平時忠

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平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。兄弟に親宗、姉妹に時子平清盛室)・滋子(建春門院)・冷泉局(建春門院女房)・清子(平宗盛室)・坊門殿(平重盛室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)、室に藤原領子(むねこ)、子に時実時家、時宗、時定、宣子(後鳥羽天皇典侍)、源義経の側室、中山忠親の室らがいる。平大納言平関白と称された。

生涯

生い立ち

時忠の母については『吉記治承5年(1181年)5月28日条に、二条大宮(令子内親王)に仕えた半物であったことが記されている。この女性は時信との間に、時忠・時子・藤原親隆の室を産んだ。やがて時信との関係は疎遠となり、右少弁・藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産む。顕憲の死後、時忠と時子は母を引き取って孝養を尽くしたという。

時忠と時子の年齢については、『兵範記』仁安3年(1168年)2月11日条の清盛出家の記事の中に「相国今年五十一、二品四十三云々」とあるので、時子は大治元年(1126年)生まれとなる。記主の平信範は時子の叔父なので信憑性は高い。時忠は『公卿補任』から逆算すれば、大治5年(1130年)生まれである。しかし『吾妻鏡』文治5年(1189年)3月5日条には、時忠の死去を聞いた源頼朝が周囲の者に年齢を尋ねたところ、62歳という返事があったと記されている。これによれば、時忠は大治3年(1128年)生まれとなる。時忠の生年は確定できないが、いずれにしても時子が年長である。『保暦間記』にも「平大納言時忠ト申ハ、太政入道ノ北方二位殿ノ弟也」とあり、時忠が時子の弟であることは間違いないと思われる。

久安2年(1146年)3月、17歳で非蔵人、翌年正月に六位蔵人となる。久安4年(1148年)から翌年にかけて検非違使左衛門少尉となる。久安5年(1149年)4月に叙爵して、蔵人・検非違使の任を離れた。時忠の若い頃の官歴には、取り立てて見るべきものはない。非蔵人から六位蔵人となる階層の人物は、その階層で生涯を終えるのが通例だった。父の時信が五位止まりで、母の身分も低いことから、時忠も本来ならそれ以上の昇進は望めなかった。そのため、姉の時子とその夫・清盛の庇護を受けていたと推測される。仁平4年(1154年)8月8日の鳥羽法皇による新御堂法会・仏像安置の儀式に、時忠は清盛と共に院司として列席している(『兵範記』)。

憲仁親王擁立と配流

平治の乱が終わり清盛の発言力が著しく高まった永暦元年(1160年)4月、時忠は検非違使右衛門権佐に抜擢された。翌年正月には清盛が検非違使別当に就任して京都の治安維持の責任者となり、時忠は清盛の下で現場の指揮に当たった。さらに10月には右少弁も兼任する。高棟流平氏は実務官人の家系だったが、太政官の事務を処理する弁官を輩出していたのは別系統の時範の子孫であり、時忠の系統は主に院や摂関家の家司として活動していた。時忠が弁官に任じられた要因としては、清盛の後押しのみならず、時忠本人の実務能力の高さも大きく作用したと考えられる。

この頃から時忠は清盛の思惑から外れ、独自の動きを見せるようになる。平治の乱の後、政治の主導権を巡って後白河上皇二条天皇が激しく対立する中で、応保元年(1161年)9月3日、妹の滋子が後白河の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産した。その直後の15日、時忠は清盛の弟・教盛とともに二条天皇により解官された。『愚管抄』によれば「ユユシキ過言」をしたのが原因であったという。その内容は定かでないが、甥である憲仁親王の立太子を公言した可能性が高い。翌年6月、院近臣源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛したとして解官されるが、時忠も陰謀に関わったとして23日に出雲国に配流された。教盛が短期間で赦免されたのに対してはるかに重い処罰であり、二条天皇親政派が時忠を強く警戒していたことがうかがわれる。この事件で清盛は二条天皇支持の立場をとり、時忠に手を差し伸べることはなかった。

召還、公卿昇進

永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、時忠は召還される(9月14日)。翌仁安元年(1166年)3月に本位に復すと、4月に左少弁、6月には右中弁・検非違使左衛門権佐・蔵人の三事兼帯となった。10月10日には、5年前に果たせなかった憲仁親王の立太子が実現する。翌月、清盛が内大臣となり、時忠も蔵人頭に補された。清盛の大臣就任に不満を抱き、五節の節会に欠席した藤原朝方実家が解官されたことによる後任人事だったが、非蔵人から始まって蔵人頭になったのは極めて異例のことだった。位階も正五位下から従四位下に上昇し、翌年正月に正四位下・右大弁、2月11日には参議・右兵衛督となり公卿への昇進を果たした。

仁安3年(1168年)2月に憲仁親王が践祚(高倉天皇)、3月には滋子が皇太后となる。滋子の叔父・信範は教盛とともに蔵人頭となり、時忠は従三位に叙せられた。清盛が出家して政界を表向き引退したこともあって、高倉即位後の政治は後白河が主導権を握った。時忠も滋子の兄という立場から、後白河の側近として活動することになる。7月3日、右衛門督・検非違使別当に就任するが、尉・佐を歴任して別当になったのは時忠が初めてだった。8月には権中納言となる。同月、清盛辞任で空席となっていた太政大臣に花山院忠雅が任じられ、時忠は慶賀の儀式に出席している。12月、伊勢神宮の正殿が焼失すると、翌嘉応元年(1169年)正月、復興のための公卿勅使として伊勢に派遣された。4月に滋子が建春門院の院号を宣下されたことにより、女院別当に補される。11月に新帝の八十嶋祭が盛大に執り行われ、時忠も公卿として行列に加わった。後白河院政は平氏一門の協力で磐石なものとなり、政情も安定するかに見えた。

嘉応の強訴と再度の失脚

ところが12月に突如として延暦寺が院近臣・藤原成親の流罪を要求して強訴を起こした(嘉応の強訴)。成親の知行国である尾張国目代・政友が延暦寺領美濃国平野荘の神人に乱暴を働いたことが発端だった。後白河は同じ天台宗でも園城寺を優遇し、延暦寺に対しては院近臣を国司に任じて荘園の停廃・神人の取り締まりなどの強圧的な政策を行っていたため、院と延暦寺の対立は前々から一触即発の状態にあった。

22日、延暦寺の大衆が強訴のため下山、23日には上洛の態勢に入ったとの報を受けた後白河法皇は、院御所に公卿を召集して対応を協議するとともに、検非違使・武士に動員令を下した。時忠も検非違使別当として院御所・洛中の警備に当たった。しかし大衆は院御所ではなく、警備の手薄な内裏に乱入して気勢を上げた。この事態に時忠は、要求を聞き入れるならすぐに受諾し、聞き入れないなら武士を派遣して大衆を追い払うべきだと、早急な対策をとることを進言する。公卿議定では神輿が破壊される危険性から派兵に消極的な意見が大勢を占め、官兵を率いる重盛も夜間の出動に難色を示したため、翌日の議定で成親配流・政友拘禁が決定した。

しかし、わずか4日後の28日に成親が召還され、時忠・信範は「奏事不実(奏上に事実でない点があった)」(『百錬抄』)という理由で解官、時忠は出雲国に、信範は備後国にそれぞれ配流されることになった。同時に時実・時家(時忠の子)や信基(信範の子)も解官となり(『兵範記』)、結果として堂上平氏が詰め腹を切らされる形になった。院と延暦寺の抗争が再燃したことで、翌年正月17日に政情不安を危惧した清盛が上洛、武士が六波羅に集結して緊迫した情勢となった。後白河法皇は清盛の圧力により、2月6日、やむを得ず成親の解官と時忠・信範の召還を決定した。この事件では、延暦寺への対応を巡って後白河院政と平氏の間に足並みの乱れが生じ、政権が必ずしも一枚岩でないことが露呈することになった。成親が4月に早くも権中納言・右兵衛督・検非違使別当に還任したのに対して、時忠が本位に復したのは12月になってからだった。

建春門院の側近

承安元年(1171年)正月、高倉天皇の元服の儀式が執り行われた。後白河法皇と清盛の間に生じた不協和音が解消されたわけではなかったが、政権維持のためには両者の協力が不可欠であり、調整役として建春門院の政治的地位が上昇した。母后である建春門院の威光により、堂上平氏も勢力を回復していった。時忠は一回目の失脚では清盛に、二回目の失脚では後白河法皇に切り捨てられた苦い経験から、双方に不信感を抱いて距離を置くようになったらしく、政界復帰後は建春門院側近としての活動が顕著となる。娘の一人は建春門院女房となり内侍と称していた(『吾妻鏡』建久2年(1191年)5月12日条)に見える典侍・平宣子と同一人物の可能性が高い)。子の時実は建春門院の御給により従五位上に叙せられ、時忠は4月21日に権中納言に還任、5月1日には帯剣を許された。前年、宗盛・源資賢が権中納言となったことで中納言9人の例が開かれたばかりだったが、早くも10人の例が始まり九条兼実は「未曾有」のことだと非難している(『玉葉』)。

10月23日、後白河法皇と建春門院は福原に御幸して、清盛の歓待を受ける。時忠は、資賢・成親・重盛・宗盛・花山院兼雅とともに供奉した。この御幸において高倉天皇と清盛の娘・徳子の婚姻が、正式に合意に達したと推定される。この婚姻の成立には高倉朝の治世安定を願い、政権の内部分裂を回避しようとする建春門院の意向が大きく作用したと思われる。翌承安2年(1172年)2月に徳子は中宮となり、時忠は権大夫に就任した。承安3年(1173年)10月、時忠が責任者となって造営していた建春門院の御願寺・最勝光院が完成、承安4年(1174年)正月には、建春門院の御給で従二位に叙せられた。平氏の栄華をたたえて「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」(現代語訳した「平家にあらずんば人にあらず」で有名な語)との発言をしたのはこの時期とされる(『平家物語』巻第一「禿髪」より)。ただし時忠の属する堂上平氏は、清盛らの武門平氏からは相対的に独立した位置にいるので、この発言は実務官僚としての堂上平氏の躍進を誇ったものとも考えられる。安元元年(1175年)11月12日には右衛門督となり検非違使別当に返り咲いた。

政権の動揺

安元2年(1176年)3月、後白河法皇の50歳を賀す式典が法住寺殿で盛大に催され、時忠も他の公卿や平氏一門とともに出席する。しかし6月に建春門院が病に倒れ、7月8日に死去した。建春門院の死により、今まで隠されていた様々な問題が顕在化することになる。まず母后の不在により後継者のいない高倉天皇の立場が不安定となった。10月23日、守覚法親王の弟子となっていた後白河法皇の第九皇子(後の道法法親王)が藤原隆房に抱えられて参内、11月2日には親宗が養っていた第十皇子(後の承仁法親王)も時忠が引き連れて参内し『玉葉』)、いずれも高倉天皇の猶子となった。これらの皇子は、高倉天皇に皇子が生まれない場合の控えとして養育されていたと推測される。

後白河法皇は、成人した高倉天皇が政務を行うようになると自らの発言力が著しく制限されることから、早期の譲位を望んでいた。清盛にすれば、徳子に皇子が生まれる前の譲位は絶対に容認できることではなかった。当時、院政を行うことができたのは天皇の直系尊属に限定されていたので、時忠らが連れてきた皇子が高倉天皇の猶子となったのは高倉天皇の発言力保持のために必要な措置であり、後白河法皇と清盛の対立を防ぐための妥協策でもあった。しかし、これは問題の先延ばしに過ぎず、高倉天皇を擁す平氏と後白河法皇の下に結集する院近臣の対立は避けられないものとなっていった。

安元3年(1177年)4月、延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。師高の父は院近臣・西光であり、後白河法皇は強硬な態度で臨んだ。防御に当たった重盛の家人が神輿を射たことから、事態は悪化の一途をたどる。『平家物語』によれば、時忠は事態収拾のために延暦寺に乗り込んで交渉に当たり、激昂する大衆に「衆徒の濫悪をいたすは魔縁の所行なり、明王の制止を加ふるは善逝の加護なり」と紙に書いて渡し、その怒りを鎮めたという。この話は他に資料の裏付けがないので、事実かどうか定かでない。実際には、師高の配流・神輿を射た重盛家人の投獄という延暦寺側の要求を、全面的に受諾することで決着がつけられている。

その後、後白河法皇は天台座主明雲の処罰を強行し、院と延暦寺の抗争が再燃する中で鹿ケ谷の陰謀が勃発する。西光・成親が殺害されたことで手足をもがれた形の後白河院政は平氏への屈服を余儀なくされる。清盛にしても高倉に皇子が生まれない段階ではそれ以上の措置を講じることはできず、情勢は膠着状態となった。

安徳の誕生と高倉院政

治承2年(1178年)5月24日、時忠は徳子の懐妊が確実なことを高倉天皇に奏上した。7月24日に藤原隆季が娘の死により中宮大夫を辞任したことで、26日に大夫に昇格する。11月12日、徳子は皇子(言仁親王、後の安徳天皇)を出産し、時忠の妻・領子が乳母となった。清盛は皇子を皇太子にすることを後白河法皇に迫り、12月には早くも立太子の儀式が行われる。東宮傅(とうぐうのふ)は左大臣・藤原経宗、春宮坊は大夫・宗盛、権大夫・兼雅、亮・重衡、権亮・維盛という陣容であり、後白河法皇の近臣は排除された。

さらに清盛は、摂関家領を奪われたことで平氏に敵愾心を燃やす関白・基房を後白河から切り離して自派に引き入れるために、基房の妻(忠雅の娘)も乳母に迎えようとした。これに対して時忠は、執政の室が乳母になるなど聞いたことがないと主張して強く反対した(『玉葉』12月30日条、基房の妻も2月には安徳乳母となる)。自らの妻が乳母であることから関白の妻を近づけたくなかったためと思われるが、時忠が必ずしも清盛の意向に沿って動いていなかったことを示している。

治承3年(1179年)正月7日、時忠は正二位に叙せられ、19日には史上初めて三回目の検非違使別当に補された。前任者の忠親は「希代之例也」(『山槐記』)と驚愕し、九条兼実は「物狂之至也、非人臣之所為」(『玉葉』)と激しく非難している。鹿ケ谷事件で検非違使の惟宗信房・平資行・平康頼が陰謀に加担していたことから、検非違使庁改革のため経験豊富な時忠に白羽の矢が立てられたと推測される。

6月に盛子、7月に重盛が相次いで死去したのを機に、後白河法皇は盛子の荘園・重盛の知行国を没収し、清盛の支援する近衛基通を無視して基房の子・師家を権中納言にした。激怒した清盛は11月14日にクーデターを起こし、反平氏公卿・院近臣の大量解官が断行された(治承三年の政変)。堂上平氏からは親宗・時家・基親が解官の対象となり、大きな打撃を受けた。建春門院在世中は結束していた堂上平氏も、分裂状態にあったことをうかがわせる。時忠の管轄していた検非違使庁からも大江遠業・平資行・藤原信盛が解官となり、欠員補充として藤原景高・忠綱・友実・源光長が新たに任じられた。

後白河法皇は鳥羽殿に幽閉状態となり、高倉天皇が親政をとることになった。翌年2月、言仁親王の践祚とともに院庁が設置され、執事別当には藤原隆季が就任する。時忠も高倉上皇の伯父・安徳天皇の乳父(めのと)の立場から別当の一員として、政務に未熟な高倉上皇を補佐することになった。高倉院政が開始されたものの、クーデターで成立した政権であるため平氏の軍事力に支えられている面が大きく、その正統性に疑問があった。しかも清盛の強い要請により、高倉上皇が譲位後すぐに厳島神社に参詣したことが、延暦寺・園城寺・興福寺など伝統的寺院勢力の危機感を煽ることになった。不穏な空気が流れる中で、5月に以仁王が挙兵する。支援したのは二条天皇の准母・八条院で、後白河法皇と密接につながる園城寺、関白配流に反発する興福寺も同調したことから、新政権にとって大きな脅威となった。反乱が鎮圧された後、清盛は突如として福原行幸を強行する。

福原行幸と反乱の激化

6月2日、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇は福原に向かった。随行したのは平氏一門および親平氏貴族・実務官僚で、時忠も天皇の行幸の列に加わった。福原到着後に遷都が議論され、輪田を新都建設地とすることが決まった。ところが場所が狭いことから計画は白紙となり、昆陽野(こやの)・印南野(いなみの)が代替地として候補に上がったものの、7月にはどちらの案も立ち消えとなってしまう。結局、福原を暫定的な皇居とすることに落ち着くが、準備不足と混乱から遷都反対の意見も出始める。高倉上皇の体調不良もあり、時忠と隆季は清盛に還都を申し入れるが、一蹴されてしまう(『玉葉』8月12日条)。

高倉上皇はやむを得ず内裏造営命令を出し、時忠も遷都反対派を抑える役割を任されたらしく、議定で方角の禁忌が問題になると反対意見を封殺するなど、強引な手法をとっている(『玉葉』8月29日条)。時忠は福原に邸宅を持っていなかったので、新たに土地を与えられた。8月25日、娘婿の忠親とともに福原の都市計画図を確認し、10月8日、邸宅の造作について意見交換をしている(『山槐記』同日条)。内裏や貴族の邸宅も徐々に整備されて遷都も軌道に乗るかと思われたが、8月になってから全国各地で反乱が頻発していた。そして10月21日に富士川の戦いで追討軍が大敗したことにより、還都論が再燃することになる。

まず宗盛が還都を進言して、清盛と激しい口論に及ぶ(『玉葉』11月5日条)。東海道諸国が反乱軍の手の中に落ちていく状況の中で、11月6日、時忠は美濃を東国に対する防衛線とするため、美濃源氏宣旨を下して味方につける案を出す(『吉記』同日条)。美濃源氏の源光長は検非違使で、時忠とは上司と部下の関係であり、時忠には美濃源氏を懐柔できるという自信があったと思われる。しかし清盛は時忠の案を無視して、美濃源氏討伐のため私郎従(直属の精鋭部隊)を派遣する(『玉葉』11月12日条)。この結果、美濃は動乱状態となり戦禍は近江にまで波及する。延暦寺も「還都をしなければ、山城・近江両国を横領する」と強迫的な態度をとっており(『玉葉』10月20日条)、情勢は予断を許さないものとなった。

11月12日、清盛は還都に同意するが、時忠は難色を示した(『吉記』同日条、『玉葉』11月16日条)。近江では反乱軍との戦闘が激化していて、何らかの対策をとって安全が確保されなければ京都に戻るのは危険と判断したためと推測される。時忠は、高倉の意向を無視する清盛の独裁と強硬路線が事態の悪化に拍車をかけていると分析し、還都後に公卿議定を開いて対応策を打ち出そうと考えていたらしい(『吉記』11月21日条)。11月22日、高倉上皇の命を奉じた時忠は天台座主・明雲を通して、日吉社・延暦寺領荘園に対して還都と引き換えに反乱軍の防御・掃滅に当たることを指示した(『吉記』同日条)。延暦寺側との合意成立により、翌23日に還都が行われた。

11月30日、東国逆乱についての公卿議定が開かれた。徳大寺実定の「近江の賊徒を平定すれば、美濃以下も帰伏する」という意見が賛同を集め、追討が本格化することになる(『山槐記』同日条』)。12月には反乱対策として、公卿層に対する武力の供出(『玉葉』12月13日条)・諸国からの兵糧米徴収(『山槐記』12月10日条)が相次いで実施されるが、時忠はこれらの政策の立案・実行に深く関与していた。これらの措置と平氏軍の反撃により、畿内周辺の反乱はひとまず沈静化した。

後白河院政の再開

高倉上皇の病状は還都の時にはかなり重くなっていて、翌治承5年(1181年)正月14日、21歳の若さで崩御する。時忠は近臣の一人として素服を賜わった。時忠は高倉上皇の権威により政治的地位を築き上げてきたため、その早過ぎる死は大きな痛手だった。高倉上皇崩御後の政治体制は幼児の安徳が政務を執ることができない以上、もはや後白河の院政再開しか残されていなかった。このような状況の中で時忠は、かつて高松院の所有だった荘園を高倉上皇の遺言と称して強引に中宮・徳子に相続させる。後白河法皇はこの措置に対して、不快感を露わにしたという(『玉葉』治承5年2月4日条)。

時忠は高倉院庁の別当として実務を取り仕切っていたため、このような措置をとることが可能だった。時忠の意図は、高倉上皇崩御後に避けられなくなる後白河法皇の政治力増大を食い止めると同時に、徳子の経済基盤を強化することで間接的に自らの発言力を保持することにあったと推測される。時忠は中宮大夫であり、同年11月25日に徳子が院号宣下を受けた後も、引き続いて建礼門院別当として徳子を補佐する立場にあった。

清盛も後白河院政再開をただ手をこまねいて見ていたわけではなく、院近臣の解官・畿内惣官職の設置など矢継ぎ早に対策を講じていたが、閏2月4日に死去した。後継者の宗盛は院政再開を認めて後白河法皇に恭順する姿勢を見せる一方で、平氏の存立基盤である軍事・警察権は断固として手放さず、後白河法皇の宥和策を退けて東国追討を続行した。このため、後白河法皇と宗盛の間には深い溝が生じることになる。法皇と平氏の間にはもともと解消することのできない対立があったが、かつては建春門院が調整役を果たしていた。時忠は国母である徳子に建春門院と同様の役割を期待し、承安年間の政治体制の再現を目指していたと思われる。

しかし徳子は後白河法皇の養女であり、最初からその立場は弱かった。また、徳子自身も積極的に自らの意思を示す性格ではなかったため、彼女に建春門院の代わりを求めるのは無理があった。さらに周囲の状況も、以前と大きく変化していた。各地では反乱の火の手が燃え盛り、後白河法皇も院政停止・幽閉を経たことで平氏に不満を通り越して憎しみを抱いていた。法皇はすでに平氏に見切りをつけて、独自に頼朝と和平交渉を始めていた(『玉葉』養和元年(1181年)8月1日条)。時忠は5月に母が死去したことで、服喪のため検非違使別当を辞職する。時忠の政治的地位はしだいに後退していった。

4月になると後白河は、安徳天皇を八条の頼盛邸から閑院内裏に遷す。また、安徳天皇の准母には清盛の後押しで近衛通子(基実の娘)が選ばれていたが、寿永元年(1182年)8月、後白河法皇は第一皇女・亮子内親王を新たに准母として送り込み皇后とした。いずれも安徳天皇を平氏の手から引き離す方策であり、後白河法皇の影響力は確実に強まっていった。ただし九条兼実に代表される貴族層は日和見的態度をとっていたため、法皇も一挙に主導権を握ることはできなかった。法皇と平氏の関係は一種の均衡状態となり、時が過ぎていった。

しかし、それはつかの間の平穏だった。軍事面において平氏は墨俣川の戦いに勝利した後は、養和の大飢饉の影響もあって戦線を維持するのが精一杯であり、内外に敵を抱えた平氏政権はしだいに疲弊していく。寿永2年(1183年)正月、時忠は権大納言となるが政権の崩壊は間近に迫っていた。

一門都落ち

寿永2年(1183年)5月、平氏の北陸追討軍が木曽義仲に撃破されたことで(倶利伽羅峠の戦い)、今まで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。7月22日、義仲軍は延暦寺にまで到達したため、議定が開かれて対策が協議される。24日、安徳天皇は院御所・法住寺殿に行幸し、時忠も供奉した。京都防衛を断念した宗盛は、勢力挽回のために後白河法皇・安徳天皇らを奉じて西国に下向する準備を進めていた。25日未明、平氏の意図を察した法皇は、法住寺殿から比叡山に脱出する。宗盛はやむを得ず、安徳天皇と二宮(高倉の第二皇子・守貞親王、後の後高倉院)だけを連れて都を退去した。時忠は閑院内裏に向かい、内侍所(神鏡)を取り出してから都落ちに同行した。貴族は続々と後白河法皇の下に集結し、親平氏派の筆頭である摂政・基通や一門の頼盛も京都に残留する。安徳天皇および平氏に付き従った貴族は、わずかに時忠・時実・信基・藤原尹明に過ぎなかった。

27日、後白河法皇は都に戻り、翌日に開かれた議定において平氏追討が決定した。8月6日に平氏一門は一斉に解官されるが、法皇は安徳天皇の帰京・神器の返還を交渉するため、時忠の解官は見送っている。もっとも交渉は不調に終わったらしく、16日には時忠も解官となった。法皇にとって平氏が安徳天皇を連れて逃げていったのは不幸中の幸いであり、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院近臣を送り込んで政治の主導権を確立すると、8月20日、都に残っていた四宮(高倉の第四皇子・尊成親王、後鳥羽天皇)を践祚させた。この知らせを聞いた平氏の人々は「三宮、四宮も引き連れていくべきだった」と悔しがるが、時忠は「その場合は、義仲が擁立している以仁王の皇子(北陸宮)が皇位につくだけのことだ」と冷めた見方をしている(『平家物語』)。

元暦元年(1184年)2月7日、平氏は一ノ谷の戦いで大敗する。この戦いの後、法皇が神器の返還を求めて派遣した御坪の召次・花方という使者に、時忠が「浪方」という焼印を顔面に押して追い返したという逸話が『平家物語』「請文」の段にある。花方については、語り本系には見られるが読み本系の古態とされる延慶本には記されてないこと、院宣の使者としては身分が低すぎることから創作の可能性もある。ただし『山槐記』元暦元年7月6日条に、誰の手によるか不明だが院の使者が平氏によって面に印を着けられたとあり、平氏による苛烈な使者への仕打ちは事実と思われる。一ノ谷の戦いの敗因には、後白河による虚偽の和平提案・源氏の不意打ちがあったとされ(『吾妻鏡』2月20日条)、平氏の後白河法皇への恨みは激しいものがあった。平氏はこの敗戦の打撃からついに立ち直れず、翌元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで壊滅した。

義経への接近

時忠は壇ノ浦で捕虜となり、4月26日に入洛した。時忠はを守った功績により減刑を願い(『玉葉』5月3日条)、娘を源義経に嫁がせることで庇護を得ようとした。時忠の娘と義経の婚姻について『平家物語』は機密文書の奪取が狙いだったとするが、義経が承諾した理由は不明確である。義経は検非違使として都の治安を担っていたので、長期に渡り検非違使別当を務めて警察権を握っていた時忠の地位を継承しようとしたのではないか、という指摘もある[1]。5月20日、捕虜となった人々の罪科が決定し、時忠・時実・信基・尹明・良弘・全真・忠快・能円・行命の9名が流罪となった。時忠は神鏡を守った功績により死罪一等を減じられたとされるが(『吾妻鏡』5月16日条)、武士ではなく文官であり死刑が予定されていたかは疑問である。

鎌倉に向かった義経が帰京してから配流が執行される予定だったが、この頃から義経と頼朝の間に不和が発生したらしい。『愚管抄』には「関東ガ鎌倉ノタチヘクダリテ、又カヘリ上リナドシテ後、アシキ心出キニケリ」とあり、義経はしだいに鎌倉の統制から外れていく。8月中旬には時忠・時実を除く7名が配地に下るが、時忠・時実は義経の庇護を受けて都に残留していた。義経の動きに不信感を抱いた頼朝は、梶原景季を派遣して時忠・時実がいまだに在京していることを咎め、朝廷には配流の速やかな執行を言上した(『吾妻鏡』9月2日条)。9月23日、時忠は情勢の悪化を悟り、配流先の能登国に赴いた(『山槐記』同日条)。『平家物語』では都を離れる前に建礼門院に別れの挨拶をしているので、ある程度の行動の自由は認められていたようである。

10月13日、義経は後白河法皇に頼朝追討の宣旨を下すことを要請した。後白河法皇は躊躇するが左大臣・経宗の意見により、18日、頼朝追討の宣旨を出す。しかし義経に従う武士は少なく、兵は思い通りに集まらなかった。11月3日、義経は都を退去して再起を図ろうとしたが、あえなく自滅する。時実は義経に同行したが捕らえられ、翌年正月に上総国に配流された。

終焉

当時の能登守は基房の寵臣・藤原顕家であり、能登国は基房の知行国だった。基房は反平氏的人物だったが正室は花山院兼雅の姉妹であり、顕家の従兄弟には藤原隆房がいた。彼ら親平氏貴族の働きかけにより、時忠は配地では丁寧に遇されていたようである。また、都に残された時忠の家族にも特に圧迫が加えられた様子はない。時忠の邸宅は一旦は没収されて平家没官領となったが、頼朝は時忠の家族をそのまま居住させた。娘の宣子は後鳥羽天皇の典侍となっている。後の建久6年(1195年)3月に頼朝が上洛した時、時忠邸は若宮供僧の宿坊となった。領子と帥典侍尼(宣子)が鎌倉の頼朝に愁状を出したところ、頼朝は後鳥羽や吉田経房に配慮したらしく収公を差し止め、時忠の遺族に返還している(『吾妻鏡』建久6年7月19日条)。

文治5年(1189年)2月24日、時忠は能登国の配地で生涯を終えた。墓は石川県珠洲市大谷町則貞の国道249号線傍にある。同年5月、奥州藤原氏の追討宣旨を要求する頼朝に、後白河は配流されている時実らの赦免を申し入れる。頼朝はこの要請を受け入れ、時実らは帰京した。なお、時忠の子時国の子孫を称する家が能登半島で豪農(上時国家、下時国家)となり、現在も続いている。

評価

時忠について、九条兼実は「時忠素狂乱之人也」(『玉葉』安元2年(1176年)7月8日条)、慈円は「サカシキコトノミシテ、タビタビナガサレナンドシタリシ者」(『愚管抄』)と評している。ただ、兼実と慈円は成り上がりの院近臣にはしばしば非難の言辞を浴びせているので、これらの記述をそのまま鵜呑みにはできない。頼朝は時忠の死去を聞いて「智臣の誉あるによりて、先帝の朝、平家在世の時、諸事を補佐す。当時と雖も朝廷の為に惜しむべきか」(『吾妻鏡』文治5年(1189年)3月5日条)と語っている。

『平家物語』では検非違使別当の宣旨を三度受け、都の治安維持に手腕を発揮したことで「悪別当(峻厳な検非違使別当)」の異名をとったとしている。この話は語り本系だけにあり読み本系には存在しないので、実際にそのように呼ばれていたかは不明であるが、『百錬抄』『山槐記』の治承3年(1179年)5月19日条には、強盗12人の右手を切り落としたという記述がある。文官でありながら厳しい処罰を実行できたのは、かつて尉・佐として実際に罪人の追捕や裁判の任務に携わっていた経験によるものと思われる。このような豪胆で激しい性格の一方で、娘を義経に嫁がせて地位の保全を図るなど、目的のためには手段を選ばない冷徹な資質も持ち合わせていた。これは実務官僚の家に生まれ、失脚を乗り越えて政界の荒波をくぐり抜けてきたことで形成されたものと考えられる。

時忠は子の時実を実務官僚・吉田経房の娘と結婚させ、有職の公卿・中山忠親に娘を嫁がせるなど、政界に幅広い人脈を築いた。政治的には高倉の側近である藤原隆季・土御門通親と共同歩調を取ることが多かったが、清盛や後白河とは必ずしも親密とはいえず、時にはその意向に逆らうこともあった。これは時忠が堂上平氏の出身であり、建春門院と高倉のことを最優先にしていたためと推測される。非蔵人から権大納言にまで昇進したことを考えると、政治家として稀有の人物であり、その存在意義は大きかったといえる。

時忠の母について

公卿補任』の時忠の項に母の記載はなく、弟・親宗の項に「母同時忠卿」とある。『尊卑分脈』の時忠の項にも母の記載はなく、親宗の項に「母大膳大夫藤家範女」とある。親宗の隣にある時子の項には「母同」と記されている。

尊卑分脈』の藤原道隆流・藤原家範女の項には「美福門院女房少将局平親宗母」とある。ところが藤原基隆(家範の子)女の項にも、同じく「美福門院女房少将局平親宗母」という記述がある。一方、勧修寺流・能円(藤原顕憲の子)の項には、「母官女二条大宮半物大納言時忠并従二位時子同母」と記されている。このように『公卿補任』『尊卑分脈』の各記事には、混乱と矛盾が見られる。

まず、親宗の母「美福門院女房少将局」が家範の娘と基隆の娘のどちらであるか、という問題がある。これについては、家範(1048年生まれ)の娘が美福門院(1117年生まれ)に女房として仕え、親宗(1144年生まれ)を産んだとするのは年代的に合わないため、基隆(1075年生まれ)の娘とするのが妥当と思われる。

次に、能円の母「官女二条大宮半物」が親宗の母・藤原基隆女と同一人物であるか、という問題がある。半物は女房と雑仕女の中間の身分と推測されるので、公卿になった基隆の娘が半物であったとは考えにくい。また、時忠・時子と親宗の母が同じだとすると、基隆女の項に親宗の名だけが記され、時忠・時子の名が欠けていることが不審といえる。時忠・時子と親宗の年齢差も大きく、母は別人である可能性が高い。

時忠の娘について

壇ノ浦の合戦後、捕虜となって5月20日に配流の決定が出されていた時忠が、義経に娘を差し出して舅となった縁によって未だ京都に滞在し、頼朝の怒りを買っている(『吾妻鏡』文治元年(1185年)9月2日条)。『尊卑分脈』に義経の妾と記されている時忠の娘は、『平家物語』によると先妻の娘で23歳とされる(『源平盛衰記』では28歳)。北陸の伝承では蕨姫と呼ばれている。

脚注

  1. 元木泰雄『源義経』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2007年。

官歴

3月16日:非蔵人
1月7日蔵人
4月11日大学助
11月14日左兵衛少尉
12月21日左衛門少尉
1月28日検非違使兼帯
4月1日:従五位下に叙位。
9月9日兵部権少輔
11月26日:従五位上に昇叙。兵部権少輔如元
閏5月25日:刑部大輔
4月3日:右衛門権佐。検非違使に補任
10月3日右少弁兼任
4月1日:正五位下に昇叙。検非違使・右少弁・右衛門権佐如元
9月15日:解官
6月23日:出雲国に配流
9月14日:出雲国より召返
3月27日:正五位下に復位
4月6日:左少弁
6月6日:右中弁。左衛門権佐を兼任
6月8日:検非違使兼帯
6月19日:蔵人兼帯
7月12日:修理左宮城使兼帯
8月27日:従四位下に昇叙。修理左宮城使・検非違使・右中弁・左衛門権佐如元
11月3日:従四位上に昇叙。修理左宮城使・検非違使・右中弁・左衛門権佐如元
11月16日蔵人頭に補任
1月5日:正四位下に昇叙。蔵人頭如元
1月30日:右大弁兼任
2月11日参議。右兵衛督兼任。蔵人頭・右大弁両官職止む
1月11日能登権守兼任
2月17日:従三位に昇叙。
7月3日:検非違使別当(一回目)。右衛門督を兼任。参議如元
8月4日:正三位に昇叙。参議・検非違使別当・右衛門督如元
8月10日権中納言
8月12日:検非違使別当・右衛門督両官職兼任
12月28日:解官。出雲国に配流
2月6日:出雲国より召返
12月8日:正三位に復位
4月21日:権中納言還任
2月10日:中宮権大夫兼任
1月11日:従二位に昇叙。権中納言・中宮権大夫如元
11月12日:検非違使別当(二回目)・右衛門督両官職兼任
12月8日:検非違使別当辞職
1月24日:左衛門督・中宮権大夫両官職兼任。右衛門督任替
7月26日:中宮大夫兼任。中宮権大夫任替
1月7日:正二位に昇叙。権中納言・中宮大夫・左衛門督如元
1月19日:検非違使別当(三回目)
2月25日:新院(高倉上皇)別当兼帯
11月25日:中宮大夫辞任。建礼門院別当に転任
10月3日:中納言に転任。左衛門督兼任
1月22日権大納言
8月16日:解官

伝説

山梨県笛吹市石和町市部の鵜飼山遠妙寺の縁起、また石和地域の民話に次のような話がある。

「平安末期、殺生を禁じる領主により禁漁となっていた笛吹川で鵜飼をした勘作という老鵜匠が、極刑を言い渡され簀巻きにされて川へ沈められた。だがその後勘作の亡霊が出るようになり、村人が困り果てていたところ、たまたま通りかかった日蓮と弟子・日朗が供養を申し出る。二人が法華経69380字余りを一字一字河原の石に書いて川に流し、供養塔を建てたところ、それ以降勘作の亡霊は出なくなった。この時に日朗がこの地に草庵を結び、それが現在の鵜飼山遠妙寺となった。」

この話は後に世阿弥によりに脚色され、『鵜飼』の演目で知られているが、当寺および地元ではこの話の鵜匠「勘作」が実は時忠であり、配流先の能登国から逃れてこの地に流れ着き、漁師をしていたという伝説を伝えている。

参考文献

  • 角田文衛 『平家後抄(上)』朝日新聞社〈朝日選書〉、1981年。
  • 多賀宗隼 「平氏一門 -平時忠について-」『日本歴史』360、1978年。
  • 平藤幸 「平時忠伝考証」『国語と国文学』79-9、2002年。
  • 松島周一 「高倉院政と平時忠」『愛知教育大学研究報告(人文・社会科学編)』52、2003年。

関連項目