宮崎勤

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宮崎 勤
宮崎 勤
宮崎 勤

宮崎 勤(みやざき つとむ、1962年8月21日 - 2008年6月17日)は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件参照

事件発生

<TBODY> </TBODY>
  誘拐&殺害日 被害者 被害者の住所 遺体発見日 遺体発見場所
1988年
     (昭和63年)
8月22日
今野真理ちゃん
(4歳/幼稚園児)
埼玉県入間市 1989年
     (平成元年)
2月6日
今野宅の玄関前に段ボール箱が置かれているのを発見。中には細かく砕かれ焼かれた人骨片やピンク色ショートパンツなどを写したインスタント写真、5つの文字をコピーした紙が入っていた(殺害から約6ヶ月後)。
1989年
     (平成元年)
9月13日
東京都五日市町の山林で手足の骨を発見(殺害から約1年1ヶ月後)。
1988年
     (昭和63年)
10月3日
吉沢正美ちゃん
(7歳/小学1年生)
埼玉県飯能市 1989年
     (平成元年)
9月6日
宮﨑が自供した翌日、東京都五日市町の山林で白骨死体となった遺体と衣類を発見(殺害から約11ヶ月後)。
1988年
     (昭和63年)
12月9日
難波絵梨香ちゃん
(4歳/幼稚園児)
埼玉県川越市 1988年
     (昭和63年)
12月15日
埼玉県名栗村の横瀬川河川敷で衣類や靴などを発見したあと、名栗村の山林で遺体を発見(殺害から6日後)。
1989年
     (平成元年)
6月6日
野本綾子ちゃん
(5歳/保育園児)
東京都江東区 1989年
     (平成元年)
6月11日
埼玉県飯能市の宮沢湖霊園で頭部の一部と両手足が切断された胴体部分を発見(殺害から5日後)。
1989年
     (平成元年)
8月10日
宮﨑が自供した翌日、東京都奥多摩町の山林で残りの頭部の一部を発見(殺害から約2ヶ月後)。

今野真理ちゃん(4歳)

1988年(昭和63年)8月22日午後3時過ぎ、東京都五日市町(現・あきる野市/以下同)小和田、印刷業手伝いの宮﨑勤(当時26歳)は、埼玉県入間市内の歩道橋を歩いていた入間市の設備設計会社社長(当時47歳)の次女で幼稚園児の今野真理ちゃん(4歳)に、「涼しいところに行かないかい?」と声をかけ、日産・ラングレーに乗せて東京都八王子市内の山林に連れ込み、午後6時半ころ、山林内で真理ちゃんが泣き出したので、押し倒して絞殺した。

8月23日、東京都杉並区高円寺南のレンタルビデオ店でビデオカメラなどを借り、殺害現場に行き、遺体の陰部などに指を入れるなどしてビデオ撮影した。

吉沢正美ちゃん(7歳)

10月3日午後3時ころ、宮﨑は埼玉県飯能市の原市場小学校の傍らで遊んでいた飯能市の運転手(当時40歳)の次女で小学1年の吉沢正美ちゃん(7歳)に「道を教えてくれるかい?」と近づき、ラングレーに乗せて八王子市の新多摩変電所まで走り、さらに、歩いて日向峰の山林内に連れ込んで、午後5時ころ、絞殺した。全裸にして性器などに指を入れるなどしたが、死んだはずの体が動くので怖くなって逃げ帰った。

難波絵梨香ちゃん(4歳)

12月9日午後4時半ころ、宮﨑は埼玉県川越市の自宅の団地の傍らで遊んでいた川越市の会社員(当時35歳)の長女で幼稚園児の難波絵梨香ちゃん(4歳)に、「温かいところに行こう」と声をかけてラングレーに誘い入れたが、途中でシクシク泣き出したので、入間郡名栗村の県立少年自然の家の駐車場に車を止めた。ヒーターで車の中が暑くなったので、「お風呂に入ろう」と言うと、絵梨香ちゃんが服を脱いだので、ストロボを使って写真を撮ったが、またシクシク泣き出したので、午後7時過ぎ、車の中で馬乗りになって絞殺した。午後8時ころ、名栗村新田の山林内に死体を遺棄した。

被害者宅へ暗号を郵送

12月15日、難波絵梨香ちゃんの衣類や靴などに続いて遺体が発見される。同日、宮﨑は新聞から拾った文字を自宅工場のコピー機で拡大コピーして切り取り、<魔がいるわ>と文字を並べて、これをさらに拡大コピーして貼り付けた葉書を今野真理ちゃん宅宛てに郵送で送り届けた。

宮﨑はのちにこれは「入間川」をもじったものと供述している。

12月20日、宮﨑は自宅にあった新聞と本の中から<絵梨香><かぜ><せき><のど><楽><死>の6文字を拾い出し、工場のコピー機で拡大コピーし、この文字を白紙に貼り付け、さらにコピーして貼り付けた葉書を難波絵梨香ちゃんの父親宛てに郵送で送り届けた。

<絵梨香><かぜ><せき><のど><楽><死>の6文字については、国内のアナグラムマニアの協力を仰いで解明が試みられた。文字をローマ字に置き換えて並べ替えると、「U」が1文字足りないが、「IKIKAESASERAREZ KINODOKU」――「生き返させられず 気の毒」と読めることが判明した。

1989年(平成元年)1月中旬ころ、今野真理ちゃんの殺害現場から頭蓋骨などの骨を持ち帰り、自宅前の畑でゴミや家具と一緒に燃やした。

2月6日午前0時ころ、宮﨑は今野真理ちゃん宅の玄関前に段ボール箱を置いた。中には黒っぽい灰や泥、焼かれて炭化した木片、細かく砕かれ焼かれた人骨片やインスタントカメラで撮影したピンク色半ズボン、パンツ、サンダルのカラー写真、自宅にあった辞書の中から拾い出した<真理><遺骨><焼><証明><鑑定>の5文字を工場のコピー機で拡大コピーしたB5判の紙が入れてあった。

東京歯科大が人骨片のうち計10本の歯を鑑定した結果、一度は真理ちゃんのものでないと発表したが、3月1日、真理ちゃんのものと断定して発表した。

<真理><遺骨><焼><証明><鑑定>の5文字</FONT>の文字についても同様に、アナグラムマニアの協力を仰いで解明が試みられ、それぞれの文字を「MARI」「IKOTSU」「YAKU」「SHOUMEI」「KANTEI」とローマ字に置き換えて並べ替え、「T・MIYASAKI HAKOTSUME IENI OKURU」――「T・宮﨑 箱詰め 家に送る」と読める。宮﨑は「みやざき」と読むが、「みやさき」とも読めることから、「S」を使って完成させている。また、<焼>を「YAKI」とすると、「MIYASAKITSUTOMU HAKONI IRE KIE」――「宮﨑勤 箱に入れ 消え」と読める。さらに、「MIYASAKI TSUTOMU KIREINI HAKOE」――「宮﨑勤 綺麗に 箱へ」とも読める。

専門家によると、27文字のローマ字を並べ替えて、宮﨑勤のフルネームが出てくる確率は1兆分の1以下だそうで、意図的に作られたということが判明した。

2月10日、インスタントカメラで撮影した今野真理ちゃんの顔写真を添付し、「犯行声明」というタイトルをつけたB4判のコピー用紙3枚を入れ、差出人を「所沢市 今田勇子」として、東京都中央区築地朝日新聞東京本社宛てに郵送した封書が届く。2月11日、朝日新聞社に送ったものと同じ封書が今野真理ちゃんの母親宛てに届く。

犯行声明文(縦書き/誤字や読点などは原文のまま)
 
今野まりちゃん宅へ、遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です。この、真理ちゃん一件に関しては、最初から最後まで私一人がしたことです。
私が、ここに、こうして真実を述べるのには、理由があるからです。まずあの段ボール箱に入った骨は、明らかに真理ちゃんの骨です。その証かしを立てます。

まず、どうやって連れ去ったかを述べましょう。
去る8月22日、私は、私には、どうしても手をのばしても届くことのない子供を、今日一日は自分のものにしたい思いにかられ、入間ビレッジの8号棟裏に車を止め、
あのプールでは、親に送り向かえをされない、一人で行き帰りする子供達の多いことを、知っている私は、その出口付近に一人で立っていました。

すると、真理ちゃんと、兄弟の男の子と二人で出て来て、ポストの所で別々になり真理ちゃんは、一人で家に帰る様子でした。
水着で歩いて行くので、家が近い筈だとみらみ、つけ回す距離も短くてすむと思ったのです。
まず真理ちゃんが家に入って、今日一日、出て来なくてもかまわなかったのです。
いつか宅から出て来る母親の顔さえ覚えておいて、その人が、真理ちゃんのそばに居ないときに、真理ちゃんを誘えば良いのだと思ったので、ちっともあわてずに、尾行しました。
つまり、母親が、自分の子供と一緒に居る時が一番危ないのです。

思った通り、真理ちゃんは家へ入りました。母親も中に居たよウです。
さて、私は母親の顔を見てから立ち去ろうと思い、7号棟入口付近に立っていましたが何と真理ちゃんが、すぐに出て来たのです。
予想こそはずれましたが、家の中に母親が居るということは、今、真理ちゃんの周囲には誰も居ないこととなり、願ってもないチャンスにめぐりあえました。

勿論、家の前で声をかけては、母親に相談するためにもどられてしまいます。
母親の位置から遠のかせる意味も含めて、真理ちゃんを自由に歩かせ、距離を遠のかせ、後をつけます。
そして、真理ちゃんが歩道橋を渡ると私は確信したので、私は、通りを走って歩道橋の向こう側から走ってのぼり、上で真理ちゃんを待ち伏せ、言葉をかけて、真理ちゃんをつかまえます。
うまくいったというより、女同志でしたので真理ちゃんは怪しまなかったと説明した方が適切でしょう。
話しが思ったより思い通りにまとまり、「私が、車のクーラーを先に行って、かけているから少したったら来てね。」と言って、先に車へ行き、乗って待った所、すぐに真理ちゃんは一人で来ました。
つまり、真理ちゃんが、私の車に乗り込むまで、誰一人、私を見ていないのです。

接続詞や連体詞、読点を多用して、読む人を説得させようとしている意図が感じられる文章になっている。「今田勇子」という名前については、取調官に対し供述しているが、「宮﨑の異常性を却って強調してしまうおそれがある」という理由からその調書は法廷には提出されなかった。

「今田勇子」は少女マンガの『毒をくらわばサラミまで』に登場する女刑事の名前を借用しただけと供述したり、「イマダユウコ」で「今だから言う」とか「コンダユウコ」と読ませて「今度は言う」の意味で、「勇子」という字から「マ」を取れば「男子」となり、男女を曖昧にするために都合がいい。

さらに、「今田勇子」という文字を完全に分解し、組み立て直せば、野の字が少し変だが、「今野マリ」という文字になるとも供述している。だが、精神鑑定での問診では読み方を問われ、「いまだいさこ」とか「親が変てこりんなら『いさむこ』と読ませる」とはぐらかすように答えている。

3月6日、今野真理ちゃんの両親が「葬儀・告別式を3月11日正午から行なう」と発表。

3月11日、「告白文」というタイトルをつけたB4判のコピー用紙3枚を差出人を「今田勇子」として朝日新聞東京本社社会部と今野真理ちゃん宅宛てに郵送した封書が届く。その告白文の書き出しは<御葬式をあげて下さるとのことで、本当に有難うございました>となっており、被害者遺族の神経を逆撫でするような内容になっている。また、この「告白文」の中には次のような文章がある。

私は、引っ越して来た家の床下に埋めた子供の隣りに、真理ちゃんの骨を埋め、これで、やっと、ほっとしました。
これで全てが終わったのです。それが、しかしです。やがて、群馬の方で、不明だった子の家のそばで、子供の骨が発見されました。やはり、骨だけだったので、鑑定をしても、それが誰のものかはわからなかった。しかし、「県内で他に不明の子がいない」という理由で、「その骨を明子ちゃんのものとしてもよい。」という発表があった。私のように、後になって骨を運んだ人がいたのかもしれない。去年、捜索しても何も無かった河川敷に明子ちゃんの骨があった。そして、発表の後、明子ちゃんの両親は御葬式をだした。やはり、明子ちゃんだと限らなくても、両親という物は、そういうものなのです。自分の子に対する本心の涙で、はっきりしない葬式をあげてしまいました。

私は、この事で、ある決心をし、計画をたてたのです。

ここで宮﨑が書いている「明子」は「朋子」の間違いで、群馬県尾島町亀岡、小学2年生の大沢朋子ちゃん(8歳)のことである。朋子ちゃんは1987年(昭和62年)9月15日午前11時ころ、子猫を抱いて自宅近くの尾島公園に出かけたまま行方不明になっていた。宮﨑による幼女連続殺人事件が起きる約1年前の出来事である。

1988年(昭和63年)11月27日、尾島町前小屋の利根川河川敷で釣り人が散乱した子どもの骨を発見した。骨は頭蓋骨を中心に2~3メートルの範囲内に散乱していたが、両腕のひじから先と両足のひざから先の骨が見つからなかった。死後1年以上経過していた。警察はこの白骨死体を大沢朋子ちゃんである可能性が高いとしたが、その理由は、

(1)最後の目撃現場から人骨発見場所が1キロという近い距離であること。

(2)朋子ちゃんが行方不明になった時期と死亡推定時期が一致すること。

(3)他に行方不明の者がいないこと。

(4)その後の白骨死体の血液型が朋子ちゃんと同じB型と判明したことであった。 宮﨑は「告白文」の中にわざわざ明子(朋子)ちゃんの名前を出し、他人の犯行であるようには書いている。朋子ちゃんの事件と宮﨑による一連の事件の共通するところをあげると、

(1)朋子ちゃんの発見された骨には「ひじから先とひざから先の骨がない」ということから今野真理ちゃんの事件やのちに殺害されることになる野本綾子ちゃんの事件で遺体が発見されたときの状況を連想させられる。

(2)群馬県は北関東で首都圏からはずれるが、埼玉県とは隣接しており、朋子ちゃんの白骨死体が発見された場所は群馬県と埼玉県にまたがって建設中の新上武大橋から下流800メートルの地点である。

(3)朋子ちゃんの遺体の発見場所も利根川岸で、宮﨑による殺人事件も入間川(上流は名栗川)沿いであった。

(4)朋子ちゃんは当時8歳で、宮﨑が殺害した幼女の年齢は4歳が2人、5歳が1人、7歳が1人となっている。このように、確かに共通する部分は多い。

宮﨑が4人の幼女を殺害したことを自供した頃に発売された1989年9月19日号の『週刊女性』(主婦と生活社)には、<天国の朋子ちゃん/とうとう犯人が見つかったよ・・・>というタイトルがあり、その上の方には<幼女殺人鬼 宮崎勤/5人目も白状/大沢朋子ちゃん(8歳)も殺して捨てた!?>というキャッチコピーがついている記事が掲載された。

この記事の内容の真偽はともかくとして、宮﨑は朋子ちゃんの事件に関わっていたかどうかが不明のまま、結局、宮﨑は「朋子ちゃん事件」で逮捕されることはなかった。2002年(平成14年)9月15日、事件発生から15年が経ったこの日、公訴時効となった。

また、朋子ちゃんが行方不明になった日の前日の1987年(昭和62年)9月14日には、同じく群馬県高崎市に住む高崎中央消防署員の長男の荻原功明(よしあき/5歳)ちゃんが誘拐され、2000万円の身代金を要求されるという事件が起きている。

2日後の16日、4回目の強迫電話では要求額が1000万円に下がったことや翌日の9月15日が「敬老の日」で当時の金融機関が休みだったことなどを知らなかったフシがあったことなどから、本当に身代金目的であったのかが疑問であった。

同日、功明ちゃんの全裸死体が自宅から6キロ離れた寺沢川にかかる入の谷津橋下の川底から発見された。高さ13メートルの橋から生きたまま投げ落とされたと見られている。功明の衣類は殺害現場から2キロほど離れた地点で見つかっている。

2002年(平成14年)9月14日、事件発生から15年が経ったこの日、公訴時効となった。この「功明ちゃん誘拐殺人事件」は戦後に発生した身代金目的の誘拐事件では唯一の未解決事件ということになっているが、1963年(昭和38年)5月に起きた狭山事件は形の上では身代金目的の誘拐事件であり、被疑者を逮捕・起訴し、その後の裁判で有罪判決になった、という意味では解決した事件とも言えるのだが、この事件は冤罪事件と見られており、そういう意味では、狭山事件も未解決事件とも言える。

死刑になる殺人などの公訴時効は2005年(平成17年)1月1日施行の改正刑事訴訟法により「15年」から「25年」に改正。さらに、2010年(平成22年)4月27日施行の改正刑事訴訟法により殺人、強盗殺人は公訴時効が廃止されたため、公訴時効が完成することがなくなった。

野本綾子ちゃん(5歳)

6月6日午後6時過ぎ、宮﨑は東京都江東区の公園で遊んでいた会社員(当時37歳)の長女で保育園児の野本綾子ちゃん(5歳)に「写真を撮ってあげる」と言ってラングレーに誘い入れ、約800メートル離れたプレハブ倉庫前路上で車を止め、チューイングガムを与えると、手の障害のことでからかわれたので、車の中で絞殺した。

帰る途中、杉並区高円寺南のレンタルビデオ店でカメラなどを借り、午後9時ころ帰宅。午後11時ころ、綾子ちゃんの遺体を車のトランクから自室に運び込み、電気こたつの上に乗せ、全裸にして体を拭いたあと、陰部に指を入れるなどしてビデオや写真を撮影した。

6月8日、綾子ちゃんの遺体の悪臭がひどくなってきたので、遺体の頭部、両手足を切断、髪の毛や歯を抜き、胴体部分を埼玉県飯能市の宮沢湖霊園の公衆トイレ脇に、頭部は自宅近くの御獄山に棄てた。

6月11日、飯能市の宮沢湖霊園の公衆トイレ脇からバラバラ死体の胴体部分が発見された。

6月12日、前日に発見された遺体は胃の内容物などから野本綾子ちゃんと断定された。

6月13日新潟県柏崎市佐藤宣行(当時26歳)が柏崎市で下校中の小学4年生(当時9歳)の女児に乱暴しようとして逮捕され、9月19日新潟地裁長岡支部で懲役1年・執行猶予3年の有罪判決を受けた。この頃には、宮﨑が幼女4人を誘拐して殺害したとして日本中が騒然としていた時期であった。それにもかかわらず、警察は佐藤宣行を前歴者リストに登録せずに放置していた。この事件から1年と5ヶ月後の1990年(平成2年)11月13日、28歳になった佐藤宣行は今度は三条市で当時小学4年生(当時9歳)の女児を車で連れ去り、自宅2階の自室に9年2ヶ月に渡り監禁した。佐藤宣行の名前が前歴者リストに登録されていたら、この女児が行方不明になった時点で、佐藤宣行が最重要人物として浮上していたはずである。2000年(平成12年)1月28日、19歳になっていた少女は柏崎市保健所職員により発見、保護された。2003年(平成15年)7月10日最高裁で佐藤宣行に懲役14年が下り、確定した。ちなみに佐藤宣行と宮﨑は同じ1962年(昭和37年)生まれ(佐藤宣行は7月15日生まれ、宮﨑は8月21日生まれ)。

6月27日ころ、御獄山へ行って綾子ちゃんの頭蓋骨を拾い、自宅の印刷工場の流し台で頭髪をむしって水洗いし、そのあと一部を東京都奥多摩町梅沢の山林に、一部を奥多摩町河内の山林に棄てた。

 宮崎逮捕

7月23日午後4時半過ぎ、宮﨑は小学1年生の女の子(当時6歳)に、「写真を撮らせてくれない?」と近づき、その場で数枚を撮影した後、自分の車に乗せ、八王子郊外の山林に連れ込み、全裸にしてビデオを撮ろうとしていたところを、尾行してきた女の子の父親に見つかって、通報で駆けつけた八王子署員に強制わいせつで逮捕された。

8月7日東京地検八王子支部は宮﨑をこの件で猥褻誘拐、強制猥褻罪で起訴。

8月9日、野本綾子ちゃん殺害を自供。

8月10日、自供通り、東京都奥多摩町の山林で野本綾子ちゃんの頭部が発見される。同日、マスコミが宮﨑の自宅に押しかけ、宮﨑の父親が宮﨑の自室を公開した。約6000本のビデオと多数のマンガが部屋中を埋め尽くし、窓までつぶしてしまった異様な光景は人々に衝撃を与えたが、以後、宮﨑は「オタク」と呼ばれるようになる。

のちに宮﨑が逮捕され、部屋から計5,793本のビデオテープが押収されることになるが、捜査員は「とにかく何が映っているか」を確認するため、74人の捜査員と50台のビデオデッキを投入したにもかかわらず、2週間もかかってしまった。宮﨑自身が撮影したり、録画した事件関連のものが計88本あったが、残りは次の5つに大別されている。

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スプラッター作品を含むホラーもの作品――『血肉の華』『ピーターの悪魔の女医さん』『ギニーピック』・・・

アニメ作品――『宇宙戦艦ヤマト』『タイガーマスク』『いなかっぺ大将』『ゲゲゲの鬼太郎』『魔法使いサリー』・・・

特撮モノ作品――『ウルトラマン』『仮面ライダー』『秘密戦隊ゴレンジャー』・・・

○テレビドラマ作品――『太陽にほえろ!』『隠密剣士』『コメットさん』『女王陛下の007』・・・

○アイドルもの作品――『松田聖子』『ピンクレディのすべて』『後藤久美子』・・・

この他にも数は少ないが、『CF』とタイトルをつけたコマーシャルもの、プロレスやテニスなどのスポーツ中継、アフリカの自然に生きるライオンやキリンなどのテレビドキュメンタリー番組まであり、捜査員も首をひねるような「マニアックな作品」も少なくなかった。

8月11日警視庁の「野本綾子ちゃん誘拐・殺人・死体遺棄事件捜査本部」は宮﨑を再逮捕し、身柄を八王子署から深川署へ移した。

8月13・14日、今野真理ちゃんと難波絵梨香ちゃんの殺害を認める上申書を深川署長宛てに提出。

8月21日、宮﨑が27歳になる。宮﨑の自宅から押収された約6000本のビデオテープの中から今野真理ちゃんの遺体を撮影したビデオテープが発見される。

8月23日、野本綾子ちゃんを撮影したビデオテープが発見される。

8月24日、宮﨑は東京地検の総務部診察室において、嘱託医の徳井達司医師から「簡易精神鑑定」を受けた。これは被疑者に精神障害の疑いが生じたときに、鑑定留置が必要か否かを決めるためである。ちなみに、徳井達司精神科医は1980年(昭和55年)11月に起きた「予備校生金属バット殺人事件」の被告人だった一柳展也の精神鑑定を福島章上智大教授ととも1年余りに渡って行った医師でもある。

簡易精神鑑定

診断の結果、精神分裂病の可能性はまったく否定はできないが、現在の段階では、人格障害の範囲と思われる。

(1)表情とぼしく、応答寡言で遅滞するが、話題によっては比較的円滑に応答し、自ら説明するときは雄弁になるところもある。この点は質問によっては反撃するとか考えながら応答する。また、同一内容の質問に対して、応答内容が変化することなどから、きわめて防衛的であるとともに、攻撃性がいちじるしいためと解される。

(2)問診の過程で、当初、異性に対する性的な興味はまったくないとし、犯行後の被害者に対する性器の悪戯も女性性器に関する知識を得るためと、一見異質と思われる理由を述べたが、再質問では成人女性の性器に興味があること、正常な性行為を欲求する気持ちのあることを述べ、思考伝播体験(自分が考えつくと同時に他人に感知されたと思い込む妄想)については、再質問では否定した。また、注察関係妄想(他人から観察されていると思い込む妄想)に相当する体験は、小学校当時から変わらないと述べ、分裂病では通常その年代では起こりがたいこと、結果的には上肢の運動障害に起因する精神的外傷・劣等感に帰着すると、合理的に納得できることなどから、仮にその体験が真実であったとしても、分裂病をただちに診定するのは相当ではないと思われる。

(3)そうしてみると、犯行はやはり性的欲動が中心にあると思われるが、幼児を対象としていること、行為の冷酷非常さが問題となる。その成因については、以下の点が考えられる

(ア)被疑者は生後、両上肢に運動障害が認められ、幼児期より深刻な精神的苦痛をともない、精神的外傷となっている。また、そのため交友、生活態度にも影響を与え、非社交的・自閉的傾向をもつ人格を形成するとともに、深い劣等感・対人不信から、攻撃性も醸成されている。
(イ)これらは発達上、制的成熟にも重大な影響を与え、女性との通常の異性関係を断念して、映像や雑誌に関心を集中させているが、成長するにおよび次第に実際の女体に触れることを求め、本件の動因を形成したと考えられる。
(ウ)幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず、幼児・老人・動物その他の性対象を否定し、露出・サディズムなどの性目標の倒錯も否定している。したがって、幼児を対象としたことは、代替であること、現在の性的処理は集約され、自己愛的であることが言える。
(エ)このような性的関心の中で相手にされやすい幼児を自らの欲動を達成するために殺していると思われ、その後の行為もきわめて非情なものとなった。この点は(イ)にあげた成育史上の発達障害として、惰性のいちじるしい未熟があげられる。被疑者は、小動物に残酷と思われる行為が年少時から指摘されており、本件についても簡単にそれらの行為を重ね、深刻な悔悟・内省もみられない。

以上により、敏感関係妄想(他人の表情や態度、周囲の出来事を敏感に自己に結びつけて固執する妄想)様の態様は否定しえず、分裂病を最終的に否定することもできないが、現在認めうる所見からは、人格障害の域にあるものと思料される。

逮捕後の経過

9月1日、警察庁が一連の幼女殺害事件を広域重要「117号事件」に指定した。犯人逮捕後の指定は異例である。

9月2日、東京地検が「野本綾子ちゃん事件」で宮﨑を起訴。

9月5日、吉沢正美ちゃんの殺害を自供。

9月6日、自供通り、東京都五日市町の山林で吉沢正美ちゃんの白骨死体が発見される。

9月8日、埼玉県警が今野真理ちゃん殺害事件で宮﨑を再逮捕し狭山署へ護送。

9月13日、東京都五日市町の山林で今野真理ちゃんの手足の骨などが発見される。

9月22日、東京地裁が国選弁護人として、第2東京弁護士会所属の鈴木淳ニ弁護士、岩倉哲ニ弁護士を選任した。鈴木淳ニ弁護士は1968年(昭和43年)の連続射殺事件で4人を殺害した元死刑囚の永山則夫の弁護人でもあった。宮﨑は国選弁護士を私選弁護人に切り替えて欲しいと父親に頼んでいたが、父親は被害者の遺族の心情を察し、「それでは被害者に申し訳ない」とあえて息子の要望を断った。だが、当初、大したことがない事件だと聞かされていた父親が息子にお灸を据えるという意味と、親の顔に泥を塗ったことへの怒りから、息子のために弁護士なんか雇わなくていい、と思ったというのが実情らしい。

9月29日、埼玉県警が「吉沢正美ちゃん事件」「難波絵梨香ちゃん事件」で宮﨑を逮捕。同日、東京地検が「今野真理ちゃん事件」で宮﨑を起訴。

10月19日、東京地検が「吉沢正美ちゃん事件」「難波絵梨香ちゃん事件」で宮﨑を起訴。

宮崎の生い立ち

1962年(昭和37年)8月21日、宮﨑勤は東京都青梅市の公立総合病院で体重2,165グラムの未熟児として生まれた。祖父が体の弱かった息子(宮﨑の父親)のようにならず、もっと力強い子に育ってほしいと願って、わざわざ「力」という文字の入った「勤」という字を名前にした。ちなみに、「みやざき」は「宮崎」ではなく「宮﨑」と書くらしい。

宮﨑が生まれたとき、家には祖父母と両親、結婚前の叔母3人が住んでおり、同じ町内には数軒の親戚がいた。のちに3歳と8歳違いの2人の妹ができる。宮﨑は神経が過敏で世話の焼ける赤ん坊だった。寝つきが悪く、ちょっとした物音ですぐ目を覚まし、手足を震わせ、よく泣いた。そんなときにあやすのは祖父と、勤が生まれて数ヵ月後に住み込みで子守り役となった「茂兄ぃ」(仮名)だった。茂兄ぃはこのとき30歳くらいだったが、子どものとき、脳性麻痺を患って、両脚の不自由さに加えて、読み書きや計算ができない、という程度の精神障害があったが、「子どもと同じ気持ちになって遊べる人」と評判は良かった。祖父は宮﨑の手を引いて畑や川、山に連れて行った。飼っていた犬の「ペス」が一緒のこともあった。飼い犬はその後、何度か代わっているが、どれも「ペス」と呼ばれた。

曾祖父が村会議員、祖父は町会議員、父親もPTA会長や地元消防団副団長の任に就くなど、宮﨑家は地元の名士であり、経済的にもかなり裕福であった。また、自宅は敷地が1000平方メートルと広い上、周囲をさらに広々とした畑地に囲まれ、前方には緑あふれる丘陵、裏手には秋川の清流という自然に恵まれた場所にあった。

祖父は旧五日市町で絹織物業を興して成功していたが、工業高校を卒業した父親はその先細りを見越して廃業し、1954年(昭和29年)9月、印刷会社「新五日市社」を設立し、新聞の折り込みのチラシ広告を印刷していたが、1957年(昭和32年)1月には、五日市町を中心に周辺市町村をエリアとする週刊のミニコミ紙『秋川新聞』を創刊した。タブロイド判16ページで紙面の約7割は周辺の企業などに呼びかけて集めた広告だったが、月600円の定価で約3500部を発行した。週1回の発行を守り、黒字経営であったが、宮﨑が野本綾子ちゃん事件で再逮捕される直前に出した1989年(平成元年)8月6日付の第1727号が最後となった。

宮﨑が生まれてから3年後、両親は宮﨑が両手の掌を上に向けて、「頂戴」の仕草ができないという先天性の障害があることに気付いた。病院で診察を受けさせた結果、「両側先天性橈尺骨癒合症(とうしゃくこつゆごうしょう)と診断された。この障害は詳しい病態や原因が明らかになっておらず、日本では過去に150例しか報告されていないという極めて希な病気であった。その際、両親は医師から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないのなら、手術するにしても、もっと大きくなってからのほうがいいだろう」と言われ、それ以上の治療を受けさせず、結果的にそのまま放置してしまったという。

1967年(昭和42年)4月、宮﨑は4歳半で、バスで1時間もかかる隣町の私立秋川幼稚園に通うことになった。この幼稚園で、宮﨑はおやつをもらうとき、頂戴という掌の格好ができないのでひったくるようにしてもらった。お遊戯では「お手(てて)つないで」も「ぎんぎんぎらぎら」もできず、地獄の時間だったと供述している。先生も掌のことに気付いているのに放っていたし、他の子からも「あれ、変だ」とよく言われ、そのことで一人で悩み、掌を壁に叩きつけたりしたという。

また、茶碗を持つのに指が充分に回らないため、側面を挟んで支えるような格好でしか持てなかったし、手首が返らないことからチリ紙がうまく使えず、用便の度に苦労したという。買い物に行っても釣り銭をうまく受け取ることができず、ボロボロと下にこぼした。そのため、お使いを嫌がったし、一人で買い物するときはお釣りが出ないように、1円単位まで小銭を用意していた。計算違いなどでお釣りが出たときはわざと相手の手を払って、地面に落ちた釣り銭をわしづかみにして走って逃げたという。宮﨑は掌のことについて両親に訊いたことがあったが、具体的な説明をしてくれなかった。それ以来、こんな掌になったのは両親のせいだと思うようになった。

1969年(昭和44年)4月、宮﨑は五日市町立五日市小学校に入学したが、掌の障害を一人で悩み、内向的な性格で協調性がなかったため、なかなか友達ができずにいた。放課後も一人で過ごすことを好み、自室にこもってマンガ本を読み耽ったり、一人でゲームを楽しんでいた。この辺りで小学生のころから自分の部屋を持ち、専用のテレビを持っていたのは宮﨑だけで、近所の主婦も宮﨑が外で友達と騒いでいる姿を一度も見たことがないという。

学校では怪獣に詳しく、「怪獣博士」と呼ばれていたが、決して“クラスの人気者”ではなかった。学業成績は全児童約150人のうち30番前後で、欠席日数は2年生のときに風邪などで12日間あったほかは1~7日間と多くない。 小学4年のとき、宮﨑は「うちのことを作文に書きなさい」と先生に言われ、次のような文章を書いている。印刷の工程は詳しすぎるほど書かれているが、家族の姿がまったく登場しない。

<うちの工場で、秋川新聞を作っている。タイプでうったのを紙にはって、薬をぬって、コールタみたいなものをきかいのローラーにぬって紙をはる。そして、土曜日にくばりに行く・・・・・・>

1975年(昭和50年)4月、宮﨑は町立五日市中学校に進学したが、相変わらず独りぼっちだった。宮﨑の父親は宮﨑が中学に入学してすぐの頃、宮﨑を呼んで、火傷で手の自由を失いながら、偉業を達成した人物の野口英世の話を始めた。「お前は内向的な性格だし、将来は野口英世みたいになるべきじゃないか」と。第2次精神鑑定を担当した内沼鑑定人(帝京大学文学部教授)から手の治療を怠ったことを指摘されて、父親は「ともかく、大したことではないと思っていた。日常生活に支障はない、と言われたのが決定的で・・・・・・。当時、サリドマイド児の問題が出ていたので、同じように思われるのが嫌だったが、すぐに忘れた」と供述している。内沼鑑定人は対処すべきときに何もせず、それを後から持ち出す父親の姿勢にこそ問題があると見ている。

中学の友人や同級生の男性は当時の宮﨑について次のように供述している。

「1、2年のとき、陸上競技、3年のとき、将棋クラブに入っていた。将棋は強かったがたまに負けると、顔を歪めるようにして、物凄く悔しがった。書店で将棋の本をどっさりと買い込み、腕を磨いてから必ず、再挑戦するほど負けず嫌いだった。おとなしい性格だが、1年のとき、通信教育で空手をマスターしたといってみんなの前で技を披露したことがあった。今思えば、あれは我々に対する威圧だったのかもしれない。そんな奴だから、後に同窓会があっても、宮﨑が出席すると言うと、それなら行かないという者が結構いた」

「宮﨑も入れて数人でボウリングをしに行ったとき、宮﨑が突然、好きなテレビマンガ『科学忍者隊ガッチャマン』が最終回なので、一旦帰るわ、と言って、途中で帰ってしまったことがあった。宮﨑は発売されてすぐの二十数万円もするビデオデッキを買ってもらっていたが、番組の途中に挿入されるCMを入れないで録画しないと気がすまないらしく、わざわざ自宅に帰って録画した。番組が終わると戻ってきて何食わぬ顔でボウリングを続けた。自分勝手だけど、それ以上に要領のよさを感じた」

「中学時代は男の子同士で女の子のことを、あの子は可愛い、俺の好みだ、と言ったりするでしょう、でも、宮﨑とはそういう話をしたことがなかった。少々、エッチな話をしても全く乗ってこなかった。無口でおとなしいので目立たないし、気持ちを表面に表さないから、何を考えているかが全く分からない」 学業成績は在校生約230人中の20番前後と優秀で、中学1年のとき、英語と数学の学習塾に通わせたり、英数2科目の家庭教師を付けたこともあって、英数の成績は良かったが、社会と国語の成績は悪かった。欠席日数は3年生のとき、インフルエンザで7日間休んだだけで、1、2年はゼロだった。

1978年(昭和53年)4月、宮﨑は東京都中野区明治大学付属中野高校に入学し、高校のある東中野駅まで片道2時間かけて通学した。宮﨑は明大中野高校を志望した理由を、家族を含め周囲の人には明大文学部に進学して英語の教師になるのが夢だと説明し、遠い高校を選んだことについては、掌の障害を気にして女生徒がいない男子校にしたのだという。ちなみに、1968年(昭和43年)の連続射殺事件で4人を殺害した元死刑囚の永山則夫も明治大学付属中野高校出身。

当時の宮﨑について同級生の話をまとめると次のようになる。

「銀縁メガネをかけた薄気味の悪い奴で、休み時間でも机にかじりつき、盛んにノートにシャーペンを走らせて、何かコソコソやっている。最初は勉強家かなと思っていたが、成績は中の下と大したことはないし、通学の電車内でも一人外れて、級友たちの話をじっと聞いているだけ」

「授業中に先生に指名されると、緊張で声がワナワナと震え、オドオドして口篭もったりしていた。いつも落ち着かない眼差しでキョロキョロと周囲を見たり、先生に叱られたときなどはビクッとしてブルブル震えていた。何しろ暗い奴で、休み時間に他の奴らが騒いでいても一人で居眠りしているかノートにマンガを描いていた」

「怒りっぽくて、滅多に笑顔なんか見せない奴だった。それがあるとき、教室に飛び込んできた虫を宮﨑のほうに押しやり、踏んでみろとからかったら、躊躇なく踏み潰し、ニヤッと笑ったんでゾーッとした覚えがある」

宮﨑は掌の障害のことで精神的に疲れ、さらに長距離通学による肉体的疲労が重なって帰宅するとカバンを放り投げて、大の字になって寝るようになった。自宅ではほとんど勉強せず、自室にこもってビデオ録画したり、マンガ本を読み耽った。さらに、一時、パズルルービックキューブに熱中して、家族ともほとんど口をきかなくなり、やがて自分の表情を出さず、意思表示もしなくなった。

3年のときの成績は56人のクラスで40番前後だった。中学と同じく、英語と数学は成績が良かったが、社会科は苦手であった。のちの慶応大学出身の6人の学者グループによる宮﨑の精神鑑定で、心理的傾向性を探るテスト中に原子爆弾の話になり、「日本のどこに落ちた?」という問いに、宮﨑は「歴史は興味ねえ」「社会科、興味ねえ」などと答え、ヒントを与えても結局、「広島」「長崎」とは答えることができなかったほどであった。

宮﨑は明大への推薦入学を希望していたが、どの学部も推薦入学は不可能であった。欠席日数は3年間で計25日とさほど多くなかった。

1981年(昭和56年)4月、宮﨑は中野区内にある前身が東京写真大学の東京工芸大学短期大学部の画像技術科に推薦入学した。家業を継いで「新五日市社」の仕事をするという条件で、現像焼き付けや校正、デザインなどを学べる大学に入学することになったのである。

だが、宮﨑はここでも地味で目立たない存在だった。教室の隅で一人でパズルを解いたりしていた。『Hot・Dog・PRESS』(講談社)や『POPEYE』(マガジンハウス/当時の社名は「平凡出版」、1983年に社名変更)などの雑誌に掲載されるパズルやクイズの常連投稿者になり、そのパズルやクイズの正解者として名前が載ったときは自慢することもあった。1981~1984年(昭和56~59年)の間に、『Hot・Dog・PRESS』に計13回、当選者リストに宮﨑の名前が載った。いずれも正解者多数の場合は抽選で当選者が決まるので宮﨑の応募回数はリストに載った13回より多かったに違いない。当選のたびに宮﨑はTシャツやスポーツバッグ、映画試写会のチケットなどの商品をもらっている。

宮﨑はパズルのページについて、「問題のここがおかしいんじゃないか」「問題文の意味がわかりにくい」など、連日のように、担当編集者に電話をかけたりした。1年後、宮﨑は編集部でパズル解答葉書の採点と整理のアルバイトを募集したときに、そこで10日間働いた。その少しあと、『Hot・Dog・PRESS』が読者から創作パズルを募集したことがあったが、宮﨑は30通ほどの自作パズルを送ったり、じかに持ち込んだりした。だが、採用され雑誌に掲載されたのはひとつだけだった。

1982年(昭和57年)4月、2年生になった宮﨑はグラフィック・アートクラスに進んだ。宮﨑は短大の友人とテニスの試合を観に行くうちに、若い女性のパンチラ姿に興味を抱き、そうした写真を撮るようになった。その友人と一緒に武蔵野市吉祥寺に遊びに行ったとき、2人連れの高校生と知り合い、4人でデパート内の喫茶店でチョコレートパフェを食べるなど楽しいひとときを過ごした。2回目は井之頭公園に行き、記念写真を撮ったりした。だが、3回目のデートに女子高生たちは来なかった。若い頃にはよくあることで、フラレてしまったのだった。

そのとき、宮﨑は井之頭公園で偶然、「リカちゃん」という小学3年生の女児と会い、仲良くなった。「リカちゃん」は「抱っこして」とか「おんぶ」と甘えたので宮﨑も楽しそうで、すっかり友達になったのである。夕方、井之頭公園で別れるとき、「リカちゃん」はしきりに宮﨑の方を振り返っては何度も一生懸命に手を振っていたし、宮﨑も寂しそうであった。その様子を間近で見ていた友人は「宮﨑は小さい子とは波長が合うんだな」と感じた、と後に語った。

5月1日に放映されたNHK教育テレビの若者向け番組『YOU』(司会・糸井重里)のスタジオ収録に、宮﨑は友人と出かけ、画面にチラっと姿を見せている。カメラマンの篠山紀信をゲストに迎え、カメラマンの卵たちと「いまカメラマンを目指す君たちに」をテーマに話し合う討論番組だったが、宮﨑はマイクを持ったアナウンサーが近づくと、他の出演者の後ろに隠れ、結局、ひと言も発しなかった。

1983年(昭和58年)3月、短大を卒業。同じ大学の短大部画像技術科を卒業した同級生の中に、タレントの川﨑麻世がいるが、川﨑は事件当時、マスコミの取材に対し、「僕は記憶力がいい方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生に聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」と答えている。

4月、宮﨑は父親の懇願を受けた叔父(父親の弟)の紹介で東京都小平市の印刷会社に就職した。宮﨑は印刷機のオペレーターとして色調整や紙の補充、印刷物の梱包などを担当した。これらの作業は決して複雑でも難しくもなかったが、宮﨑の勤務態度は無気力で怠慢であり、宮﨑に対する同僚らの評判は散々なものだった。

1985年(昭和60年)、宮﨑家で大がかりな改築を行った。茶の間が近代的なダイニングキッチンに変わり、そこには新しいテーブルが置かれたが、そのテーブルにはイスが4つしかなかった。祖父母を含め7人の家族が一緒に食事することを最初から考慮に入れていなかったことになる。内沼鑑定人は宮﨑について「多重人格(解離性同一性障害)」という鑑定結果を出したが、イスが4つしかないテーブルは家族がバラバラである宮﨑家を象徴しているとして、「解離性家族」と表現した。

1986年(昭和61年)1月、宮﨑が23歳のとき、原因不明の左顔変形の神経マヒにかかった。

3月、宮﨑は依願退職させられ、3年間のサラリーマン生活は終わった。その後、宮﨑は自室にこもって出てこなくなった。父親が工場の仕事を手伝わせようとしても、働く意欲は全くなく、短大や印刷会社で充分に技術を習得せずに終わったため、ほとんど何もできなかったというのが実情だった。

7月、運転免許証を習得する。

9月、宮﨑は家業を手伝うようになったが、その仕事内容はチラシ広告の原稿取りや刷り上ったチラシ広告を新聞配達店に届けることくらいで、後に『秋川新聞』の配達もするようになったが、午前中に仕事が終わり、午後は暇だった。

宮﨑はこの頃、アニメの同人誌を約500部作るなど漫画の世界にも興味を示したが、ここでも仲間から嫌われ、同人誌は1号だけで終わっている。父親は宮﨑に勤労意欲を高めてもらうために、隣りの秋川市に支店を出し、任せるつもりでいた。さらに、結婚もさせるつもりで、4月から11月にかけて4回、見合いをさせている。その相手は同業者の娘が多く、父親は渋る宮﨑を同業者同士の義理もあるからと説得して何とか出席させたが、宮﨑は最初に、「どうも」と言ったきり下を向いてほとんど相手と話をしなかったため、全て相手から断られた。

12月末、母親が宮﨑に外回りの仕事用に使う目的で現金で約180万円を払ってダーク・グレーの日産ラングレーを買い与えた。仕事内容からすれば50ccのバイクで充分であったが、車を買ったのは家業を継ぐ決心をしてくれた宮﨑への感謝の気持ちだった。宮﨑は当時、既に使用が禁止されていたモス・グリーンのフィルムを車の窓ガラスに貼り、外から中が見えないようにした。この当時の宮﨑について友人は次のように供述した。

「彼は相手の都合など考えず、いきなり車で訪ねてきてドライブに誘った。だが、こっちが誘ったときには、忙しいからと、一度も応じたことがなかった。ドライブといっても景色のいいところを走るわけでもなく、運転が荒かった。車の中で話す話題もなく、ラジオやカセットを聴くだけだった。それも稲川淳二などの話す心霊現象特集の録音だったりした。消してくれ、と言ったら降りろと言われた」

宮﨑は西多摩地区から都心や埼玉県へと走行範囲を次第に広げていった。車に乗ってから2年半余りでその走行距離は約4万2000キロにも上った。やがて、ビデオショップに頻繁に出入りし、数多くのビデオサークルの会員になった。サラリーマン生活を送った3年間の貯金は300万円以上になっていたが、そのほとんどを惜しげもなく、ビデオテープの収集につぎ込んでいった。

ビデオサークルの会員になると、会員同士が自分の居住地域では放映されないテレビ番組の録画を代行し合うことができるメリットがあった。だが、宮﨑はここでも自分勝手な性格が災いして仲間外れになっていった。

1988年(昭和63年)5月11日、祖父がイヌを連れて散歩中に脳溢血で倒れ、5日後の16日に死亡した。88歳だった。

5月21日形見分けの席で親戚に暴言を吐く。

7月3日四十九日の法要で家族と言い争って窓ガラスを割る。

7月から11月にかけて、五日市町内のビデオショップでテープ45本を万引きしていることが確認されている。

8月21日、宮﨑が26歳になる。

8月22日、今野真理ちゃんを殺害。

10月3日、吉沢正美ちゃんを殺害。

12月9日、難波絵梨香ちゃんを殺害。

12月18日、宮﨑は父親に「集金した金が見当たらないが?」と問われ、激高して「バカ野郎!」と叫んで暴れ出し、父親の毛髪をつかんで激しく車のドアに頭部を叩きつけた。のちにこのことが原因で父親は入院し、頭部切開の手術を受けている。その見舞いの途中で、母親にも注意されたことに怒った宮﨑が「何だと!」とわめいてラングレーの車の中で母親に暴力をふるった。

1989年(平成元年)2月、宮﨑は埼玉県川越市のディスカウントショップでビデオテープ5巻を万引きした。

3月、東京都中央区晴海の国際見本市会場で、全国約8900の漫画サークルが参加して開かれた同人誌の展示即売会「コミックマーケット35」に宮﨑は「E・T・C大腕」というサークル名で自作の漫画本『マンモスコング、月光仮面』を出展した。会場には約10万人の若者が訪れ、総売上は数億円に及んだが、宮﨑の作品は誰にも相手にされなかった。

6月6日、野本綾子ちゃんを殺害。

裁判詳細

1990年(平成2年)3月30日、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)で第1回公判が開かれた。傍聴希望者は1,591人に達したが、司法記者クラブ36席と被害者の家族など10席が優先されて一般傍聴席は50席であったため抽選となった。開廷宣言に続いて中山裁判長が人定質問を行った。

「名前は?」「宮﨑勤」「生年月日は?」「1962年8月21日」「満で何歳になりますか?」「マンって、意味が解らない」「つまり、27歳だね。」「はい」「職業は?」「会社員」

両手をぶらりと下げて立ち、ぶっきらぼうな口ぶりだった。検察官が「起訴状」を朗読し終え、中山裁判長が「起訴状に書かれていることに、間違いないかね?」と宮﨑に訊いた。この罪状認否についてはたいていの被告人が多少ニュアンスの違いがあっても「間違いありません」と答えるところを、事前に「起訴状」を読み込んでいた宮﨑は「(綾子ちゃんの)両手と両足を投棄したというのは間違い。両手は自分で食べた。両足は家に出入りするキツネかネコに食べられたと思う」と衝撃的な発言をした。

4月25日、第2回公判が開かれたが、この回から4月1日の異動により両陪席裁判官が代わった。そこで、中山裁判長が冒頭で「裁判所の構成が変わりました。被告人に意見があれば言いなさい」と告げると、宮﨑はすぐに立ち上がり、抑揚のない声で、「私の車とビデオを返してほしい。運転免許証も気になるので返してほしい」と訴えた。さらに、「車も油をくれないと乗れなくなるので、油をくれてほしい」と言い、中山裁判長が「あとは?」と訊くと、宮﨑は「あとは、今のところ、ない」とぶっきらぼうに答えた。

10月31日、裁判所が立川簡易裁判所へ出張して宮﨑の両親に尋問。

11月28日、第9回公判が開かれた。この公判で検察側の立証が終わり、弁護側が請求した被告人の精神鑑定を裁判所が採用した。

12月20日から468日かけて宮﨑に対する精神鑑定を行うこととなった。この鑑定にあたったのが慶応大学出身の6人の学者で、医学部卒5人、文学部1人である。複数の鑑定人による精神鑑定は珍しくないが、この場合は個別に鑑定し、それぞれ鑑定書を作成する。今回の場合のように、6人の専門家による「共同鑑定」は日本では初めてであった。

6人の鑑定人は次の通り。

  • 保崎秀夫(慶応大学医学部教授=精神神経医学)
  • 浅井昌弘(慶応大学医学部助教授=精神病理学)
  • 仲村禎夫(慶応大学医学部講師=精神神経医学)
  • 馬場禮子(東京都立大学人文学部助教授=社会心理学)
  • 皆川邦直(東京都精神医学総合研究所副参事=思春期精神医学)
  • 作田勉(慶応大学医学部助手=社会精神医学)

1992年(平成4年)4月27日、第10回公判が開かれた。法廷内に用意された大型テレビに証拠物として採用された鑑定資料のビデオテープが部分的に映された。

法廷で映し出されたビデオテープは次の通り。

  • 「チャレンジごっこ」・・・宮﨑と友人が両腕をクルクル回してスピードを競うゲームをしているところ。
  • 「美少女SFアニメ」・・・アニメで中学生らしき男女のセックス、さらに殺人へと展開するシーン。
  • 「残虐シーン」・・・20歳前後の女を黒ずくめの男3人が襲って殴ったり蹴ったりしたあと、爪をはぐシーン。
  • 「タイムマシーン――悪魔の家」・・・悪魔の家に科学者が引っ越して残虐シーンに。
  • 「日曜洋画劇場」・・・テレビ朝日の映画番組から残酷なシーンを集めたもの。
  • 「午後のワイドショー」・・・「綾子ちゃん事件」を話題にしたもの。
  • 「黒の戒律」・・・アフリカ大陸の黒人が黒豹の首を切り落とすシーンがある。
  • 「真夏の夜」・・・テレビ映画番組中のホラー映画の予告編で人間の体を切断するシーンがある。

さらに、弁護人が作成した宮﨑の同級生による「供述調書」が証拠として採用され、その要旨が告知された。その後、「宮﨑勤精神鑑定書」が検察官によって告げられた。弁護人が申請した鑑定を検察官によって告げられることになったのは、「刑事責任能力あり」という結果から検察側が有利になったからである。

第1次精神鑑定書の鑑定主文

一、被告人は、もともと知的には問題がなく、性格は極端な分裂気質ないし分裂病質にあたり、非社交性、自己中心性、空想性、顕示性、未熟、過敏性、易怒生、情性欠如の傾向が目立っていた。さらに両手の先天的な橈尺骨癒合症(とうしゃくこつゆごうしょう)への劣等感が強く、被害的になりやすく、そのために成人女性への関心はあるものの、交際することをあきらめていた。

二、犯行当時は、「一」の状態にくわえて、性的興味が幼女に向けられ、収集癖とあいまって犯行におよんだものと思われる。

三、右(上)「ニ」の状態は、極端な性格の偏り(人格障害)によるもので、精神分裂病を含む精神病様状態にはなかった。したがって、犯行当時に、物事の善し悪しを判断し、その判断にしたがって行動する能力は、保たれていたと思われる。

四、現在の精神状態は、右(上)「一」の状態にくわえて、拘禁の影響が強くあらわれており、無表情、無愛想で、簡単なこともわからず、退行したように見える面と、事態をかなり把握しているように見える面とが、混在している。家族のことや、犯行の動機・態様について、独自で奇妙な説明をおこなっているが、これらの供述は、逮捕後になされたものである。これらは、精神分裂病も疑うものであるが、総合的にみれば、拘禁反応によるものと考えるのが妥当であり、現時点では、精神分裂病(現・「統合失調症」と名称変更/以下同じ)は否定されよう。したがって、被告人の現在の精神状態は、物事の善し悪しを判断し、その判断にしたがって、行動する能力に、多少の問題はあるとしても、いちじるしく障害されている程度には至っていない。

主任の鈴木淳二弁護人はこの「鑑定書」について次のような批判的な「意見書」を朗読した。

「なぜ異常かつ残虐な犯罪が起き、被告人に罪悪感がまったくないのか、これまでの犯罪の枠を超える特異な行動を、なぜ被告人がなしたのか」について考察されていない。鑑定では、人格障害や性的興味、収集癖があいまって犯行におよんだと説明するが、死体のビデオや写真を撮り、さらに、解剖的な行為までして、衆人環視ともいえる状況下で幼女を誘い出し、殺害後も死体を隠すこともなく放置し、祖父復活の儀式を行い、骨を拾って焼いた後、被害者宅へ送りつけ、自己の犯罪報道を執拗に録画するなどして「犯行声明」を郵送するという不可解な行動を鑑定書の説明だけでは了解することができない。

ということで、鑑定人を代表して出廷した保崎秀夫証人へ検察官が主尋問を行った(その一部)。

―― 性的なことについては?

「関係ないと言って答えたがらない。『女には興味がなく、マスターベーションなどしない』と。女性の性器には興味がありながら、成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」

―― 犯行そのものについては?

「被告人は、『やったというより起こった』『覚えがない、他人事だ』と言う。被害者との遭遇は否定しないが、犯行直前になると『〝ネズミ人間〟が現れ、怖くて何もわからなくなり、気がついたらマネキンのようなもの(遺体のこと)が落ちていた。落ちているものならなんでもいいから、おじいさんへの捧げ物に用いた』と」

―― 〝ネズミ人間〟については、捜査段階ではまったく供述していませんが?

「拘禁生活が続くうちに、反応性の妄想にもとづき、いろんなものが出たのかもしれません。『〝ネズミ人間〟が現れると、大変恐ろしい状態になる』と言う。本人は鑑定時に、机を叩いて怒鳴ったりして、涙をうかべたことがあり、やはり拘禁の影響があるようです」

―― 精神分裂病の場合も幻覚や幻視があるのでは?

「分裂病の場合は外からハッキリ悪口が聞こえるとか、愉快ではない幻聴がある。本人をひどく悩ませるもので、いつ出てくるか分からずに不規則です。このように精神病者の妄想はいつも怖がらせる。しかし、被告人の場合は空想で〝ネズミ人間〟も犯行の直前に現れます」

―― 犯行時に4回とも〝ネズミ人間〟が現れたというのは?

「これは分裂病の妄想とは違います。被告人の場合は精神鑑定になってから〝ネズミ人間〟が出てきた。問診のときに、〝ネズミ人間〟の絵を描いて見せています。犯行の時点にかぎって〝ネズミ人間〟が現れるのだから精神病者の妄想とは違うのではないか。・・・・・・」

―― 祖父が死亡したことへの影響は?

「会話のとぼしい家庭に育って自分で自分をかばってきた被告人は祖父だけが唯一の頼れる存在だったようです。その祖父が犯行の前後に現れたと言い、小動物も幼女の死体(これらを本人は〝肉物体〟と呼ぶ)も『おじいちゃんに捧げた』と言う。『虫でもカエルでも祖父にならって拾って食べた』と」

―― 血を飲んだり肉を食べたりするには?

「面接の当初から虫やカエルなどを拾って食べる癖があったと話してます。『幼女の指を食べたのでは?』と訊くと、『現在はおじいちゃんのために食べる』と。味覚について尋ねると、『とにかく食べたことは間違いないんだから、匂いや味などについてあれこれ訊かないでくれ。食べることに意義がある。おじいちゃんに捧げるために食べた』と具体的なことは言わずにあいまいです」

―― そうした行為は本当にあったのでしょうか?

「一般論として、遺骨を食べるようなことはときたまあります。被告人の」場合、『おじいちゃんの遺骨を火葬場から出したとき、隙を見て持ち帰って食べた』と言ったりしていますが、説明がはっきりしない」

第12回公判

6月22日、第12回公判が開かれた。このときの公判で保崎鑑定人は4月25日付で東京拘置所が提出した「宮﨑勤に差し入れられた図書の一覧表」に基づいて証言した。それによると、2年4ヶ月の間に、コミック130~140冊、雑誌と書籍70冊だという。

差し入れられた書籍の中には次のような事件に関連したものもあった。

     
『定本 犯罪紳士録』(小沢信男/筑摩書房)
『蜃気楼』(佐川一政/河出書房新社)
『犯罪の昭和史 1』(作品社編集部編/作品社)
『犯罪の昭和史 2』(作品社編集部編/作品社)
『犯罪の昭和史 3』(作品社編集部/作品社)
『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』(太田出版編/太田出版)
『佐川君からの手紙 舞踏会の手帖』(唐十郎/河出書房新社)
『犯罪者と家族のあいだ』(山崎哲/未来社)
『君は宮崎勤をどう見るか』(宮川俊彦/中野書店)
『〝有害〟コミック問題を考える』(創出版編/創出版社)
『報道被害 11人の告白』(創出版編/創出版社)
『浮遊する殺意 消費社会の家族と犯罪』(岸田秀×山崎哲対談/晩聲社)
『無意識と精神分析』(ジャン・ポール・シャリエ・岸田秀訳/せりか書房)
『美少女伝説 叙情画のルーツから新感覚派の誕生まで』(やなせたかし監修/サンリオ)
『宮﨑勤裁判・上巻』(佐木隆三/朝日新聞社)
『倒錯 幼女連続殺人事件と妄想の時代』(伊丹十三×岸田秀×福島章座談会/ネスコ)

事件当事者が「事件に関係のある本」を読むのは防衛権の行使として当然とも言える。

第15回~17回公判

11月11日、第15回公判が開かれた。このときの公判で弁護側の証人として、コミックやアニメーションの雑誌を編集し、メディア評論家でもある大塚英志(当時34歳)が出廷し証言した。

大塚は第1回公判から傍聴を続け、拘置所で宮﨑本人と面会して、父親に4回、母親に1回会っている。宮﨑の自宅から押収された5793本のビデオや所蔵していたコミックやアニメーション雑誌のリストから傾向を分析して「意見書」で論じている。大塚は次のような証言をした(その一部)。

「ビデオの収集はマニア的なものではなくそのコレクションはただ数を集めることにある。プロレス、アニメーション、CM、刑事ドラマなどが、1本のテープに入っており、コレクターとして杜撰すぎる」「拘置所から両親宛てに差し入れを求める手紙を送るとき、文面らしいものがなく、欲しいもののリストを並べている。コミュニケーションが存在せず、意見や解釈がない」「6000本近いビデオで、性的なものや残酷なものはわずか1%でしかない」

11月30日、第16回公判が開かれた。このときの公判で弁護側の証人として、家族、女性、子どもをテーマにした著書が多い評論家の芹沢俊介(当時50歳)が出廷し証言した。証言にあたり、参考にした資料は事件の冒頭陳述書、被告人、両親、関係者の供述調書、精神鑑定書で、芹沢は次のような証言をした(その一部)。

「人は自分の声を自分で受け止め、その上で他者に伝える。しかし、被告人には<自分>がいないのではないか。後ろから見ていて体が動かない」「小さい頃からテレビに親しみ、ビデオを観ている被告人はテレビをおしゃぶりのようにしてきた。自分と対話する<もう一人の自分>がテレビではないのか。映像が客観視できないことが現実に起こりうる」

12月18日、第17回公判が開かれた。この公判で裁判所は弁護人の請求に基づき、被告人の再度の精神鑑定を決定した。この第2次精神鑑定は東大グループの3人が行うことが決定した。

1993年(平成5年)1月22日から678日かけて宮﨑の精神鑑定を行った。3人の鑑定人は次の通り。

内沼幸雄帝京大学文学部教授=精神神経科学/東大医学部卒)
関根義夫(東大医学部助教授=精神神経科学)
中安信夫(東大医学部助教授=精神神経科学)

2月1日、第18回公判が開かれた。この公判から右陪席裁判官が代わったので更新手続きが行われ、中山裁判長が「裁判所の構成が変わりました。被告人として何か言いたいことは?」と訊くと、宮﨑は「今のところ、ない」とぶっきらぼうに答えた。

1994年(平成6年)11月21日午前5時50分ころ、宮﨑の父親(65歳)が東京都青梅市内を東西に流れる多摩川へ、神代橋の上から飛び降り自殺した。遺書3通が発見されている。

11月24日、宮﨑は主任の鈴木弁護人から父親の自殺を知らされ、胸を張って「スーッとした。私を貰ったか、拾ったかして、勝手に育てたのだから、バチが当たったんだと思った」と言った。宮﨑は警察の取り調べに対して、父親と母親を呼び捨てにしていた。公判が始まり、精神鑑定が行われたときも続いている。ときには「父の人」とか「母の人」と呼ぶこともあった。

1995年(平成7年)2月2日、第20回公判が開かれた。この公判から田尾健二郎裁判長に代わる。前回公判から1年11ヶ月ぶりの再開である。前年の暮れに東大グループによる第2次精神鑑定の結果が刑事第2部に提出されたが、診断が2対1に分かれることとなった。

第2次精神鑑定書の鑑定主文ほか

内沼幸雄・関根義夫の意見

一、鑑定主文

(1)犯行時、手の奇形をめぐる人格発達の重篤な障害のもとに敏感関係妄想に続く人格反応性の妄想発展を背景にし、祖父の死亡をきっかけに、離人症およびヒステリー性解離症状(多重人格)を主体とする反応性精神病を呈していたと解される。

(2)鑑定時、引き続き右記(上記)の状態にあるものと診断される。

二、刑事責任能力についての意見

被告人が示した多重人格に関して責任能力をどうとらえるべきなのか、日本では初めての鑑定事例となるため、慎重な姿勢が求められる。犯罪の重大さを考えれば、ヒステリー性の解離状態(一時的に意識の統合性が失われる状態)は、責任能力の減免を認める事由にはいっさいならないというのが、鑑定人の見解である。とはいえ、病歴、病像および日常行動を総合的に検討すれば、被告人は犯行時、善悪是非の弁識能力も、その弁識にしたがって行動する能力もともに若干減弱していたと考えられる。

中安信夫の意見

一、鑑定主文

現在の精神状態は、(1)犯行時からの精神分裂病(破瓜型)、(2)収集癖、(3)犯行時に生じた拘禁反応の三者によって構成されたものである。 (1)の精神分裂病(破瓜型)は高校時代ないし印刷会社を退職する以前に、きわめて潜勢的に発病した。その後、集中力・意欲の低下、情性欠如という形での感情鈍麻が進行し、注察念慮(他人から観察されると思い込む妄想)、関係・被害念慮(周囲が自分の悪口を言っていると思い込む妄想)、被注察感が断続的に出没していた。祖父の突然の死はいささかの心理的動揺を与え、易怒性・攻撃性の亢進が強まった。しかし、分裂病が明確に増悪したのは前鑑定の終了後から本鑑定の開始前の間である。

(2)の収集癖は祖父が死亡する数年前に発し、その死亡後に亢進したものであるが、それは祖父や父と同じように、生まれつきの性癖と考えられた。

(3)の拘禁反応は簡易鑑定の終了後から前鑑定の初期の間にあらわれた。

以上のうち、収集癖はいまも持続しており、精神分裂病(破瓜型)と拘禁反応はなお、増悪・進展しつつある。

二、刑事責任能力についての意見

犯行時において、是非善悪をする能力はほとんど完全に保たれていたが、行為に対する制御能力の一半に欠けるところがあった。司法精神的にいえば、これは広く心神耗弱に相当するものであるが、免責される部分は少ないと考えられる。

2度の精神鑑定結果

結局、第1次と2次精神鑑定で「人格障害」「多重人格」「精神分裂病(破瓜型)」と3つの異なる結果が出たことになる。

内沼鑑定人の法廷証言によると、宮﨑には、(1)宮﨑自身で、非常に幼稚な半面、哲学者みたいな人格が混在する人物(2)子どもで衝動的な殺人者(3)冷静な人物(4)今田勇子として、犯行声明文と告白文を書いた人物(5)第1次鑑定の鑑定人に<私はあなたを断る>と書いた人物――の5つの人格が出ているという。

だが、「多重人格(解離性同一性障害)説」については当時、日本の精神医学界では認められていないものであった。さらに、内沼、関根の両鑑定人は多重人格の専門家ではなく、多重人格説が認められている米国で行われているDES(解離体験尺度)のテストを行っていなかったこと、解離性同一性障害を正確に見極めるには平均で7年間かかると言われ、時間的に足りなかったことなど、鑑定そのものに問題があったともいえる。

ノンフィクションライターの吉岡忍は宮﨑の事件を取材し、『M/世界の、憂鬱な先端』(文藝春秋/2000)というタイトルで単行本として刊行したが、次のような宮﨑の精神鑑定書についての記述がある。

<私は公判のあいだ、簡易鑑定書をふくめると四種類の「宮﨑勤精神鑑定書」を通読し、さらに何度も読み返した。全部で1300ページもある。読むたびに、何度もくらくらし、ため息が出た。量が多かったからではない。いささか批判がましい言い方をすれば、そのあまりの不統一、手抜き、いい加減さ、強引さに、正直言って驚いたからだった。・・・(中略)・・・精神鑑定が精神医学にふくまれるとすれば、これもひとつの医学であり、科学の一分野だと、私はなんとなく信じてきた。しかし、これだけまとまりがないとすれば、いったいこれは科学と言えるだろうか。これでは鑑定結果の根拠がどこにあるのか、結論の相違はどこから、なにゆえに生じたのか、議論のしようがない。くらくらし、ため息が出たのはそのせいだった。ただ、ひとつ、私にもわかったことがある。これだけなにもかもちがえば、鑑定結果がちがってくるのも当たり前だ、ということだった。(以下、省略)>

鑑定書がいかに「不完全」であるかを、全部で4ページ余り(同タイトルの文庫本で)に渡って、例を挙げて具体的に説明している。

第38回公判 判決

1997年(平成9年)4月14日、東京地裁で第38回公判が開かれた。この日は判決が言い渡される日である。58枚の一般傍聴席を求めて842人が並び、第1回の1591人に次ぐ人数だった。

死刑判決を言い渡す場合は、先に「主文」を言い渡すと、被告人が動揺してきちんと「理由」を聞かないために後回しにする慣例がある。

田尾裁判長は「開廷します。今日は判決を言い渡すので・・・・・・」と言い、ひと呼吸おいて「主文」と言った。だから、一瞬、死刑判決ではないのか、と思った人もいたはずだが、そのあと「被告人を死刑に処する」と続けた。そのあと被告人を着席させ「理由」を読み聞かせた。

田尾裁判長は犯行当時の宮﨑の精神状態について「性格の極端な偏り(人格障害)以外に精神病的な状態にあったとは思われない」とした保崎秀夫慶応大名誉教授らの鑑定を採用し、責任能力を全面的に認めた。その上で「動機は性的欲求などであり、あさましいというほかない。人の尊厳を踏みにじる犯行には目を覆うものがあり、極刑を選択するしかない」と判決理由を述べた。

内沼鑑定について「公判での供述をそのまま犯行時の体験と理解した基本的姿勢には疑問がある。同様の犯行が4度も繰り返されたことにも照らすと、人格変換をうかがわせる形跡は見当たらない」として、退けた。中安鑑定についても「手の障害に起因する被害感や劣等感を分裂病の症状とみるには疑問がある」などとして、採用できないとした。また、宮﨑被告の不可解な法廷での発言については「拘禁の影響による妄想的説明」とし、こうした異常性の発現時期を逮捕、拘置後と判断した。犯行の動機については「捜査段階の自白調書は自ら遺体遺棄現場を明らかにするなど、信用性が高い」として、性的欲求に加え、幼女をビデオ撮影して収集したいとの気持ちを指摘した。

東京地裁での死刑判決の判決要旨

一、被告人の捜査段階における供述と公判段階における供述の信用性 (1)被告人の本件一連の犯行は、直接には幼女らを対象にしたものではあるが、被告人の女性性器自体に対する興味、幼女らを含む女性に対する強い性的関心、男女の性交に対する興味等の総体に根ざす性的欲求の充足を動機・目的とした犯行であり、女性性器等をビデオ撮影するなどして収集したいとの気持ちに動機付けられた面もあったこと

(2)本件各犯行は、周囲から見とがめられないように配慮しつつ、カメラマンを装うなどしたりして幼女らに近付き、言葉巧みに話し掛けて同女らの警戒心を解いた上、巧みに車内に誘い込み、あやすなどしながら人目に付かない山中等まで連れ去るなど冷静で巧妙な手口の犯行であること。

(3)今野真理事件については、わいせつ目的で幼女らを探しているうちに今野真理を見付け、周囲に人目がなかったことから誘拐の犯意を抱くに至ったもの、吉澤正美事件、難波絵梨香事件及び野本綾子事件については、わいせつ目的で幼女らを誘拐しようとの意図で幼女らを探しているうちに、吉澤正美、難波絵梨香及び野本綾子らを見付け、周囲に人目のない機会をとらえて誘拐等の犯行に及んだものと推認されるのであり、右各犯行には計画的な面があること

(4)被告人は、本件一連の犯行についてテレビ報道等を注視して捜査情報等の入手に努める一方、報道内容に対応して、なぞ掛けを交えたり物語を創作したりして犯行を遺族や更には報道機関に告知して自己を顕示するとともに捜査のかく乱を企図し、野本綾子の死体を切断。胴体部を埼玉県内の発見されやすい場所にこれ見よがしに捨てて捜査のかく乱を図るとともに自己を顕示し、頭部を人に発見されにくい山中に捨てて犯跡の隠ぺいを図るなどしたものとみることができ、被告人の冷静かつ冷酷で、自己顕示的かつ大胆な態度をうかがわせるものであること、以上を認めることができる。そして被告人の捜査官に対する供述は、整合性に一部欠けるところはあるが、犯情が悪質とみられる要素をできる限り否定しようとの態度をうかがわせるにとどまり、全体としては整合性が保たれており、信用性も高い。被告人の捜査官に対する供述によって、被害者の各遺棄現場や殺害現場などが判明するに至ったものであって、被告人の捜査官に対する供述は、捜査官がは握していなかった右のような極めて重要な事実につき自ら真実を語ったものである。被告人の供述には、体験した者でなければ語り難いと思われる内容が多く含まれている。また各犯行の自供の経緯は自然で、被告人が捜査官の意向に合わせるままに供述したのではなく、自らの判断で供述したことをうかがい知ることができる。取調官が被告人に暴行を加えるなど、被告人の意思を制圧して一方的に供述を押し付けるなどした疑いがあるとは認められず、自ら体験し記憶している事実を基にし、その中で犯情が悪質とみられる要素をできる限り否定して自己の刑事責任の軽減を図ろうとの意図をも交えつつ、自らの判断で述べたものと認められ、基本的に、その信用性は極めて高いものと認められる。これに対し、被告人の公判延での供述は、客観的事実とのかい離が著しく、本件各犯行の動機・目的、態様、計画性、自己顕示と捜査かく乱の意図等との整合性にも欠ける上、弁護人と検察官からの質問に対する供述とで重要な事項につき一貫性に欠ける部分がみられ、かつ、検察官からの質問に対し殊更的を外した応答が見られるなど供述態度に率直さが欠けており、そのまま信用することは到底できない。

一、被告人の本件各犯行時における精神状態と刑事責任能力

本件一連の犯行における被告人の行動は、極めて冷酷かつ非情なものであって、その意味では異常なものであるが、それなりに了解可能なものであり、被告人は、女児を連れ歩いた事件で現行犯人として逮捕されるまでの間、自己が犯人であることに直接結び付くような証拠を残すことなく、一年足らずのうちに、四回もの誘拐・殺人等の犯行を反復するとともに、大胆にも今野真理らの遺族に犯行を告知する行為を繰り返し、かつ、この間、家族等周囲の者らにも、自己の犯行に気付かれることがなく、捜査の網をかいくぐって立ち回ってきたものであって、被告人が本件各犯行当時病的な精神状態にあったことをうかがわせるような事情は見受けられない。本件各犯行当時ころに至るまでの間及び本件各犯行当時ころの被告人の生活状況等からは、被告人の、他者との協調性の欠如、自己中心的な態度、易怒性等を認めることができるが、それ以上に、被告人が病的な精神状態にあったことをうかがわせるような事情は見受けられない。慶応義塾大学教授保崎秀夫ら六名の共同鑑定意見によれば、被告人は、少なくとも、逮捕前は、奇妙な説明はしておらず、逮捕後にされた犯行に関する説明は、了解できるものであって、記憶はほぼ保たれていたと思われ、犯行時には、性格の極端な偏り(人格障害)以外に特に精神病的な状態にあったとは思われないとして、被告人は完全責任能力を有していたと判断し、鑑定時には、簡単なことも分からないと言ったり、年齢よりも子供っぽく感ぜられたり、矛盾することを述べて追求されると分からないと言ったり、一見すると退行しているように見えても、結構周囲の状況はは握しているようであり、合目的的な内容が多いことから、拘禁の影響が強く現れている状態(拘禁反応)であって、精神病状態にはないとしている。右保崎ら鑑定には疑問とすべき点はなく、簡易鑑定とも一致し、十分納得できる。

これに対し、帝京大学教授内沼幸雄及び東京大学助教授関根義夫の共同鑑定意見によれば、被告人は、犯行時、手の奇形をめぐる人格発達の重篤な障害のもとに敏感関係妄想に続く人格反応性の妄想発展を背景にし、祖父死亡を契機に離人症及びヒステリー性解離症状を主体とする反応性精神病を呈しており、心神耗弱の精神状態にあったと判断し、鑑定時も同様の状態にあるとしている。しかし、同鑑定は、被告人の公判段階における供述をそのまま犯行時の体験として理解したことによる所見であるが、被告人の公判段階の供述は拘禁の影響による妄想的説明であって、これらの症状は、真実犯行時の体験として存在したものでなく、被告人が述べる精神的諸症状も犯行時に存在したものではないから、同鑑定の所見はその基本的立場に疑問がある。同鑑定は、祖父死亡を契機として被告人が多彩な解離症状を示しているというが、祖父死亡後の被告人の日常生活を見ても、祖父に対する愛着を示す行動は若干あったものの、病的に異常な言動は認められないし、被告人が祖父の死亡によって影響を受けたことは否定し難いが、反応性の精神病を呈するほどの精神的衝撃を受けたとは思われない。また、同鑑定が指摘する人格変換(多重人格)についても、被告人の公判段階における供述が真実の体験供述ではなく、本件各犯行は、いずれも性的欲求の充足という目的に沿った性犯罪であって、被告人のかねてからの性的関心に照らして矛盾はなく、被告人に人格変換をうかがわせる形跡は見当たらないのであり、同様の犯行が四度も繰り返されていることにも照らすと、各犯行時に人格変換が生じていたとは思われないし、祖父死亡後被告人の日常生活において、周囲が被告人につき別人格の出現に気付いてこれを指摘したり、奇異に思ったりしたような形跡は見られず、本件捜査及び公判段階においても、被告人に別人格が現れたような形跡はない。したがって、内沼・関根鑑定は採用できない。次に、東京大学助教授中安信夫の鑑定意見によれば、被告人は、犯行時、精神分裂病(破瓜型)にり患しており、分裂病症状の易怒性ないし攻撃性のこう進が動因のごく一部として、情性欠如が抑止力の低下として関与したとして、心神耗弱(ただし、免責される部分は少ない)状態にあったと判断している。しかし、同鑑定は、被告人の高校時代からの関係・被害念慮、注察念慮はそのころ発病した分裂病の軽微な陽性症状で、保崎ら鑑定後に発現した家族や不明の他者への被害妄想は分裂病の明らかな陽性症状というが、高校時代に存在したという関係・被害念慮、注察念慮に関しては、被告人は、高校時代以降も破たんせずそれなりの日常生活を送っており、これらを手の障害に起因する被害感や劣等感と明確に区別して、分裂病の陽性症状とみてしまうには疑問がある。家族への被害妄想についても、両手の障害に起因する両親への強い敵意の延長上とみることができ、他者への被害妄想も拘禁状態下で被害的な心情を拡大したことによると考えられる。その他同鑑定が分裂病の陽性症状と指摘するのも、拘禁反応と区別して分裂病性の症状とみるには疑問がある。同鑑定が保崎ら鑑定の後分裂病が増悪したとする点も、保崎ら鑑定以後に被告人に周りから見て明らかな精神症状の悪化があったとはいえず、被告人の拘置所での日常の言動にも異状な変化はなく、結局、こうした症状は保崎ら鑑定の段階で既に現れていた拘禁反応による精神状態の延長として理解できる。また、中安鑑定のいう集中力、意欲の低下、感情鈍麻等の分裂病の陰性症状の進展についても、高校時代から大学卒業後竹内印刷勤務を経て家業を手伝っていたころの日常の生活、友人関係、家族への態度等をみると、同鑑定のようには評価できない。本件一連の犯行における行動は、それなりに了解可能であり、一年足らずのうちに、家族始め周囲の者に誰一人として不審を抱かれず四件の同種犯行を反復してきている上、拘禁されると、捜査段階では概ね犯行を認めたものの、公判段階で、夢のようだ、覚えていないなどと次第に犯行を否定していき、拘禁状態が続くうち妄想的な説明を漸次付加、発展させており、精神分裂病者が凶悪な犯行を犯した状態とは考え難い。さらに、中安鑑定が、犯行時分裂病による思考障害はほとんどなかったとする一方で、感情障害が著しかったとする点も、関根鑑定人の意見及び保崎鑑定人の意見に照らし首肯し難く、中安鑑定も採用できない。単純型分裂病にり患していたとの弁護人の主張も採り得ない。

以上のとおり、被告人は、本件各犯行当時、性格の極端な偏り(人格障害)以外に反応性精神病、精神分裂病等を含む精神病様状態にはなく、事物の理非善悪を弁別する能力及びその弁別に従って行動する能力を有していたと認められるのであり、完全責任能力を認めるのが相当である。

一、量刑の理由

本件一連の犯行の動機・目的は、主として、強い性的欲求に基づいており、これに遺体陵辱の場面等を撮影した他人が持っていない珍しいビデオ等を所持したいという収集欲が伴ったもので、浅ましいというほかなく、同情の余地は全くない。成人女性の代わりに、無邪気で人を疑うことを知らず抵抗する力のない幼女らを自己の欲望充足の対象にした被告人の心底はまことに卑劣である。誘拐の手口は巧妙、大胆で、殺害の方法も残忍であり、死体損壊の態様を含め、冷酷非情極まりない。殺害の態様も、まことに無慈悲かつ残忍といわなければならない。殺害前には欲望をむき出しにした姿を見せている。遺体をひもで縛ったまま山中に遺棄したり、遺体をバラバラに切断して遺棄するなど、人としての尊厳を踏みにじる態度には目を覆うものがある。

子供を失った遺族の悲嘆、衝撃がいかに甚大であったかは言うに及ばず、その精神的苦痛は到底いやされようもない。被告人に対し極刑を希求しているのも当然である。

被告人は、自己の犯行に関する報道に対応して、これを遊びの題材にしつつ、子供の安否を気遣う遺族の元に遺骨を焼いて届けたり、犯行声明文や告白文等を郵送してあと一五年は捕まりたくないなどとうそぶき、遺体を切断してその一部をこれ見よがしに遺棄したりして、遺族や社会をちょう笑するなどしており、こうした被告人の反社会的な人格態度、遺族の心情を思いやることのない非情さも、決して看過することができない。

なお、被告人は、捜査段階では一応事実を認めていたものの、公判段階では夢の中のようなことだと思うと言って自己の刑事責任を逃れようとする態度に終始するに至り、現在拘禁の影響が強く現れ、被告人の口から被害者及び遺族らに対する一片の謝罪の言葉も聞くことができない。

被告人は両手に生来の障害があり、両親の適切でない対応もあって幼少時から一人で悩みを抱え込み、祖父母や両親の不和など情緒的に恵まれず、長男として甘やかされ適切なしつけを受けずに成長したため、人格のゆがみを形成するに至った。これが本件犯行の背景にあると認められるとともに、同情を覚える面があることは否定できないこと、残忍さや性的興味を売りものにした映像や出版物が巷間にあふれ、幾ばくか影響を与えた面もあること、母親が被害者の氏名を紙に書いて日々祈り謝罪しながらめい福を祈っていること、被告人宅の敷地を引き当てにするなどして合計800万円を工面し、遺族らに対する慰謝の措置の一部として各200万円ずつ送金し受領されていること。

世間から厳しい非難の目を向けられ、父親がその重圧に耐えかねて自ら命を絶つに至り、今は母親と妹二人がひっそりと身を寄せて生活していることなど被告人のために酌むべき事情もある。しかし、犯行の回数、動機、社会に与えた影響などにかんがみると、被告人の刑事責任はまことに重大というほかなく、死刑を選択する以外に刑の量定をすべき途はないといわざるを得ない。

死刑確定

弁護側は判決を不服として即日控訴した。

2001年(平成13年)6月28日東京高裁は1審の死刑判決を支持して、弁護側の控訴を棄却する判決を言い渡した。

河辺義正裁判長は、最大の争点だった刑事責任能力を認め、「まれに見る凶悪非道な連続犯行。極刑はやむを得ない」と指摘した。1審段階で行われた3通りの精神鑑定を検討し、「責任能力は不完全」とした2つの鑑定について「信用出来ない被告の法廷供述を基にしている」「被害妄想は逮捕後の拘禁反応と考えられる」などと疑問視する判断を示した。その上で「極端な性格の偏り(人格障害)はあったが、精神病状態ではなかった」とする鑑定を「客観事実と整合し、疑問とすべき点はない」と述べて採用し、完全責任能力があったと判断した。

7月10日、弁護側は1審に続いて、死刑を言い渡した東京高裁判決を不服として上告した。

2006年(平成18年)1月17日最高裁第3小法廷(藤田宙靖(ときやす)裁判長)は、被告側の上告を棄却する判決を言い渡した。判決文はA4判でわずか3ページで、「被告に責任能力があるとした1、2審の判決は正当として是認できる。自己の性的欲求を満たすための犯行で、動機は自己中心的で非道。酌量の余地はない」と宮﨑を断罪した。

午後3時過ぎ、東海女子大教授(心理療法)の長谷川博一が東京拘置所で宮﨑に面会した。宮﨑は長谷川から最高裁の結論を聞き、即座に「何かの間違い」と切り返した。前年の夏から宮﨑と手紙を交わしてきた長谷川教授によると、宮﨑はほおがこけ、顔はしわだらけで髪の毛も少なくなり、事件当時の面影はないという。約15分の面会の間、宮﨑は左手でほおづえをつき、決して目を合わせようとしなかった。さらに、「どこが間違いか」と聞くと、「残忍だと思われたんじゃないか」と言い、今後については「何もしない」「そのうち無罪になる」と答えたという。

1月26日、宮﨑の弁護人が最高裁に判決を訂正するよう申し立てた。規定では、弁護人らは最高裁判決に誤りを発見した場合、判決の翌日から10日以内に訂正を申し立てられる。

2月1日、最高裁は判決訂正申し立てを棄却する決定をした。これで死刑が確定した。

6月6日、宮﨑が月刊『創』(創出版)編集部に手紙を寄せ、「死刑は絞首刑をやめて薬を使用すべきだ。法律も残虐な刑罰を禁じている」などと主張していることが分かった。7日発売の『創』7月号に掲載された。月刊『創』によると、手紙は5月2日付と16日付で、母親を通じて編集部に届いた。死刑判決を受けた他の事件の被告名を挙げ「絞首刑を執行される時は恐怖とたたかわねばならず、反省のことなど考えなくなる。薬を使用すれば反省や謝罪の言葉を述べる確率もだんぜん高い」などと述べている。約10年にわたって文通を続けている月刊『創』の篠田博之編集長は「死刑について書かれた手紙は初めて。判決が確定し、死刑を意識するようになっているのではないか」と話している。

2008年(平成20年)6月17日、東京拘置所で死刑が執行された。45歳だった。

同日、弁護人の田鎖麻衣子弁護士は、「数ヶ月前から再審請求の準備を進めていた。こうした事情を知りながら、死刑を執行したことに強く抗議する」とのコメントを発表した。5月末には鳩山邦夫法相に書面で刑を執行しないよう要請していたという。宮﨑は東京拘置所で精神科の治療を受けていたといい、専門家に意見書の執筆も依頼していた。

宮﨑勤の著書に『夢のなか 連続幼女殺害事件被告の告白』(創出版/1998)がある。第1章は宮﨑と月刊『創』の編集者の間で交わされた書簡をまとめたもの。第2章は宮﨑のところに寄せられた手紙をまとめたもの。宮﨑はこの部分をメインにした本を出したいと考えていたようだが。第3章は、第1審公判における宮﨑の供述要旨。第4章は「解説」で、大塚英志香山リカによる文章の他、芹沢俊介山崎哲による対談が収録されている。 さらに、『夢のなか、いまも』(創出版/2006)を上梓。こちらは控訴審から最高裁死刑判決の翌日頃までの宮﨑の告白を収録。判決をめぐる識者の論評や宮﨑の未公開の幼少時の写真やイラストも多数掲載されている。

幼少期に宮崎勤死刑囚と遭遇した話

幼少時、私は宮崎勤死刑囚に遭遇している。

これまでこのことについて他人に話したことはほとんどなかったけれど、死刑執行された今後、もう話題に上ることもないだろうと思うとふいに記憶が惜しくなった。

21年前、小学2年生の時だ。幼なじみと近くの林で遊んでいた。道路のすぐ横が斜面になっていて、そこの土は他と違って粘土質で土遊びにもってこいだったため、私たちの格好の遊び場だった。

斜面は道路を隔てて中学校と住宅に面していた。とはいえ繁華街からは遠く離れており、人通りは多くない。
住民以外は滅多に見かけない土地柄だった。当然、知らない人にはついて行かないようにと教えられていた。

見知らぬお兄さんが、道に迷ったといって私たちに声をかけてきた。
小さな白い車に乗ってきたらしく、地図を広げて「○○公園って知ってる?」と聞いてきたのだった。

お兄さんが探している公園は私たちの通う小学校に隣接していて、この住宅地の中では一番大きな公園だった。家からは子供の足で20分はかかる。
よく知っている公園なので、私たちはすぐにお兄さんに道を教えることができた。

「やっぱりよくわからないから、車で一緒に乗って行ってくれない?」

「でも知らない人の車に乗っちゃ行けないって言われてるから」

私たちは断り、もう一度道を説明した。だがお兄さんはその場から離れようとはしなかった。

「まだ時間があるから、一緒に遊ぼうよ」

「何時まで?」

「4時に仕事があるから、それまで」

私も幼なじみも時計を持っておらず、5時に消防署のサイレンが鳴ったら帰ってきなさいと言いつけられていた。
知らないお兄さんと遊ぶのに警戒心がなかったわけではないはずだが、4時までと時間を区切られたことに安心したのだと思う。

「じゃあいいよ、一緒に遊ぼう」

私たちは彼を受け入れた。

しばらく3人でしゃがみ込んで土をいじっていたが、お兄さんが「この崖の奥はどうなってるの?」と立ち上がった。
粘土質の斜面を上がると木が生い茂り、ちょっとした探検気分が味わえる林になっていた。

「ちょっと見てみたいから、一緒に行こうよ」誘われて、林の中に入っていった。

大人の足は、子供の踏み入れたことのない場所まで分け入ってしまう。

「この先は行ったことがないから怖いよ」

「今何時? 公園に行かなくていいの?」という私に、彼は

「大丈夫だよ」

と気にせずどんどん林の深くに進んでいく。私は不安だった。
大人の目の届くところで遊ぶつもりが、知らないところで知らない人と遊んでは母の言いつけを破ることになる。
知らない人と遊ぶことがどうしていけないのかきちんと考えもせず、ただ言いつけにそむく後ろめたさが不安の理由だった。

やがて少し開けたところに出、花か草かを摘むためだったか、私たちはまたしゃがんで遊び始めた。

3人で車座になり、そこで私たちはお兄さんに名前を聞いた。
お兄さんと私と幼馴染の苗字には共通点があった。3人とも「宮」の字がつくのだ。

「一緒だね」

「おそろいだね」 そう言い合った。それで私は彼に親近感を覚え、不安は薄れた。

お兄さんは特に何をするでもなく私たちが遊ぶのを見ていた。
そのうち私は、妙にお尻がくすぐったくなってきた。
木の枝でも当たっているのかと見てみても、それらしきものはない。
変だな、変だな、と何度か思ううち、それがお兄さんの手のせいだと気づいた。
スカートの下に手をもぐらせて、ブルマーの上からおしりを撫でているのだった。

子どものおしりを触る大人というものが私には不可解だった。
大人の男の人は大人の女の人のおしりを触るもので、それがエッチなことであると知ってはいた。
そのはずが、なぜ子どもを触るのか、お兄さんの行為が不思議だった。

私は触られるのがいやだと思った。変な触り方をするからだ。
くすぐるようにこそこそと撫でるのでむずがゆかった。
だが抗議をするのに少しためらった。

大人の女の人は大人の男の人におしりを触られたら怒るものだ。
クラスの男子にスカートめくりをされたら、女子は怒るのが当然だ。だが、大人が子どもに触るのも同じように怒っていいのだろうか。

このあたりの葛藤は今でもよく覚えている。
このころはまだ、ペドフィリアというものの存在が今ほど広く認知されていなかったせいだろう。
子どもにいたずらする大人はいるにはいたし、母親たちもそれを警戒していただろうが。

私たち子どもには「知らない大人についていかないのは誘拐されて身代金を要求する悪い人がいるから」だと教えていた。
幼児に性欲を向ける大人の存在は子どもたちには隠されていた。
その存在が大きく世間を騒がせるのは宮崎勤事件以降のことだ。

ついに私は勇気を出して声を上げた。

「おしり触ったでしょー」

「触ってないよ」

「触った!」

「いいじゃない、ブルマはいてるんだから」 驚いたことに、幼なじみも彼のこの言葉に賛同した。

「そうだよ、ブルマはいてるんだから」

幼なじみは私よりもさらに世知に疎く、幼かった。
彼女には年の離れたいとこがたくさんいたから、お兄さんに遊んでもらうのに警戒がなかったのだろう。

今ならそんな言葉に言いくるめられるわけがないが、幼なじみの援護もあって当時の私は納得した。これ以上抗議するのも大人ぶっているようで恥ずかしかった。

何度目かの私の「今何時?」攻撃にお兄さんは重い腰を上げ、3人は林を戻り始めた。
私たちは元の斜面に出たところでさよならのつもりだったが、お兄さんは

「まだ遊べるよ」と言う。

「お仕事でしょ? いいの?」

「なくなったんだ」

携帯電話の普及していない時代だ。彼の言い分は不自然だった。
父の姿から、大人にとって仕事は何より大事なものだと思っていた私に、また彼への不信感が芽生えた。

「ここじゃなくてもっと広いところに行こうよ」

「どうして?」

「ボールがあるから、それで遊ぼう」

彼はゴムのボールを持っていた。野球ボールくらいのサイズだったと思う。

「○○公園は?」

彼は最初に尋ねた公園を挙げた。

「そこは遠いよ」

「車に乗っていけばいい」

「知らない人の車に乗っちゃいけないって言われてるから」

「もう知らない人じゃないでしょ」

「でも……5時になったら帰ってきなさいって言われてるから」

私の抵抗に比して、幼なじみはあっさりしたものだった。

「××公園なら近いから、そこに行く?」

と彼に提案し、私もその案に妥協した。
彼と遊ぶのが楽しいらしい幼なじみを見ていると自分の警戒が的外れなように思えて、ブルマの言い訳同様彼女に従ってしまった。

車には乗らないと私が強情を張ったので、公園まで3人で歩いた。
公園には時計があった。正確な時間は覚えていないが、4時は回っていた。
しばらくキャッチボールをして遊んでいると、大きなサイレンが鳴った。消防署のサイレンだ。

「5時になったから帰らなきゃ。Mちゃんも帰ろうよ」

私は幼なじみに促した。それなのにお兄さんは、

「まだ明るいから平気だよ。それよりもっと広いところに行こう。やっぱり○○公園に行かない?」 と誘ってくる。

私は刻々と時計の針が5時を過ぎることに落ち着かず、とにかく帰る、と繰り返した。

「Mちゃん、帰ろう」

Mちゃんが誘拐されたらどうしよう、となんとか一緒に帰るよう幼なじみを口説いた。
幼なじみは迷っているようだった。同じく門限は5時だったが、お兄さんの誘いも魅力的だったのだろう。
私はこれ以上、母の言いつけを破るのはいやだった。

「私、帰る!」

帰ろうとしない幼なじみを置いて、私は走って公園を出た。
早く帰らなきゃ、と思う頭の片隅で、幼なじみを置いてきたことが気がかりだった。

家に帰ると、母が夕食を作っていた。

「おかえりー。だれと遊んできたの?」

「Mちゃんと」知らないお兄さんのことは言わなかった。

何日か後、部屋で遊んでいる私のもとに深刻な顔をして母が入ってきた。

「あんた宮崎さんって知ってる? こんな手紙が入ってたんだけど……」

母の手には、折りたたんだルーズリーフが握られていた。

「あっ! この間、Mちゃんと一緒に遊んだ人だよ」

私はばつの悪い思いをしながら、母に説明した。母は眉を曇らせながら聞いていた。

「最近見かけない車がこの辺をうろうろしてたけど、その人だったのかもね。あんた宛にこんな手紙がポストに入ってるから、何があったのかと思った。そういうことはちゃんと言いなさい」

「ごめんなさい、車に乗らなかったし、5時に帰ってきたから大丈夫だと思って」

「それはえらかったね。それにしてもMちゃんも無事でよかった」

そう言って、母は幼なじみの家に電話をかけた。
あのあと幼なじみも私の直ぐ後に帰り、同じような手紙が入っていたらしい。

大人たちは真剣な面持ちで何度か話し合いをしていた。
家を突き止められた以上また会いに来るかもしれないが、今度こそ大人を呼ぶようにと言い含められ、手紙は母の管理化に置かれた。

ことが大人の手に渡れば、子どもが心配するようなことはないと思った。私はそれきりそのことを忘れた。

2年後、私は4年生になっていた。テレビから連日、幼女誘拐殺人事件の報が流れていたある日のことだ。

お風呂上りにテレビを見るともなしに眺めていた。
相変わらず、宮崎勤容疑者が映っていた。画面の中から、彼の青白い顔がこちらを向いた。

その瞬間、経験したことのない感覚がぞーっと駆け巡った。冷や水を浴びせられたような、とはあのような感覚を言うのだろう。あのときはそんな言葉もしらず、混乱して呆然と突っ立っていた。

「あのときの人だ!」

宮崎勤の顔を見たのはこれが初めてではなく、何度もテレビで目にしていたのに、なぜ今まで気づかなかったのか。

受けた衝撃は言葉にならず、私は黙って自分の部屋へ引っ込んだ。

1人で2年前のお兄さんの顔を思い出そうとしてみるが、はっきりと思い描けない。色の白い、穏やかそうな印象しか覚えていない。

ただ似ているだけの人だろうか。だが私はさっきの戦慄で確信していた。あれは宮崎勤だったのだ。

それから、母に一度、幼なじみに一度、話したことがある。人に言っても信じてもらえないだろうと思っていたから、打ち明けるのに慎重を要した。

「2年生のときに会ったお兄さんを覚えてる?」

母は、「あのときの手紙、どこかにまだあるはずだけど。あれが宮崎勤だとしたら、殺されてたのはあんただったかもしれない」

と言って恐怖を分かち合ってくれた。

幼なじみは、「そうだった? あのお兄さん、山口さんって言ってなかった?」 と反論した。

いずれも、2度は話題にしなかった。 私の勘違いならそれでかまわないのだ。
小さかった私に起こった奇妙な出来事と、例の凶悪犯と、接点がないならそれに越したことはない。

普段は忘れているが、ふとした折、4年生の私の体を襲った心底からのショックを思い出す。
あれはなんだったんだろうかと。
あのお兄さんが宮崎勤でないなら、私が受けた感覚はなんだったんだろうかと。

著作

雑誌『創』編集部との往復書簡を掲載したものが出版されている。

  • 夢のなか - 連続幼女殺害事件被告の告白 -1998年12月 創出版 ISBN 9784924718302
  • 夢のなか、いまも - 連続幼女殺害事件元被告の告白 - 2006年2月 創出版 ISBN 9784924718722

関連項目