同社の路線全体で140本の列車が削減された。
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塗色の塗り替えが進む207系(住道駅・2005/12/10 by O.k.)
  • この事故の後に登場した321系の車体帯の色が、当初予定されていた青2色から、紺・オレンジを基本とする配色に変更された。また、事故車と同じ207系も同様に配色変更された車両の営業運転が開始されており、2006年3月までに対象車両全車、塗装変更が完了している。
    • ただし、この塗色変更については、逆に遺族、関係者から「塗装を変える金があるなら保安装置などに回すべきだ」「塗装を変えるより会社の体質を変えろ」などの批判が起きている。
  • 一方で、報道や現場などでは「安全対策は進んでいない」という声も根強かった。
  • 事故から1年を迎える2006年4月25日から、NPO法人「市民事務局かわにし」の主催で名刺大のカードに貼り付けた青色のリボン2万個が配布されることになった。
  • 事故後1年となった2006年4月25日に行われた追悼式典では、犠牲者107名のうち106名が追悼対象とされて事故列車の運転士が追悼対象から除外されている。
  • 追悼式典の前後の数日間、被害者や遺族に現場であるマンション内のピット部分が公開された。また、合わせてマンション内に安置された「お地蔵様」周辺が一般向けに公開されている。

補償問題

JR西日本は、電車が激突したマンションを買い取り、慰霊碑を建てることとともに現場の保存を検討していることなどを発表した。マンションの住民には買い取りを望んでいない人もいたが、マンション購入時の価格で買い取るという条件などで2006年4月までに補償交渉はほぼ終了した。

また、遺族に対し生活費などの補償の仮払いもJR西日本は行っていたが、事故後数ヶ月でこの仮払いは打ち切られた。

沿線への影響

運休が2ヶ月近くに及んだため、駅周辺の商店街の利用者が激減し、営業時間の短縮・休業により商店街への売り上げの影響を受けている。福知山線の駅周辺の商店街が経営難に陥り閉店する恐れがあると懸念されていると報道された。


JR西日本人事への影響

事故があまりにも甚大であったために経営陣の引責辞任は不可避であると見られていたが、後継人事は難航した。 結局、2006年2月1日付で南谷昌二郎会長と垣内剛社長は退任して山崎正夫副社長が社長に昇格。外部(住友電気工業)から顧問として倉内憲孝を迎えることになった。 なお、相談役であり国鉄民営化の立役者としてJR西日本への影響力が強かった井手正敬もその職を辞した。 しかし、その後に旧相談役の井手正敬や当時の大阪支社長であった橋本光人など、事故によって引責辞任に追い込まれた役員10人がJR西日本子会社の幹部に天下りしていたことが判明して遺族からは強い反発が出ている。

個人情報保護法上の問題

この年の4月1日に「個人情報保護法」が施行された直後の事故であったために「負傷者に関する個人情報を家族に流していいのかどうか」について現場(病院やJR西日本)が混乱した。法律上の結論として人命にかかわる場合の(同意なしの)個人情報提供は適法である。しかし、現場レベルではその旨が十分に周知されていなかったための萎縮効果により「(個人情報は)教えない方が無難」との判断を招いた。

最終的に、遺族やマスコミの批判を受けた厚生労働省が法律上の解釈を示し教えるよう指導して決着した。

マスメディアへの影響

報道のあり方について

  • 事故直後のマスメディアの報道は、先述の同社社員の一部の行動(日勤教育問題・救命活動の不参加など)を批判するものが多かったが、次第にJR西日本批判へと移り、事故再発防止のための本質を問うための報道との乖離も見せ始めた。
  • ダイヤ面の問題を指摘する報道で、福知山線を「過密ダイヤ」と評するメディアが後を絶たなかったが、実際のダイヤにおいては余裕時間こそ少なかったものの、わが国の他の路線と比べ列車本数的に過密であると定義するには言い難い部分もあるとの指摘もある。しかし、どの点において過密問題があるのか、何と比較してのものなのか、そしてどこを改善するべきか、正確な説明があった報道は少ない(そもそも「過密ダイヤ」の定義が無いためにこれを実証することはかなり難しい)。そもそも、過密云々を言うならJR西日本に限らず、通勤や帰省などのラッシュ時の「乗車率200%」などという状態自体が、事故が起こるかどうか以前のレベルで異常なのであり、これを批判しないマスコミは根本的に矛盾している。
  • また、事故当日に同社社員が救助や阪神・淡路大震災以来の待機体制である「第1種A体制」を優先せずに、時間とともに事故の規模が判明していき犠牲者も増えているのにもかかわらず、ボウリング大会などの懇親行事を取りやめずに開催してどのような様子でしていたのか、居酒屋などで4次会までしてどのような飲食をしたのかといった事故をおこした会社の社員としての自覚や事故の原因究明、再発防止をないがしろにしていないかとの報道もあった。
    • これに関しての釈明記者会見で、読売新聞大阪本社の社会部記者が、JR西日本の当時の社長らに「何が信頼回復やねん!!もういっぺんいうてみぃ!!」「人が死んでるんやで!!」と激怒を飛ばしたことで話題になる。(関連リンク1同2
  • この事故を契機に、全国各地で相次いだ事件とインシデント(事故を引き起こす危険性が高い事態であったが、実際には事故とならなかった案件。)が連日報道される。
  • この事件以後、鉄道関連で大きな事故があると、いわゆるハインリッヒの法則に基づき「人間は必ずミスをするものであるから、万一ミスをしても大惨事にならないような安全装置の取り付けを積極的に推進しなければならない」「安全基準の引き上げをするべき(明確な安全基準を設けるべき)」との報道がしばしば行われるようになった。

上記のように、事件後はマスコミによる過剰ではないのかともみられている報道と、それを受けた民衆によるJR西日本への批判が目立つものの「これら一連の感情的なJR批判や焦点のずれた意見が、本来の目的である事故の原因究明、再発防止とどれほどの関係があるのか」「一般のJR西日本社員に対する一方的な中傷ではないのか」との意見も当初から指摘されている。また、報道を受けて後で述べているような現場の職員に対する心ない行為(犯罪も含む)が相次いだ。

番組への影響

その他の影響

社内への影響

スポーツ活動

脱線事故を受け、社内運動部であるJR西日本硬式野球部はすぐに活動自粛を発表、同年7月には日本野球連盟に休部届を提出して、活動休止状態になっていた。毎年行われていたJRグループの対抗戦も中止となった。

JR西日本安全研究所

JR西日本は2006年6月、鉄道総合技術研究所理事であった白鳥健治を所長に招き、JR西日本安全研究所を設立して「安全マネジメント」「ヒューマンファクター」「保安システム」を主たるテーマとして安全研究をすすめると発表した。[1]

海外の反響

この事故は、海外でも大きな反響を集めて各国の報道機関がトップで報道した他、ジャック・シラク・フランス大統領、ヨシュカ・フィッシャードイツ外務大臣、コンドリーザ・ライスアメリカ合衆国国務長官、王毅中華人民共和国大使も日本政府に弔意を表明した。

事故後の関連事件

事故発生後、これに便乗した第三者による事件や、事故が遠因となっている関連事件が発生している。残念なことにこれらの事件の容疑者は未だ逮捕されていないケースが多い。

便乗事件

  • 事故には直接関係のないJR西日本の運転士がホームで蹴られるなど、乗務員や駅員への暴行や嫌がらせなどが相次いで発生。乗務員の交替の際に警備員が警護する事態に発展する。これらの影響もあり、社員のなかにも辞めていく者もいたという。
  • 東海道線の新快速電車の運転室の後ろにある窓に「命」と書いた紙が上下逆さにして貼り付けられる。
  • 振り替え輸送を行う路線において、混雑が増したことに便乗した痴漢、スリなどの犯罪が増加する。
  • 広島県内の山陽本線や可部線千葉県内の東金線宮崎県内の日豊本線などで脱線事故を真似て線路上に置き石をして列車を脱線・横転させようとしたり、自転車などを置いて列車に衝突させる事件がJR西日本のみならず他地域のJR、私鉄にも広がって見つかり、逮捕者が出る。(小学生による事件が数件あって補導されている)
  • 事故列車に乗り合わせていたと偽り、JR西日本から見舞金をだまし取った詐欺容疑で複数人が逮捕される。
  • 事故を引き合いにして直接関係が無いJR九州の駅設備などを酔って破壊した男が逮捕される。
  • 車庫に止めてあった電車に事故に関連した内容の落書きが書かれる。

108人目の犠牲者

  • 2006年10月15日、事故により同棲していた恋人を失ったのを苦に32歳の女性が飛び降り自殺した。遺書にはJR西日本に対する恨みが綴られていた。恋人とは籍を入れていなかったためにJRからは遺族として認められていないことなどを悩んでいたという。遺族連絡団体「4・25ネットワーク」では、この女性を「108人目の犠牲者」としている。

JR福知山線脱線事故を扱ったテレビ番組

報道番組など

事故を振り返る番組が地元テレビ局である毎日放送などで被害者などのインタビューやその後の責任追及などを綿密に取材したドキュメント番組などが作成された。また、NHKの「にんげんドキュメント」や「ETV特集」などでもドキュメント番組として放映されたことがある。

ドラマ化

事故からほぼ1年後の2006年4月21日、フジテレビの金曜エンタテイメントで「家族たちの明日 ~尼崎列車事故から1年~」として本事故を扱ったテレビドラマが放送された。主演は萬田久子市毛良枝吹石一恵で、3部構成のオムニバス形式となった。ただし、このドラマ化に対しては遺族や被害者から根強い批判もあった。

ドキュメンタリー

事故からほぼ2年後の2007年4月23日NHKの「NHKスペシャル」内で『トリアージ 救命の優先順位~JR福知山線事故から2年~』として本事件を現場医療の面から扱ったドキュメンタリーが放送された。また、翌24日深夜(このため、正式な日時は4月25日未明)に、関西テレビの「ザ・ドキュメント」でも『あの日の記憶~JR福知山線脱線事故から2年~』が放送されている。

関連項目

参考文献


外部リンク

座標

  1. テンプレート:ウィキ座標世界日本

ニュース

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