質量
目の前に見えるいろんな物には質量という物理的物指しで計量される分量が備わっているとされる。総じて、見かけが大きいものは質量も準じて大きいものである。例として見えると書いたが、見えないものにも備わっていることもある。例えば空気などがそれである。身近な例としては人体、自動車、パソコンのモニター、キーボード等あるが、いくらでもあげてみることができそうである。体の大きい人は総じて、質量も大きいものであるが、肥えている人は水脹れの場合もあり必ずしもそうではない。質量を測るにはいくつかの方法がある。質量を定義に従って計ることは実際にはほとんどしない。質量など何の目的で定義したかは、重さとの関連性で必要性が生じたからである。例えば、地球自身のお重さを計ることは重さの定義から出来ないが地球が物の集合体であるとするとその質量は計算できる。質量がわかれば運動の法則から運動の軌跡が算出され天文学上も便利である。地球以外の惑星などの運動も全て、この質量で計算していくという事情がある。文字の成り立ちを見ると、質の量とあるので、初心者に対しての説明をするときに、物の実質的な量を質量というのだという説明をすることがある。そのような訳のわからない実質的な量などを決めてなにかいいことでもあるのかと思うのは当然な疑問であろう。物事の理解は最初は嘘っぽい説明も有益である。質量と対比して重さという量がペアーで挙げられることが多い。質量と重さは別の概念であるが、同じ場所では比例しているので比例係数を介すればどちらかを使用すれば事は済む。例えば金塊の重さを秤で計れば、金銭取引上の用は済む。この時、質量は幾らかは必要はない。しかし、その金塊を緯度の高いところで売ろうとすると重さが小さくなるので安くなってしまう。逆に緯度の低いところに持っていけば重いので高く売れる。同じ金塊なのに相場変動とは別に高低が生ずる。そのようなこともあり、実質的な量として質量という単位ものがあったほうが便利である。実はこのような必要性から質量を決めたわけではないが、目的としてはそう思ってもよい。誰かが必要性があったので重さだけで通常は十分なのに質量を考え付いたというのではない。そんな動機からではなく、物体の運動について研究していた先人たちによって全く、別の視点から質量というものが提唱されたのである。ところがその実質的な量としての質量までもが必ずしも実質的な量ではないことがアインシュタインによって指摘されてしまったのである。確かに手に握ったはずの金塊で別に何の加工も加えていないのに高速の乗り物の中では少しではあるが質量の大きさがいつの間にか変化して大きくなっているのである。乗り物が光の速度に近くなると、莫大な大きさの質量に変化してしまっているので莫大な大きさの力が速度を上げるのには必要で、現実にはもう上げることは出来ない。であるから、どんな乗り物も光の速度以上には加速することは出来ないと考えられている。これはこの宇宙の法則であってなぜとか考えてはいけない事実である。そのようにこの世界はなっていると素直に思わなくてはならない。宇宙旅行にロケットやその他の乗り物を使うわけであるが、自動車のエンジンを吹かすように、ロケットエンジンを吹かせさえすればどんどんと加速して幾らでも速くなりそうだが、乗り物自体の質量(何故か分からないがそれが自然の掟と言えよう)が増えてしまい、搭載されたエンジンの能力では加速が出来なくなるので速度には限度がくる。