神戸連続児童殺傷事件

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神戸連続児童殺傷事件(こうべれんぞくじどうさっしょうじけん)は1997年兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の中学生東 真一郎による連続殺傷事件。別名『酒鬼薔薇事件』『酒鬼薔薇聖斗事件』とも呼ばれる。この事件で、2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。

概要

数ヶ月にわたり、複数の小学生が殺傷された事件である。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴なった点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。

警察は聞き込み捜査の結果、少年Aが動物への虐待行為をたびたびおこなっていたという情報や、被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、対象が中学生であるため、極めて慎重に捜査は進められた。

一方で、中学生には到底不可能な犯行とされること、警察が少年Aに虚偽の説明をして調書を作成したとされることなどで冤罪の可能性も指摘されている。

事件の経緯

第一の事件

1997年2月10日午後4時ごろ、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。

犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。

この事実により、犯人逮捕後、学校側に対し、「この時点で何らかの対応をしていれば第二・第三の事件は防げたのではないか」、「結果的に犯人をかばっていたことになる」との批判が起こった。

第二の事件

3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年Aの日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月27日に脳挫傷で死亡した。

さらに、午後0時35分ごろ、別の小学生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。

第三の事件

5月24日

5月24日午後、神戸市に住む男児を通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台に誘い出し、殺害。

少年Aは人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために、昼過ぎにママチャリに乗って家を出た。町内を約10分くらいブラブラしながら自転車を走らせた。その後、多井畑小学校の北側を東西に走っている道路の北側の歩道を、東から西に自転車を走らせていたところ、多井畑小学校の北側の歩道上に少年とは反対に、西から東に、1人で歩いてくる男児を偶然みつけた。

男児は同地区に住む放射線科医師の次男で、当時11歳であった。男児は祖父の家に行くといって午後1時40分ごろ、自宅を出ていた。咄嗟に少年Aは「○君ならば、僕より小さいので殺せる」と思った。少年Aが男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、田井畑小学校の5年生ころで同じ小学校のなかに、身体障害者のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後、男児が少年の家に遊びに来るようになった。これは少年Aが直接知り合ったわけではなく、少年Aの一番下の弟が同級であったからである。その際に少年Aの家で飼っていたカメに男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。

咄嗟に「○君を殺そう」と思い、男児の方へ近づいた。近づきながら、少年Aは殺す場所を考えたが、タンク山が脳裏に浮かんだ。かつ、タンク山のケーブルテレビアンテナ施設のところならば、少年A自身よく知っており、人に見られることもないと考えそこで男児を殺そうと考えた。少年Aは男児に対し「青い色のカメがいる」とタンク山に誘い出し、その場で絞殺して遺体を隠した。

殺害は絞殺であったが、当初は手で締めていたものの、なかなか死なないため腕が疲れ、さまざまな体位で試み、ナイフで殺そうと考えるが、ナイフを忘れたことに気付く。そこで埋まっていた石があったため、撲殺を思いつき石を持とうとするが土中深く埋まっていたため、動かなかった。このため、今度は自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、左足の運動靴の紐を少しずつ解いていく。それを輪にして首にかけうつ伏せになった男児の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げる。一生懸命殺そうとするのになかなか死んでくれない男児に対し、少年Aは腹を立て、男児の顔や頭を踵で蹴ったり顔を殴ったりしている。最後は、仰向けになった男児の腹部に馬乗りになり靴紐を力一杯引く。このとき少年Aの手にはギュッと食い込む手応えがあり、しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。さらに、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスか桟に結びつけ、さらに締め続けた。死んだと思った後には男児の左胸に右耳を当て心音を確認している。 殺害の後、少年Aは男児の死体をどうするか考えたが、放置すればすぐにみつかってしまうと考えた。死体は発見されないに越したことはないし、発見されるにしても、できるだけ遅らせたいと考えた。死体が発見された段階で警察の捜査が始まると考えたからである。男児の死体は重いため遠くへは運べないと考え、ケーブルテレビアンテナ施設のなかの鉄の建物の床下が草が茂り、みえにくいと考えたが、施設の入り口には鍵がかかっていたため、咄嗟にその南京錠を壊し、床下へ運び込むとよいと考えた。そのための道具として糸ノコギリを準備しようと考えた。同時に、南京錠を壊しただけでは不審に思われると考え、新たな南京錠に付け替えるとよいと思い、かつて、カメの餌を買ったり、小学校6年当時に同級生仲間と斧、のこ、鎌を万引きしたりしたことがある生活協同組合コープこうべリビングセンター北須磨店(のちに、コーナンに変わったが、現在は万代スーパーになっている)で万引きすることを思い付く。

万引きしようと考えたのは、ひとつにはお金がなかったこと、ひとつはお金を出せば店員に顔を覚えられる可能性があったためである。男児をそのままにして少年Aは登ってきた道順と同じ道順でタンク山を降り、ママチャリに乗り、コープリビングセンター北須磨店へ向かった。そこでまず、糸ノコギリを盗む。次いで南京錠を盗んだ。南京錠は形や大きさが大体同じであればよいと考えていたので、正確に大きさを確認してはいない。その後、ふたたびママチャリでタンク山の「チョコレート階段」[1]を登ったりして男児と一緒に上った道順と同じ道順[2][3]でケーブルテレビ施設の前まで戻った。1分くらいかかって南京錠を切断すると、両手を男児の脇の下に入れ、上半身を浮かせて下半身は地面に付けたような感じで後ろ向きに引きずって施設の中へ入れた。

ところが、鉄の建物と施設の入り口との間にアンテナが置いてあったため、男児の死体を建物の床下に入れるには、そのアンテナが邪魔になったため、いったん死体を置き、アンテナをずらしさらに引きずり床下へ死体を蹴り込むような感じで押し込んだ。押し込んだ後で建物付近に男児の運動靴が一個落ちていたため、靴を拾い上げて死体のそばへ置いた。その後、万引きした南京錠を施設の出入り口のフェンスにかけるとタンク山を降りる。

この後、友人とビデオショップVの前で待ち合わせしていたため、万引きした糸ノコギリは邪魔になる上、友達に疑われる可能性があると考え、死体を隠したすぐ側の溝の落ち葉の下に隠した。切断した南京錠はジーパンのポケットに入れて持っていた。男児を殺した時点で待ち合わせ場所へ行っていたならば、午後4時には十分間に合っていたが、コープリビングセンター北須磨店に行ったり、死体を隠す工作のため時間がかかったりして、友達らとの待ち合わせ場所であるビデオショップV前へ着いたのは当日午後4時25分から30分の間であった。その後、友達らと遊んだ後、午後6時過ぎごろに自宅へ帰っている。

家に帰ると、少年Aの母が「○君がおらんようになったみたいよ」と言ったが、少年は「ふうーん」と返事をした。その後、少年は2階の自室へ上がっている。その後、疲れた少年Aはベッドで寝てしまったため、夕食はとっていない。少年Aは、早く寝たときはよく夜中に目を覚ましたが、この日も時間は不明ながら目を覚ました。その際に一日のことを振り返った。男児を殺したときの様子を思い出すうちに、南京錠を切るのに使った糸ノコギリを施設内に隠しているのを思い出し、フッと自然にその糸ノコギリで人間の首を切ってみたいという衝動に駆られた。

具体的には、人間の体を支配しているのは頭だから、その司令塔である頭を胴体から切り離してみたい、その時に手に伝わってくる感覚や、切った後の切り口もみてみたいと思った。少年Aはそれまでに何十匹というネコを殺して首を切ったりしたが、ネコだとナイフ1本で簡単に切れるため、もっと大きなもの、しかも、自分と同じ種族である人間を切ってみたいと考えた。この衝動は以前からあったかもしれないが、ずっと忘れていて、この時、急に衝動に駆られたと供述している。

午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。

5月25日

この日より、警察、PTA、近隣の保護者などが捜索に参加、公開捜査に踏み切る。

少年は10時から12時にかけて起床し、自分でパンを焼いて食べ、昼過ぎ(午後1時から3時の間)に男児の首を切るために自宅を出る。少年は人間の首を切ると大量の血が出ると考えたため、黒色のビニール袋2枚を準備する。首を切った後の糸ノコギリ持ち運ぶため、学校で使用している補助カバンももって出る。さらに、「龍馬」のナイフ3本と出刃包丁1本を持っていたが、「龍馬」のナイフの内、2本は親に取り上げられていたため、その1本をジーパンのポケットか腹に差して持って出た。

この日もママチャリに乗ってタンク山の下へ着いた。殺害日にはあせっていたため、「チョコレート階段」下に自転車を停めたが、この日は余裕があったため、人目に付かぬよう、入り口よりも右側に自転車を停めた。タンクの周りの獣道からケーブルテレビアンテナ施設へ着くと、新たに付け替えた南京錠の鍵を持っていたため、それで南京錠を開ける。この供述を聞いた検事は、当初、少年は「付け替えた南京錠の鍵は5月24日に捨てた」と話していたため、質問をすると少年は「僕の思い違いだったと思います」と答えている。

アンテナ施設の中に入った少年は隠していた糸ノコギリを取り出すと、「局舎」の床下に隠していた男児の死体の肩の服の部分をしゃがみこんで引っ張り、胸から上を床下から引っ張り出し、男児の首が溝の上付近に来るように置いた。このときの少年は特にワクワクするという気持ちはなかったと供述している。男児の首の下にビニール袋を敷くと、糸ノコギリの両端を持ち、一気に左右に2回切る。ノコの歯が細かったため、スムーズに切れ、切り口がのぞく。人間の肉が切れることを確認した少年は左手で男児の額のあたりを押さえながら、右手で首を切っていく。この時、少年は「現実に人間首(ママ)を切っているんだなあ」と思うと、エキサイティングな気持ちになったと供述している。首を切っていく内に、段々と頭の安定が悪くなったため、男児の首の皮が1枚になった時に左手で髪をつかんで上に引っ張り上げ、首の皮を伸ばして一気に首の皮を切った。その後、しばらく地面に置き、鑑賞しながら、「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感にひたった。

ところが、しばらくすると、男児の目は開いたままで、眠そうにみえ、どこか遠くを眺めているように少年にはみえた。さらに、男児は少年Aの声を借りて、少年に対して、「よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか」という文句をいった。それで、少年Aは男児に対し、「君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか」といい返した。すると、男児の首はさらに文句をいった。少年Aは、これは死体にまだが残っているためだと考え、魂を取り出すため、また、眠たそうな男児の目が気に入らなかったため、「龍馬」のナイフで男児の両目を突き刺し、さらに、両方の瞼を切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。さらに少年Aは男児の首を鑑賞し続けたが、その後は文句をいわなくなった。さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」として持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直でかなわなかった。さらに、ビニール袋に溜まった男児の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている。

後に、少年Aは人の気配を感じ、来た方向ではなく、北須磨高校への獣道をたどり入角ノ池へ向かう。この池付近の森は人が来ず、ゆっくりと男児の頭部を鑑賞するのが目的であった。男児の頭部の入った黒いビニール袋を右手に持ったまま町中を歩いたが、特に神経がピリピリすることもなく、ボッーとしたような、しかし、いつもと同じ気持ちで歩いた。

池に向かうまでに、少年Aが多井畑小学校に通学していた当時に見覚えのある女性に出会っているが、少年は多井畑小学校の教職員だと思う。少年Aは女性が男児を探しているのだと考えた。その後、向畑ノ池の横を通り、池の南側の友が丘西公園へ行く。さらに、公園内に入り、公園のフェンス横の出入り口から森に入る。森に入ると道が険しくなったため、少年は糸ノコギリを入れていた補助カバンを腹の中から取り出すと、男児の首の入ったビニール袋を補助カバンに入れ直す。

さらに、右手に持ったまま入角ノ池へ歩き出すが、途中、機動隊と少年が思った3人に出会う。少年が機動隊と考えたのは、少年が知る警察官の格好ではなく、黒っぽい服に前にツバの付いた帽子をかぶり、肩には細い縄を掛け、身長よりも長い棒を持っているためであった。その3人の一人から「君はどこから入って来たんだ」と聞かれた少年は「公園の入口から入って来ました」と答えた。すると、その中の一人が少年に向かって「危ないから帰りや」といった。少年Aの記憶では3人に出会ったのが池へ向かう途中なのか、帰りなのかはっきりしない。検事に機動隊と思われる人たちに出会ったときの気持ちを聞かれ、「別になんとも思わず、平常心でした」と答えている。入角ノ池へは、過去に数回行ったことがあった。

少年Aは池に着くとロープを伝って池の淵へ下りる。男児の首を隠す場所を物色したところ、池付近に木の生えだしたところがあり、木の根元に丁度首の入る位の穴をみつける。そこで補助カバンから男児の首を取り出すと、至近距離からふたたび鑑賞する。少年Aは新たに人のいないところで首を鑑賞すれば、何か新しい感動が得られるのではないかと期待してのことであったが、たいした感動は得られず、「ああ、こんなものか」と思った程度であったと供述している。そのため、2-3分しか鑑賞せず、ビニール袋に入れると穴の中に袋ごと男児の首を押し込んだ。ふたたび来た道を帰り、向畑ノ池で糸ノコギリを投げ捨てた。その後、タンク山下付近に停めた自転車を取りに戻った後、帰宅した。時間は不明である。この夜も、少年Aは目を覚まし、物思いにふけるが、死体が時間とともにどう変化するかに大変興味を持つ。

5月26日

5月26日、少年Aは10時頃に起床し、男児の首を見るため池へ向かう。この日は、5-6分観察する。少年Aの言葉では、鑑賞ではなく観察したという。観察の結果、男児の顔などは色が25日に増して青白くなっていただけで大きな変化はなく、もっと大きな変化があると期待していた少年はがっかりした。変化がなかったことから、興味がなくなり、今度はどこへ隠そうかと考え始めたが、日本の警察ならどこに隠そうと遅かれ早かれ胴体も頭部も発見されるだろうと考え、そうであるなら、むしろ自分からあえてさらすことで、警察の捜査から自分を遠ざけようと考えた。そのために、自分の通う友が丘中学校が警察にとって盲点になると考えた。

少年Aの供述では「友が丘中学校の生徒が、自分が通っている中学校に首を置くはずがないと思うだろうし、そうなれば、捜査の対象が、僕から逸れると考えた」からであった。もう一つの理由として、「僕自身、小さいころから親に、人に罪をなすりつけてはだめだといわれて育ちました」からだという。さらに、「それで、僕は、一方ではそんな僕自身に対して嫌悪感があったので、何とか責任逃れをしたいという気持ちもありました。しかし、人に罪をなすりつける訳にはいかないので、僕自身を納得させるために、学校が○君を殺したものであり、僕が殺したわけではないと思いたかったのです。単に、学校に責任をなすりつけるための理由であり、実際に学校に対する怨みや学校の教育によって、こんな僕ができてしまったと思っていたわけではありません。友が丘中学校に○君の首をさらすにしても、どこに置くかと考えましたが、当然、それは一番目立つ場所がよいと思い、そうなれば、当然、友が丘中学校の正門に置くのがよいと考えました。そこで、僕はふたたび○君の首を入れているビニール袋の入口を引き上げて、○君の首をビニール袋の中にすっぽりと入れて袋の口を閉じました。そのビニール袋を持って、入角ノ池から自転車を停めている友が丘西公園まで歩いて行き、そこから○君の首を入れたビニール袋を自転車の前カゴに入れて、自転車に乗って家へと帰ったのです。家に帰った時には、家には誰もいませんでした。家に帰る途中、僕は○君の首を洗うことを考えました。その理由は2つありました。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱを洗い流すためでした。あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらうわけですから、血で○君の顔が汚れていたので、「せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれよ、君の初舞台だよ」という意味で顔を綺麗にしてやろうと思ったのです。そこで、家に帰った後、僕は、すぐに1階の台所の奥にある風呂場に○君の首を入れたビニール袋を持って行きました。そして、そのビニール袋を床に置き、庭にタライを取りに行きました。そのタライを風呂場に持ってきた後、ビニール袋から○君の首を出し、その首をタライに入れました。」

その後、少年Aは風呂場の水道の蛇口にホースを取り付け、水を出し、そのホースでタライの中に立てて置いた男児の首に水を掛ける。頭に掛けたり、顔に掛けたり、あるいは水を掛けながら手で顔を拭いたり、頭をゴシゴシ洗ったりした。また、首の切り口部分にも泥が残っていたため、そこも洗う。さらに、口を両方に切り裂いた傷口にも水を掛けると、その水がおのずと口の中までを洗った。以上の作業は少年Aの供述によれば、かなり丁寧におこなわれた。ここで、検事は少年Aにこう質問した。

「君は、○君の首を切断した時には、○君の舌を切り取ろうとしたと話しているが、この時点で舌を切り取ることは考えなかったのか」

これに対して少年Aは

「考えませんでした。それは、僕が○君の首を切った時の感動を思い返すためだったのであり、この時点では時間が経ちすぎていて、切り取ったとしても過去の産物になってしまうからです。要するに、この時点で〇君の舌を切り取ったとしても、切り取った舌を後で見ても、その舌から思い出すのは、〇君の首を洗っている時のことであり、その様なことを思い出しても意味がないからです」と答えた。

洗い終わると、少年Aは風呂場にあったタオルで男児の顔や髪の毛を拭いた。拭いた後には、男児の髪を洗面所にあった櫛かブラシでとかした。その後、少年Aは首を入れていたビニール袋と血を入れていたビニール袋を風呂場で洗った後、首を入れていたビニール袋に男児の首をあらためて入れた。首は友が丘中学校の正門前にさらすつもりであったが、人目を避け、深夜に持ち運ぶつもりで、その間、自室の天井裏へ隠した。少年の部屋の天井は片隅の天井板が自由に動く構造になっていた。その後、少年Aはベッドに横になり、思いをめぐらすが、男児の首を校門へ置くだけでは警察の目を自分から逸らすには物足りないため、さらに捜査をかく乱する方法を考えた。すぐによい方法は思い浮かばなかったものの、その日の夜までに少年Aが考え付いたのは男児の首に何かを添えればよいということだった。そう考えたとき、男児の口が開いているため、添える物は口にくわえさせようと考えた。加えさせるものは何がよいかと考えていくうちに、手紙が一番だと考えたが、その理由は「偽りの犯人像」を表現するには、手紙が一番表現しやすいと思ったからである。

その日の夕食は家族とともに食べたと思うが、はっきりとは覚えていないと供述(7月10日)している。夜になり、手紙にはどんなことを書くべきか自室で考えた。これまで読んだことのある本の中から覚えている言葉や自分で頭に浮かんだ文章等を思い浮かべたりしたが、さらにインパクトのある表現が必要と考えた。そこで、自室にあった漫画本の内、『瑪羅門の家族』第3巻の目次に「積年の大怨に灼熱の裁きを」という文章が目に入ったが、この文章をみた少年Aは「積年の大怨」ということになれば、長年積もり積もった恨みを持った者の犯行と読んだ人間は思い、そうなればある程度歳のいった者の犯行と思われるのではないかと考えたため、この文章を使うことにした。ただ、「灼熱の裁きを」というところは別に男児の頭を焼いたわけではないので、イメージに合わないと思い、むしろ、血を連想するのがイメージに合うと考え、「流血の裁きを」という表現にしようと考えた。

さらに、7月10日の少年Aの供述はこう続く。

「そして、僕が考えた文章は、今でもよく覚えています。僕が書いた文章については、赤のペンと黒のペンで書きましたので、それぞれのペンを貸してくれれば、僕が書いたとおりに再現することができます」 (このとき、担当検事は、少年Aに対し、白紙とサインペンを渡したところ、任意に文章を作成したので、それを受け取り、資料一として、この調書の末尾に添付することにした)

さあ、ゲームの始まりです。
愚鈍な警察諸君
僕を止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
SHOOLL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇

「今書いたように、○君の口にくわえさせる文章を書きました。なお、この文章の中で、『愚鈍な』という文字は、僕が別の本で読んで覚えていた文字であり『積年の大恐に流血の裁きを』というところは、先程話したように、『瑪羅門の家族』というマンガの本の第3巻の目次のところをそのまま書き写したのです。今書いた文章だと『恐』という文字を書きましたが、僕自身、この時はそのマンガを見ながら書いたのであり、僕が覚えていた字ではなかったので、間違っているかもしれません」

この時、検事は少年Aに質問する。

「『汚い野菜』という表現は、どういうところから考えたのか」

「これは僕自身の言葉です。僕は小さい頃、親に『運動会で緊張するなら、周りの人間を野菜と思ったらいいよ』と言われていました。そこで僕は、周りの人間が『野菜』に見えてしまうのです。その他、ほとんどの文章は、僕は頭で考えたものであり、テレビで言っているような、何か小説から引っ張り出したといったものではありませんでした。この手紙には、マークを書いていますが、これは僕のマークであり、ナチスドイツ逆卍をヒントにしたものです。ナチスドイツの逆卍については、テレビでも見たことあるし、僕自身ヒットラーの『我が闘争』という本を読んでいました。この僕のマークは、小学校の頃に作ったものです。英語でSHOOLL KILLと書きましたが、その時僕は、これでスクールキラーと呼ぶものだと思っていたので、このように書いたのです。この手紙を書いた用紙は、部屋にあったスケッチブックに書きました。この手紙を包んだ紙も、同じスケッチブックの紙でした。包んだ紙の表の面には、『酒鬼薔薇聖斗』と赤いペンで書き、その名前の下に同じマークを黒のペンで書きました。裏の面には何も書きませんでした。『酒鬼薔薇聖斗』とは、別の機会で話したように、僕が小学校5,6年生の頃に、悪い方の僕自身に付けた名前でした。『酒鬼薔薇聖斗』についてもマークを作っていました。そのマークは(調書にはその絵が添えられている)でした」

検事「酒鬼薔薇聖斗のマークもあると言いながら、なぜこの時は君のマークを付けたのか」

少年A「分かりません。これらの文章は、5月26日の夜、僕の部屋で一気に書きました。なお、この文章を書くのに利用した『スケッチブック』や『瑪羅門の家族』の第3巻は、後で燃やしたと思います。このようにして、僕は、警察の捜査を撹乱させる目的で、○君の頭部の口にくわえさせる手紙を完成させました。僕は、○君の首を友が丘中学校の正門に置きに行くためには、家の者が寝静まった夜中がいいと思いましたので、夜中になるのを起きて待ちました。そして正確な時間は覚えていませんが、平成9年5月27日の午前1時頃から午前3時までの間に、○君の首を置きに行ったのです」

この日、男児の行方不明事件として警察が捜索開始。

5月27日

少年Aは、深夜未明、男児の首を友が丘中学校の校門前に置きに行くために、自室の天井裏に置いていた黒色のビニール袋を取り出す。さらに、男児の首にくわえさせる手紙をジーパンのポケットに入れる。ビニール袋は補助カバンに入れた。少年Aの部屋は2階にあるため、1階に下りるには階段を下りねばならない。同じく7月10日の少年Aの供述によれば、

「しかし、僕の家の階段は、上り下りすると『ギー』という音がしますし、両親の部屋は、その階段のすぐ側なので、階段を下りて行けば、両親に見付かってしまう可能性があると思いました。そこで僕は、僕の部屋の窓から外へ出ることにしたのです。でも、重たい○君の首を持ったままで、窓から外へ出るのは難しいと思いました。そのため、僕は、僕の机の中から電気コードを2,3本取り出し、それをつないで、片方の端を〇君の首を入れている補助カバンにくくりつけ、それを庭まで降ろしました。その後、今度は僕が窓から降り、先に降ろした補助カバンを持って、自転車置き場まで行き、僕が使っているママチャリの前のカゴの中に、その補助カバンを入れました。そして、ママチャリに乗って、友が丘中学校の正門に向かって行ったのです。僕の家から友が丘中学校の正門までの道順については、今検事さんから受け取った地図に赤のボールペンで書き込みました」

(この時、担当検事は、少年Aが任意に作成し、提出した図面を受け取り、資料二として、本調書末尾に添付することにした)

「友が丘中学校の正門の手前は、今地図に書いたように、車道ではなくて、歩道を通って行きました。僕の家を出た後、友が丘中学校の正門までは、誰とも会いませんでした。(つづく)


5月27日早朝、二枚の紙片(犯行声明文)が添えられた被害男児の頭部が市内の友が丘中学校正門前で発見される。紙片のなかで、少年Aはみずからを「酒鬼薔薇聖斗」と称し、捜査機関などに対する挑戦的な文言をつづっている。

警察は記者会見で「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの黒田清が「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。

6月4日神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である[1]

6月28日、少年A逮捕。

少年A逮捕以降の動き

  • 6月29日、兵庫県警捜査本部は、少年Aを男児殺害・死体遺棄容疑で神戸地検送検。10日間の拘置が認められる。
  • 6月30日、頭部を一時、自宅に持ち帰ったなどの供述が報道される。
  • 7月1日、頭部切断は儀式とする供述が報道される。
  • 7月2日、少年Aの顔写真が掲載された『フォーカス』が発売される。犯行の経緯について「カメを見せる」と誘ったなど供述が報道される。
  • 7月6日、兵庫県警が向畑ノ池の捜索で、金ノコギリを発見。その様子が報道される。
  • 7月8日、拘置期限が切れたこの朝、地検は拘置延長を請求。神戸地裁は10日間の拘置延長を認める。池からハンマーが発見される。
  • 7月9日、別のハンマーが向畑ノ池で発見される。
  • 7月11日、少年Aをバスに乗せ、タンク山とその周辺を実況見分。
  • 7月15日、2月と3月の通り魔事件で少年Aを再逮捕。
  • 7月16日、午前に捜査本部は通り魔事件で少年Aを送検、10日間の拘置請求が地検で認められる。
  • 7月17日、少年宅から押収された犯行メモの内容が報道される。
  • 7月21日、警官2名が、少年Aの二人の弟に対し、少年Aが再逮捕された通り魔事件について、Aの学校での行動、言動などを聞く。特に少年Aの母方の祖母の死の前後の様子を執拗に尋ねる。
  • 7月24日、警官が少年Aの両親に対して、被害者側に対し電話なり、詫びをすることを促す。この際、警官は「誤認逮捕はありえない。もし、誤認逮捕であれば、兵庫県警は今後存続しないでしょう」と話す。

少年Aの犯行時の心境

5月24日の第三の犯行時、男児を殺しているときは、一生懸命殺そうとしているにもかかわらずなかなか死なない男児に対して腹が立ったりしたものの、同時に男児を殺しているという緊張感、あるいはなかなか死なない怒りなども含めて、殺していること自体を楽しんでいた。最終的に男児が死んだと分かったときには、殺したことと男児が自分だけのものになった満足感でいっぱいになり、その満足感は過去2回の殺人で得られるであろうと思っていた満足感よりももっとすばらしいものであった供述。

3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で女児2人を襲った際には、後日、ハンマーで殴った女児が死んだことを知ったが、一瞬のことなので大きな満足は得られなかった。男児の場合は殺すのに時間がかかったため、それだけ大きな満足感を得ることができた。しかし、男児を殺した満足感もあまり長続きはせず、死体をどこへ隠そうかと考え始めた時には、はや満足感は消滅していた。

精神鑑定結果と犯行の動機

成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院中等少年院医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。

精神鑑定結果として下記に示すAの特徴が解明された[2]

  • X線検査、脳波検査、CTMRIによる脳の断層検査、染色体の検査、ホルモン検査に異常は無い。
  • 非行時・鑑定時とも精神疾患ではなく、意識は清明であり、年齢相応の知的能力がある。
  • 非行時・鑑定時とも離人症状と解離傾性(意識と行為が一致しない状態)があるが、犯行時も鑑定時も解離性同一性障害ではなく、解離された人格による犯行ではない。
  • 未分化な性衝動と攻撃性の結合により、持続的で強固なサディズムがこの事件の重要な原因である。
  • 直観像素質(瞬間的に見た映像をいつまでも明瞭に記憶できる)者であり、その素質はこの事件の原因の一つである。
  • 自己の価値を肯定する感情が低く、他者に対する共感能力が乏しく、その合理化・知性化としての虚無観や独善的な考え方がこの事件の原因の一つである。
  • この事件は長期的に継続された多様で漸増的に重症化する非行の最終的到達点である。

Aは小学校5年の時から動物に対する殺害を始め、最初はなめくじかえるが対象だったが、その後はが対象になった。標準的な人は性的な発育が始まる以前の段階で、性欲や性的関心と暴力的衝動は分離されるが、Aは性的な発育が始まった時点で性欲や性的関心と暴力的衝動が分離されず(鑑定医はその状態を未分化な性衝動と攻撃性の結合と表現した)、動物に対する暴力による殺害と遺体の損壊が性的興奮と結合していた。Aは動物を殺害して遺体を損壊することに性的な興奮を感じるようになり、猫を殺して遺体を損壊する時に快楽を感じて性器が勃起し射精した。Aはその快楽の感覚や要求が、人を殺して遺体を損壊することによって性的な興奮を得たいとの欲求へとエスカレートし、それが自分の運命と思い込むようになり、この事件を行ったのであり、殺人の動機の類型としては快楽殺人である。

Aは鑑定医から被害者を殺害したことについて問われると、自分以外は人間ではなく野菜と同じだから切断や破砕をしてもいい、誰も悲しまないと思うと供述した。被害者の遺族の悲しみについて問われると、あの時あの場所を通りかかった被害者が悪い、その場所にいたことが運が悪かったのだと供述した。女性に対する関心はあるかと問われて、全く無いと答えた。

精神鑑定結果は、Aは完全な責任能力があるが、成人の人格障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)であり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去してAの性格を矯正しAが更生するためには長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。

その後の少年Aの処遇

  • 1997年10月13日、神戸家庭裁判所は少年Aを医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
  • 1999年、第二の事件で死亡した女児の遺族と少年A側で約8,000万円の慰謝料を支払うことで示談成立。
  • 2001年11月27日、治療が順調であるとの判断から、東北中等少年院に移る。
  • 2002年7月、神戸家庭裁判所は、治療は順調としながらも、なお綿密な教育が必要として、収容継続を決定。
  • 2004年3月10日、成人したAは少年院を仮退院。この情報は法務省を通じ、被害者の家族に連絡された。
  • 2005年1月1日、Aの本退院が認可される。
  • 2005年5月24日、被害者少年の八周忌。Aが弁護士を通じて、遺族に献花を申し出ていた事が明らかになる。遺族は申し出を断った。
  • 2007年3月、第二の事件で死亡した女児へ、医療少年院退院後、初めて謝罪の手紙が届けられた。しかし遺族は「必死に生きようとする姿が見えてこない」と賠償についても疑問を投げかけた。現在遺族への慰謝料は、Aの両親が出版した本の印税の他、1ヶ月にAから4,000円と両親から8,000円支払われていると報道された。

少年Aに関するエピソード

少年Aが在籍していた友が丘中学校の当時の校長である岩田信義は、少年Aには問題行動、正確にいえば、風変わりな行動が多かったと証言している[3]

他の生徒の靴を隠して燃やす、ラケットで何もしていない生徒の頭を叩く、カッターナイフで他の生徒の自転車のタイヤを切るといった行為があったといわれ、少年Aが在籍していた小学校からは「刃物を一杯突き刺した不気味な粘土細工を制作していた」という報告を受けたという。

担任の話によると、少年Aの表情は総じて動きに乏しく、注意しても教員の顔を直視することがなく、心が別のところにあり、意識がずれ、言葉が届かない感じを受けたという[4]

しかし、これら少年Aの行動は思春期前期の子供にままみられるパターンであり、非行と奇行のはざまにある行動だと岩田は指摘している[4]

中学校では入学早々から繰り返される少年Aの問題行動に手を焼いていた。Aの保護者も精神科医に診察を受けさせていたが、精神科医は学校の中で指導する方がいいという判断を下し、児童相談所には通所させなかった。それを受けて、学校は重点的に少年Aを指導し、事実、1年生の2学期になると問題行動は減ったという。

それでも、教員の一部にはうちの学校で事件をやったとするならば少年Aではないかという認識が煙のように漂っていたという。岩田はそういう話を聞くたびに「軽々しく口にすべきではない」と静止したが、岩田も「ひょっとしたら」と思っていたという。

1996年5月11日、当時、中学2年生の少年Aは母の日のプレゼントに母の花嫁姿の絵を描いて渡す。前日に「母さん、何がほしい?」と聞く少年Aに、母は「気持ちさえこもっていたら、別に何でもええよ。無理せんで」と答える。すると、少年Aは両親の結婚式の写真を押入れから出すと、「母さん、この女の人、誰や?」と問うので、「母さんなんやけど」と答えると「へー」といって、少年Aはその写真を見た後、マンガ用の画用紙の裏に一気にその絵を描き上げ、母に手渡すと、スーッと2階へ上がっていった。少年Aが母にプレゼントをしたのはこれが初めてであった。

事件前の少年Aの自宅の斜め向かいの家の雨樋にはいつも石がたくさん詰まっていたが、これは少年Aがネコめがけて投げ付けていたものが溜まったものであった。ところが、少年Aの母はそんなこととは露知らず、隣人に知らせ、親切にも自宅の2階に案内し、そこからわざわざみせていた。近所では少年Aが投げ付けた石であることをほとんどの人が知っていたが、この母だけが知らなかった。

少年Aは、第3の事件の犯行の9日前の5月15日から、友が丘中学校には登校せず、母親とともに神戸の児童相談所に通い始めていた。これは、5月13日に同級生を公園に呼び出し、自分の拳に時計を巻き付けて殴り、歯を折るなどの怪我を負わせたため、5月14日に学校から父親が呼び出しを受け、その後、両親が相談の上、学校を休ませ、児童相談所を紹介してもらったためである。暴行の原因は「少年Aが身体障害者の子供をいじめていた」と被害者の同級生が塾でいいふらしていたためと少年Aは答えているが、少年Aは「犯行ノート」に「アングリ(聖なる儀式)」を遂行する第一弾として学校を休むことにした」と書いていた。

7月24日、警官が少年Aの父に対し、被害者への謝罪に関し、たずねた際、警官は少年Aの父に対しこう質問した。「お父さん、2月10日、3月16日の被害者の名前はご存知ですか?」-これに対し、少年Aの父は答えられなかった。

マスコミ報道の様子

被害少年の首が学校の校門に晒されるという猟奇的な事件であった点から、マスコミはこの事件の報道を連日行った。この事件は海外においても報道の対象になっている。

  • 当初マスコミは、頭部が発見された早朝に中学校近くをうろついていたとされる「黒いポリ袋を持った20代から30代のがっしりした体格の男性」について繰り返し報道していた。
  • 各マスコミは犯罪心理学者や作家にプロファイリングを行わせたが、犯人が未成年男子であるという分析をしたのは「16歳から23歳くらいの男性」としたロバート・K・レスラーのみであり、14歳という年齢は誰も的中しなかった。
  • 犯人逮捕後、マスコミ取材はますますエスカレートし、一部には、少年Aの写真を同級生から高額で買い取ったり、関係者や近隣住民にしつこくインタビューを求めるなど報道被害と批判される行為を行った。これら一連の取材合戦について、後に産経新聞が「命の重さ取材して―神戸・児童連続殺傷事件」(産経新聞大阪本社編集局)で批判と自戒の総括を行っている。
  • また、少年A逮捕を伝える臨時ニュースで、須磨警察署前のテレビカメラに向かって、地元の少年らが笑顔でピースサインする姿にも批判の声が上がった。

環境犯罪誘因説を信じている人々は、人々の注目度が高い少年事件の恒例として、この事件は、家庭の生育環境や生活環境、学校制度や受験競争、競争社会、大人が作った社会の矛盾などが子供の心を傷つけたことが原因で起こった事件であり、特殊な性格を持つ特殊な個人が起こした事件ではなく、いつでも誰でも起こす可能性がある事件だと、Aと関係も面識もない他人が科学的な根拠が無い環境原因説を、新聞やテレビ放送や雑誌や書籍で宣伝したが、上記の精神鑑定結果が指摘するように、個人的な素質が起こした事件である。

少年の情報漏洩騒動

少年法61条に、「家庭裁判所の審判に付された少年犯の氏名、年齢、住所、容貌などが明らかとなる記事や写真を、新聞および出版物に掲載してはならない」と制定されている。だが「審判に付される前」を狙って、新潮社が少年の顔写真を掲載した雑誌を販売。これ以降、新潮社の雑誌では少年の情報漏洩が続いた。

写真週刊誌『FOCUS(フォーカス)』(1997年7月9日号)に少年の顔写真と実名が掲載されることが判明すると、直ちに大半の大手業者は販売を自粛決定したが、新潮社は回収せず販売を強行、一部の書店で販売された(即刻完売)。さらに翌日、『週刊新潮』が少年の顔写真を目隠し入りで掲載して販売。翌日、法務省が『FOCUS』および『週刊新潮』に回収勧告するが、双方は拒否。『FOCUS』発売直後、ウェブサイトで犯人の顔写真が数多く流布された。

また、審判終了後、『文藝春秋』(1998年3月号)に、検事供述調書が掲載される事が判明。一部で販売自粛、各地の公立図書館で閲覧停止措置となる。後の法務省の調査で、供述調書は革マル派が神戸市の病院に侵入してコピーしてフロッピーディスクに保存していたことが判明し、塩田明男が逮捕された(神戸事件をめぐる革マル派事件)。立花隆は、これを雑誌に掲載するか否かについて当時の編集長平尾隆弘から緊急に相談を受け、2時間で7枚に及ぶ調書を精読、「どんなことがあっても掲載すべき」との判断を下す。少年法61条に抵触するか否かについては、この法令が報道することを禁じているのは、あくまで、本人のアイデンティティを推知できるような要素であって、それ以上ではない-従って、この調書を載せること自体は少年法61条に抵触することは全くないと判断。掲載を推薦し「文藝春秋」(1998年3月特別号)に掲載された。立花隆自身バッシングが起こることは確実と予想してのことであった。 立花は『FOCUS(フォーカス)』に少年の顔写真と実名が掲載されたことについては、別の理由から反対している。

その後も『FOCUS』には、少年の犯行記録ノートや神戸市教育委員会の指導要録など、本来なら外部に流出するはずのない資料が次々と掲載された。

被害者側の人権

特に、この事件をきっかけにして、大きくクローズアップされだしたのが、被害者側の人権問題であった。これまでも、この種の少年犯罪による事件では、犯罪者側の人権は十分に保護されるにもかかわらず、被害者側は個人のプライバシーまで暴き出され、マスコミからもさまざまな迷惑や圧力を蒙ることが問題視されてきたが、特に世間が大きく注目したこの事件がきっかけとなり、その後、多少の変化の兆しが見られるようになった。また、被害者側の働きかけにより、この事件の審判の過程においても異例の措置がとられるなど、司法側にも幾分の配慮が見られた。

少年法の壁

いわゆる少年事件では加害者の住所氏名すら被害者に伝えられず、審判は非公開でどんな事実認定がなされたかすら知るよしもない。それは、わが子を失った親が、「子供はどれほど苦しんだのか。何か言葉を残したのか。そして、目は閉じていたのか」(土師守『淳 それから』)すら知りえるすべがないということである。加害者が嘘をついたり、被害者に対し中傷したとしても、被害者側は反論や否定すら出来ない上、処分が出てもその内容すら知りえない。被害者側は完全に蚊帳の外に置かれる。第三の事件の被害者の父とその弁護人である井関勇司が取り組んだのは、まず「少年審判への関与と情報開示の要求」であった。そのため、まず担当判事である井垣康弘に要求したのは「加害者の法律記録および社会記録(鑑別結果、調査票など)を見せてほしい」ということであった。これらは、加害者側の弁護人には閲覧や謄写が認められているが、加害者側の弁護人には認められていない。従って、この要求に対して井垣判事は拒否した。また、「遺族に審判廷で意見を述べさせてほしい」との要求も行ったが、これも否認された。これに対して「それならば、少年は退廷させてからでいいから、審判廷で意見を述べさせたい」との要求を行ったが、これも却下された。しかし、その後の粘り強い井関弁護士の交渉が実を結び、最終的には、公式の審判では無理だが、判事室で判事が被害者遺族に会って話を聞くということになった。これは、画期的な異例の事態であった。

この「異例の意見聴取」は、第4回審判が開かれたのと同じ10月13日、約30分間にわたって行われた。17日には神戸家庭裁判所での最終審判で、少年Aの医療少年院送致宇の保護処分が決定したが、家裁は「正確な報道のための資料提供の観点から」という理由で「処分決定の要旨」をマスコミに公表した。これはあくまでもマスコミに向けたものであって、被害者へはあくまでもマスコミを通して知らされた。言うまでもなく、それまでも事件に関する情報は、被害者側が知るルートはすべてマスコミであった。

マスコミによる暴力

上記のごとく、被害者側が知りえる事件の情報はすべてマスコミを通じたものであったが、同時に被害者はマスコミから24時間監視され、多大な苦痛を味わっている。特に猟奇的な犯行であった第三の事件では、犯人が逮捕されるまでは、被害者宅に数多くのマスコミが張り付き、周囲の道路は違法駐車の車で交通渋滞ができ、被害者宅ではカーテンすら開けられない状況が続いた。かつ、犯人は両親ではないかとの憶測すら乱れ飛んだ。土師守はこれを「マスコミによる暴力」と表現した。また、1999年2月10日には、文藝春秋社から、犯人の供述調書(検事調書)7枚分が掲載され「少年Aの全貌」という見出しの『文藝春秋』3月号が発売された。事前に警察からこの情報を聞かされていた土師守は勤めている病院の売店で買い求めるが、最初の解説の部分を少し読んだだけで、その後の記事は読んでいない。奇しくもこの日は、被害男児の誕生日でもあった。弁護士の井関勇司は「遺族の心情を考慮すると問題だ、興味本位で読まれるのはつらい」と土師にかわってコメントを発表した。

民事告訴

1998年8月26日、第三の事件の被害者の両親は、少年Aおよびその両親に対して総額1億4000万円の支払いを求める民事訴訟を起こす。訴訟に先駆け、弁護人である井関勇司らによって、少年Aの両親の資産状況が調査されたが、すんでいた家屋も借家で、支払能力なし、との判断であり、また訴訟に対して犯人の両親は事実関係をすべて認めるとの意思を示していたため、争点にならず、開示も期待できない状況であったが、「裁判所という公式なものの中で、きちんと犯人の両親の責任を認めてほしい」という2人の強い意志により、訴訟は起こされた。途中、和解勧告が出されたものの、成立せず、1999年3月11日に全額の支払いを命ずる判決が出た。両親は、「現在の法律では、少年犯罪の場合、その責任の所在と償いということがうやむやになっている場合が多いが、その意味においても、この判決は意義のあるものだと思います」とのコメントを出した。

このしばらく後に、少年Aの両親が手記を出版することになった(『「少年A」この子を生んで…父と母悔恨の手記』 文藝春秋)。被害者の両親の疑問に答えること、賠償金支払いの目的などがあったとされるが、被害者側の土師は不快に感じ、出版の中止を望んだ。

事件の影響

この事件を教訓に、こども110番の家が設置されるようになった。事件の残虐性に加え、逮捕されたのが14歳の少年であった点も、社会に強い衝撃を与えた。結果、この事件を境に、少年事件やそれに関連する法整備、少年事件における「マスコミの対応」などが大きく注目されるようになった。さらにこの事件を皮切りに当時の内閣が少年法改正に動く事にまで影響が及んでいる。

また、テレビ番組が少年に与えた影響が取りざたされたため、猟奇シーンの含まれる番組(『銀狼怪奇ファイル』、『エコエコアザラク』など)の放送や新シリーズ制作が中止になったり、特撮番組においてヒーローが切断技で怪獣の首をはねたり胴体を真っ二つに切断し倒す演出が自粛されるようになった[5]

また当時、大人気であったミニ四駆の全国大会「ジャパンカップ」関西大会の地区予選が、社会情勢を考慮するとの理由で中止になっている。

事件の謎の部分

  • 被害児童の頭部が発見された5月27日早朝、中学校正面門を見下ろせる丘にいたとされる「黒いポリ袋を持った20-30代のがっしりした体格の男性」の存在。
  • 同じく、5月27日早朝、中学校付近のマンション1階で住民に目撃された、黒いポリ袋を持った挙動不審者の存在。
  • 同じく、5月27日早朝、中学校付近で目撃された黒塗りの車(ワンボックスカーの説あり)の存在。
  • 第三の事件後、県内及び近隣府県の複数の自動車解体業者に、犯行現場付近で目撃証言のあった黒塗りの車を解体して欲しいと電話があったが、結局現れなかったとされる。

これらは警察が犯人に油断を与える為に流した偽情報であるとの説や、マスコミが「犯人は少年の可能性」と流した場合、少年Aが逃亡や自殺する可能性を危惧して、意図的に流した偽情報のであると説もある。

少年Aは冤罪か

逮捕された少年Aが犯行を認め、関連する犯罪についても述べているものの、冤罪を指摘する声もある。 その多くは被害少年の首を切断した際の警察の報告書に対する疑問点や、捜査の手法、判決を批判したものである。また、物的証拠に不足、不自然な点があるとも指摘される。

多くの冤罪事件を手がけてきた弁護士の後藤昌次郎や、『神戸事件を読む―酒鬼薔薇は本当に少年Aなのか?』(鹿砦社)の著者の熊谷英彦、少年Aが在籍していた中学校の校長(当時)の岩田信義らが冤罪であると主張しており、特に、熊谷の著作は冤罪主張派にとって重要視されている。冤罪説の指摘のうち主なものを以下に記す。

  • 第二の事件で殺害された女児の頭の傷は八角げんのうを左手に持って殴りつけてできたと考えられ、右利きの少年Aがやったとは考えにくい。
  • 第三の事件で殺害された男児の首は遺体を冷凍して切断した可能性が考えられる。岩田は若いころ、来客に料理をふるまうためにニワトリを屠殺した経験があり、ニワトリの首は簡単に切れなかったと述べている。岩田は糸ノコギリで人間の首は切断できないのではないかと疑問を呈している。
  • 筆跡鑑定の結果は声明文が少年Aによって書かれたものだと断定はできないというものであった。のちに、鑑定結果を弁護士から知らされた少年Aは「騙された、悔しい」といって泣いたといわれている。ただし、赤インクの太字と定規を使用したと見られる直線で描かれたもので、筆跡をごまかしているため、鑑定の結果自体は冤罪の根拠とはならないという意見もある。
  • 取り調べにおいて警察は声明文の筆跡鑑定が確定的であるかの様に説明し、それを受けて少年Aは自白を始めた。これは違法行為であるため、家裁審判においてこの自白調書は証拠として採用されなかったが、少年Aの弁護士は非行事実について争おうとはしなかった。
  • 少年Aの素行についての証言が逮捕直後から多数報道されていたが、調査してみると多くは伝聞情報ばかりで直接の目撃証言が確認できない。
  • 判決文による非行事実は荒唐無稽で実行不可能な部分が多い。
  • 14歳少年に実行可能な犯罪とは到底考えられない。犯行声明文は14歳少年が作成したものとは思えないほど高度である。岩田は、この犯行声明文は全体的に難解な論理を特異な比喩を使いながら展開しているにもかかわらず論旨は明快で、成績の悪い少年Aに到底書けるとは思えなかったと述べている。

少年Aの母が2002年5月に少年Aと面会し、冤罪の可能性について尋ねた際、彼は「それはありえない」と語っている。

脚注

  1. 神戸新聞社は、声明文と封筒のコピーをそのまま公開すれば、犯人の意思を世間に流布する行為となってしまう点や、筆跡等により人物が絞られ、捜査に支障をきたす可能性に考慮し、ワープロ清書した物を他の報道機関等に公開、原文と封筒を写真撮影後、警察に提出した。
  2. 「少年A」この子を生んで 少年Aの父母著 文芸春秋刊 第6章 Aの「精神鑑定書」を読み終えて(234~261ページ)
  3. 『校長は見た!酒鬼薔薇事件の「深層」』 100頁。
  4. 4.0 4.1 『校長は見た!酒鬼薔薇事件の「深層」』 101頁。
  5. この事件以降は、ロボットのような無生物を切断したり、牽制として角や触手といった命に別状はない末端部分を切断することはあっても、切断によって敵が絶命する描写は皆無である。

関連項目

事件そのものに対しての関連

参考文献

外部リンク