巨人キラー

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巨人キラー(きょじんキラー 、Giants Killer )とは、読売ジャイアンツとの試合で好成績を残す選手である。略称はGキラー。主にある程度の実績を持つ先発投手が挙げられているが、リリーフでも例外的に「左のワンポイント投手」が巨人の左の強打者に対して威力を発揮した場合、巨人キラーと呼ばれる場合がある。

なお巨人キラーの明確な基準・定義は定まっておらず、一時期の活躍によって称される場合も多い。

現役選手

特に断りない限り、2010年シーズン終了時点での成績(印象)。

対巨人戦勝率が突出している投手

元々は西武時代にローズキラー」と呼ばれており、ローズの巨人移籍と自身の横浜移籍が同時期であったために先発登板していたが、ローズ以外のバッターをも手玉に取る投球内容から、特に2005年は必ず巨人戦に当たるようにローテーションが調整され、10勝(11敗)中7勝(1敗)を巨人から稼ぎ、シーズン中盤以降は放映時の選手紹介文にも「巨人キラー」と表示されるようになった。反面、巨人・中日以外との対戦成績は極端に悪い。

巨人戦に強い時期があった投手

  • 阪神 下柳剛阪神での通算80勝54敗中、対巨人16勝7敗
2003年に日本ハムから阪神に移籍。自身が登板したときのチームの成績は16勝3敗。巨人から勝ち星を稼いでいたが2007年は攻略されている。
  • 阪神 福原忍(対巨人通算16勝17敗)
数年成績が良化した投手が巨人キラーとされている典型。2006年は3勝1敗、防御率0.86を記録した。2007年は故障で振るわなかったが、巨人戦だけは好投した。
現役最多・NPB歴代3位の対巨人勝利を挙げている。負け越しているので特別相性が良い訳ではないが、2008年8月4日のプロ入り通算200勝目(完投勝ち)、2010年9月4日の45歳0ヶ月の最年長での完封勝利はいずれも巨人から挙げている。
巨人戦での勝率のみならず、通算勝率自体も高い。2002年8月1日には与四球1のみのノーヒットノーランを達成し、チームの対巨人の10連敗を阻止した。なお、現在はMLBの選手。
2005年以降、交流戦の中で6勝(3敗)を巨人から挙げた。ロッテ自体も巨人に対し9連勝を含む15勝9敗と勝ち越している。

巨人キラーの印象が強い投手

2008年、日本シリーズにて巨人と日本シリーズでは初対戦している。
2009年、日本シリーズにて巨人と日本シリーズでは初対戦している。
2009年オフ巨人に移籍。
3人とも好不調の波が激しい左腕投手であり、完膚なきまでに抑えられる印象や、90年代の「強いヤクルト」のイメージとも相まってか、巨人キラーの印象が強いが、通算勝率と比べると実際は巨人戦勝率が低く、特にジャイアンツの本拠地である東京ドームでの相性が極端に悪い。

引退・退団した選手

50年代、杉下茂(中日)はNPB歴代5位となる38勝(43敗)を上げた。特に1954年には2位となった巨人から11勝し、チーム初優勝の原動力となった(この年の中日-巨人戦は中日の14勝12敗)。巨人相手に1シーズンで10勝以上した投手は杉下ただ1人である。

60年代、金田正一国鉄 - 巨人)は弱小チームで巨人戦最多勝を記録(国鉄時代通算353勝267敗、対巨人65勝72敗)。川上哲治には1950年から1958年までの9年間で本塁打を1本も許さなかった。広島カープの創生期、長谷川良平などもカモとなるはずの弱小球団の盾となった。

30勝以上(セーブポイントは含まない)で尚且つ勝ち越しを記録しているのは、平松政次(51勝47敗)、星野仙一(35勝31敗)、川口和久(33勝31敗)の3名のみ。平松は通算勝利数の1/4を巨人から挙げており、特に王貞治長嶋茂雄の2人がいた1967年~1974年にかけての対戦では30勝24敗の成績を残し、長嶋を通算で.193に押さえ込んでいる。ただし、王は平松から最も多い25本の本塁打を打っている。(2位は星野で24本)

川崎憲次郎(通算88勝82敗、対巨人29勝24敗)は通算勝利の1/3を巨人から挙げているが、勝率自体は突き抜けたものではない。2000年オフに「巨人キラー」を買われてFAで星野仙一監督にスカウトされ中日に移籍するもののこれ以降は巨人戦はおろか、1勝も挙げることができなかった。

野村弘樹(通算101勝88敗、対巨人25勝17敗)は通算勝利の1/4を巨人から挙げ、勝率も比較的高い。

また、広島山内泰幸(通算45勝44敗、プロデビューから対巨人戦無傷で10連勝するなど対巨人通算13勝4敗)のように活躍期間が1~3年ではあるが、変則フォームを武器にし巨人キラーとして活躍した投手も存在する。

今中慎二(通算91勝69敗、対巨人通算25勝20敗)金田正一江夏豊の、3年連続対巨人戦5勝以上の記録に一歩及ばなかった。

代表的な投手

ヤクルトスワローズ(サンケイ)
  • 松岡弘(通算191勝190敗、対巨人34勝46敗)
平松政次、星野仙一と同じ岡山県出身で同時代に「打倒巨人」に燃えた名投手であるが、松岡だけ負け越している。
横浜ベイスターズ(大洋・横浜大洋)
右打者に食い込むシュートで長嶋茂雄はよく抑えたが、王貞治にはよく一発を浴びた(王が一番多くホームランを打った投手)。
  • 山下律夫大洋時代の通算77勝76敗、対巨人20勝20敗
  • 斉藤明夫(通算128勝125敗、対巨人31勝33敗)
入団した1977年に勝利数の半分を巨人から挙げ、新人王の座に輝く。
1993年は7勝(0敗)を挙げ、この年の最多勝の原動力となった。
1996年松井秀喜から7本塁打を浴びている。(松井が一番多くホームランを打った投手)。
中日ドラゴンズ
阪神タイガース(大阪)
「初代巨人キラー」と称されている。
長嶋から節目となる1500奪三振と2000奪三振を奪った。
王から最も多く三振を奪った。
2003年には対巨人戦勝率10割を記録した。
広島東洋カープ
巨人から4勝を挙げた翌年にFAで巨人に移籍している。
90年代の成績が降下しつつあった広島を支えたエース兼クローザー。
初対戦から対巨人戦10連勝を達成。
  • 黒田博樹(広島での通算103勝89敗、対巨人20勝17敗)
初登板、初勝利、初完投、通算100勝目を達成した相手が巨人。現:ドジャース

記憶に残る投手

「記憶に残る投手」としたにもかかわらず、狭義で巨人キラーとはっきりと定義できる投手が並んでいる。代表例に留める。

1960年代後半のワンポイント投手。「王キラー」として知られ、72打数の対戦で1本も本塁打を許さなかった。
左のサイドスローという関係上、王と非常に相性が良く、その実力を証明するエピソードとして王が本塁打の世界新記録更新に王手をかけている時期に唯一新記録を打たされるのを恐れず、巨人戦で真っ向から挑み、本塁打を打たせなかったのは有名。長嶋キラーでもあった。
「最強の王キラー」と呼ぶものもいる(江本のエピソードの項を参照)。
巨人の右のアンダースローのエースだったが、1979年江川事件の余波を受け阪神移籍。この年巨人戦8勝0敗を記録。
松井高橋キラー」として左のワンポイントで活躍した。
王貞治を封じるために「背面投げ」をした。
1987年初登板初先発の巨人戦、18歳11ヶ月でノーヒットノーランを達成した。
巨人を解雇されヤクルトと契約した2001年、生涯成績のうち半分の勝ち星を挙げ、4勝を巨人から挙げている。
1993年6月9日の巨人戦では、スライダーで三振の山を築き、9回まで16奪三振セリーグタイ記録のピッチングを続けた。ただし、16個目の三振を取った直後に篠塚和典にサヨナラ本塁打を打たれ、敗戦投手になった。

巨人キラーと「報道」されている選手

2006年、自らの衰え、2004年就任した落合博満監督との確執もあり、中日ドラゴンズから巨人にFA移籍した。その際「巨人にノーヒットノーランを達成した左腕」などと報道されるものの、10年前8月11日)の出来事であり、対巨人成績も中日での通算80勝78敗中、14勝15敗である。
2006年オフ横浜フロントとFA契約交渉が難航し退団、最終的に巨人に移籍した。この年シーズン成績10勝10敗、防御率4.8ながら巨人戦で2勝0敗防御率1.15の成績を残す。実際は故障者が続出した4勝30敗と大型連敗中の登板であり、対巨人戦通算の巨人戦対戦成績は防御率5点台だが、「巨人キラーを引き抜く」といった稚拙な報道がインターネット・タブロイド誌などでみられた。(ただし中日在籍中の1996年8月2日に激しい優勝争いの中で初完封勝利を巨人戦であげている。)

打者について

短期的にはトレードで球団を移籍した打者が次のシーズン古巣との対戦で活躍し、古巣を苦しめるようなケースは過去多々存在し、トレードをマイナスにとらえる日本では、タブロイド誌などで「古巣を追われた復讐」などと誇張されて報道されることが多い。

長期的には、レギュラークラスの優れた打者が特定のチームしか打てないということは有り得ないため、チームよりも特定の投手を指して上原キラー」などという表現が使われることが多い。このように投手よりもさらに曖昧なため、説明に留める。